本日はしばらく書けなかった「北海道住宅始原の旅」シリーズです。
書けなかったのにはいろいろ忙しかったということもあるのですが、
特徴的な「住宅」ということで屯田兵屋とかを書き続けてきて
開拓使の長官邸、名前だけは記録に残っている「ガラス邸」について
さまざまに調査活動をしているのですが、なかなか進まないのであります。
岩村通俊や、その後の長官・黒田清隆などが札幌にいるときは
この建物を使ったに違いなく、また例の「御用火事」についての記録文でも
「ガラス邸前あたりから・・・」という一般固有名詞として
いわば「みんなが知っているあの建物」みたいに書かれている。
ところが、この建物がどういう建物だったか、記録が見えない。
北海道住宅始原の旅プロジェクトとしては、まことに画竜点睛を欠く。
「我流がいいところで、そんな画竜なんて」とヤジが飛んできそうですが(笑)
どうもココが気に掛かって仕方がないのです。
そういうわたしの悩みの理解者、建築研究者の高倉さんからヘルプで、
北海道の建築界の錚々たるみなさんが共同執筆されている
学術論文がありがたくも送られてきました。
「明治前期洋風住宅の平面計画の基本形に関する研究」というもので、
主査が駒木定正先生で、小林孝二・山之内裕一・中渡憲彦各氏が「委員」の論文。
そのなかに「勅奏邸」という、どうも胸騒ぎを憶える名の建物の情報。
勅奏というのは「① 天皇が仰せになることと、天皇に申し上げること。
② 〔「勅奏官」の略〕 天皇の文書を取り扱う役人。」ですから、
「開拓使」の長官なり代表者なりが利用する建物と比定させることにムリはない。
長官職は中央政権の閣僚なので北海道現地には常住せず、
基本は代行者が現地駐在なので、長官邸とせず勅奏邸とするのは理解出来る。
その論文に掲載された写真と図面を示してみたのですが、恐縮ですが
なにせPDFで圧縮された画像データの「復元」なので鮮明ではありません。
論文でのこの建物についての記述は要旨以下の通り。
「勅奏邸の建物の構成は主屋と背面の付属家からなり、主屋は切妻平入りで、
ファサードを左右対称として中央に玄関を据え、その両側を吹き放ちの縁とする。
縁に裳階状の庇と両端部に戸袋を設けているのは和風住宅の引用と推察される。」
(引用以上)・・・ということで、戸袋があるなら雨戸が仕込まれていた。
それは和風住宅仕様で、洋風建築のキー建材「ガラス」がイメージしにくい。
しかし、主題としての「洋風住宅」認識は下地にはある。
縁の中側に主屋居室があったワケで、その居室が半外である縁との仕切りに
ガラスの「窓建具」で区切られていたのでは、という想像は湧いてくるけれど、
そういった記録がまだ発見確認できない。
写真を見ると、縁越しに縦長の「窓」が見えている。
ここにガラスが嵌め込まれていたのではないか。
初期のガラス窓は障子建具代用の考えから「戸袋」も併設された?
新時代を感じさせる住宅建築としてのランドマークにガラスを利用。
だから「ガラス邸」という通称名が流布されたと睨んでいるのですが・・・。
どうもこれっぽくね、という私設「鑑定団」見解なんですが、
イマイチ、まだ決定打には至っていないかなぁというところ。ううむ。
どなたか「ガラス邸」について情報をお持ちの方、教えてください!
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