三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

旭川の「北京」計画

2011年06月12日 05時26分24秒 | Weblog







最近知ったのですが、
旭川にはいくつかの変わった名前の街々がありますね。
御料とか、神楽とか、聖野とか、八千代とか、
皇室を連想するような名前がある。
ちょっと奇異な気がしていたのですが、
調べてみると、「上川離宮」計画、というものにたどりつきます。
開拓の初期、旭川に西の京都、南の奈良、東の東京と並んで、
北の京にしようという計画があったのですね。
閣議決定もされていたということですから、
本格的な話。
ところが、さまざまな思惑と経緯があって、実現されなかった。
写真は、上川神社敷地に建てられている案内です。
旭川というのは、北海道の最高峰、大雪山をはるかに遠望する
盆地上に幾つもの河川が流れている要地。
そのうえ、幕末・明治以来の仮想敵国・ロシアに対しての最前線基地的な地域であり、
日本の国家意識にとって、
枢要な位置関係にある街であるのですね。
明治の時代って、こういう国家意識が異常に沸騰した時代意識があったのですね。
こうした閣議決定に踏まえて
多くの人たちが旭川の発展を見越して
移住してきたりしたのだろうとも思います。
実際に明治末に、皇太子が旭川に行幸もしているそうです。
そうした結果、開発のスピードが速まった、という側面もあったそうで、
一定の政策効果はあった、というように言われています。
こういうエピソードからも、
明治の時代にとっての北海道の位置、というのは
やはりきわめて特殊性を持った民族的な認識だったのでしょう。
日本人の中に刷り込まれた「北海道」という地域への感覚の底には
こういったさまざまな歴史的事実が積み重なっているのですね。
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