三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

美しい雲、空気感から

2013年08月21日 05時34分07秒 | Weblog



ことしは明確な「梅雨明け」は、東北北部であったのかどうか、
盛夏を過ぎてもなお、暴れ回るような天候が各地で続いていますね。
北海道で本格的な入道雲、それもくっきりとした男性的なお姿を見ることは
あんまりないのですが、雨の合間に
西日も受けた神々しいお姿を一瞬、目にさせていただきました。

「風たちぬ」という宮崎駿さんの最新作が話題です。
不勉強でわたしはまだ観ていないのですが、
内田樹さんのブログを読んでいたら、その感想文が掲載されていて、
その内容に痛く、同感させられました。
戦前までの日本社会がゆったりと持っていた自然との共感の時空間について
それを「映画としてしか表現できない世界」として
宮崎さんは描きたかったに違いない、という論旨でした。
このこと、宮崎さんの作品には一貫して描かれていることで
内語として同意していた部分だったのです。
それをくっきりと内田さんは言葉にしたと思いました。
現代がなくしたものは数多いと思いますが、
風土、という言葉が表現する、風の質感、空気の手触りのようなもの、
そういうかけがえのないものを愛でるこころが、
わたしたちの日常生活から激しく脱落していっている実感はすごく共感する。
農薬を使わず、人手をかけて美しく管理され続けてきた田畑の生み出す清浄感。
その土から、豊かな水分が強い陽射しの中、空気に吸い込まれていって
そこに重いけれど、軽さもある風が吹き渡っていく。
それを敏感な感受性でみんなが受け止めて、共有認識としていた。
そんな豊穣な世界観を、わたしたちは確実に失ってしまったのだと思うのです。

網野善彦さんの著作を読むと
日本人は過去、いくつかの精神世界の大転換を経験しているそうです。
とくに大きな転換は、中世から近世、戦国初期からの転換のようです。
そこでは、大きな要素として貨幣が日常生活レベルで使われはじめての意識転換が
大きい要素として語られていました。
それまでの「交易」から「商売」に大転換した,ということなのかも知れません。
人間の暮らしを貨幣ですべて表現することに同意した、みたいな。
14~15世紀にかけて、
「日本人は変わった」という歴史認識を網野さんは指摘しているのです。
その大転換以上の大きな変化が起きているのが、いちばん直近の戦後以降のようです。
どうも、はじめに書いたようなことがその実質であるとすると、
なんと巨大な欠落をわたしたちは経験することになるのか、
深く、思いを致さざるを得ないと思います。
しかしまだ、こんな写真のような「機縁」は存在するのではないか。
人間世界はどんどんバーチャル化・「頭の中だけ化」が進行しているけれど、
自然は、なにかを垣間見せてくれているのではないでしょうか?






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内耳炎

2013年08月20日 05時04分27秒 | Weblog



やはり年齢と共に、いろいろカラダにガタがきております(泣)。
以前から、耳に滲出性の水分発生が認められたのですが、
その旨、ある耳鼻科で申し立てても、満足のいく回答がなく、
炎症を抑える点耳薬を1本、処方されただけだった。
たくさん病院にかかっていると、それがどこだったのかも忘れるのですが、
しかしその後も、どうも耳の中が炎症を起こし続けている。
「耳の中に水がたまる」
「そんなことは聞いたことがない」
なんか、おかしなことを言うヤツだ、というような表情をされたのですね。
そう言われると患者側としては、やっぱり俺がおかしいのかなぁと思う。
仕方ないから、泣き寝入りじゃないけれど、
まぁこんなこともあるのかなぁと、諦めているしかない。
そんな経過をたどっておりました。

で、ここのところ、その状況がどうもよくない。
また水がたまるように思われるので、綿棒を使ってしまう。
どうもそれもあって、耳の中が炎症を起こしてしまっているようだ。
そういうことでやむなく、最近家族が看てもらった病院へ。
で、くだんの話をしたら、
ビックリされて、「それはどこの病院ですか?」とまで言われてしまった。
やはり立派な病気のようで、
治療方針を指示されて、1週間の経過後、再診しますということになりました。
自分の体のことは、ある程度は自分で調べて見なければなりませんね。
そういうときにインターネット、Wikipediaは役立つ。
完全に正確かどうかはわかりませんが、おおよその方向感覚はわかる。
調べてみたら、「滲出性中耳炎」というような病気は見つけることが出来た。
「耳の中に水がたまる」
っていう症状は、ちゃんと存在しているのですね。
患者が申し立てているのに、それをきちんと聞かないというのは、
明らかな誤診とも思えますが、
しかし、そんなことを言い立ててもトクはしない。
これから、信頼できると思われる医者と話し合いながら、
この病気と付き合って、治していきたいと考えております。

しかしまぁ、年ですねぇ・・・。
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GMT工務店って、どうだろう

2013年08月19日 16時25分13秒 | Weblog



わたしの関係する住宅マーケットでは、
ほかの日本の産業分野すべてで進行した「寡占化・集中化」という
資本主義競争・企業間格差の進行が一定のところでストップした。
住宅というのは、抜けがたくその「土地」に「根付いて」建てられることから
その地域の気候風土や慣習、ひとびとの在地意識が大きな要素になっている。

ほかの産業マーケットでは、おしなべてスケールメリットがすべてを凌駕して進行した。
大きいことはいいことで、大メーカーはそうなるに足る理由があって
大きな支持を市場から集めたのだという認識が広がっていたと思う。
町の小さな小売店舗が瞬く間にコンビニに姿を変えて
その「系列」化旋風が吹き荒れていった。
ごく少数のチェーン店に集中化していって、
個人商店という存在はほとんど市場から退場させられていった。
そこに全国集中した方が合理的だという判断が存在する限り、
寡占化は、どうしても進行する性質を持っているのだと思う。
今の時代は、その寡占化が世界的な規模で進行していて
一握りのグローバル企業が、零細な企業の存続を駆逐していっているのだろう。
スマホ市場からのシェア下位企業の相次ぐ撤退など
このような資本主義の鉄則は無慈悲に貫徹されていっている。

そのようであるのに、なぜか、
住宅というマーケットは、製造業ではあるけれど、
さりとて工場出荷製品だけでは、すべてが置換出来ない要素をたくさん持っている。
ほかのどこでもない、その土地、その場所に住まいは建てられる。
その土地は、あるいは冬にたくさん雪が降るかも知れないし、
火山噴火の降灰が日常的であるかも知れない。
自然風土の諸条件にフィットさせる 
さらにその上、そこに住むことをより楽しいものにしたい建て主がいて
それぞれに希望条件を持っている。
そういった,常に「特殊解」であろうとする条件が存在している。
いくつかの条件では、共通化は可能だけれど、
柔軟に条件にフィットさせる工夫も求められている。
そんなマーケットなのだと思うのですね。
そんな意味で、そのマーケットでの事業者のことを、よく「地域工務店」と呼ぶ。
なんだけれど、どうもこの呼び方では、ニュアンスが違うように思われてならない。
折から、「あまちゃん」では、天才シナリオライターの宮藤官九郎クンが
「GMT~地元のもじり」という地元アイドルという概念に火を点けようとしている。
地域、と書いてきて、どうも違和感を否めなかった(笑)。
そういう違和感が「地元」、あるいはGMTという造語にすると違う言語感覚を放つ。
GMT工務店みたいな言葉の大転換が、起こって欲しい。
そんな妄想を最近抱きつつ、毎朝、手に汗しながらテレビを楽しんでおります(笑)。
どうかなぁ、誰か、言い出さないかなぁ・・・。
でもやっぱり、便乗感は否めないかなぁ、そうだよなぁ・・・。
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日本の神社の風景

2013年08月18日 09時30分33秒 | Weblog



ここんところ、北海道神宮に昼間に行くと
ごらんの写真のような光景によく出くわします。
中国人、まぁ、本土か台湾かはよくわかりませんが、大声の中国語のやり取りで
会話し合っている団体がたくさん来られています。
ヒットしたテレビドラマの影響で北海道の観光は、あちらの方で
人気になっているのだそうで、
一時の反日デモの影響も少しずつ薄れてきているのでしょうか、観光客が増えている。
で、北海道の観光スポットを掘り起こすウチに
神道のスポットである北海道神宮なんかにも、押し寄せるようになって来たようです。
日本の神社というのは、その位置づけがなかなかに難しい存在だと思います。
そもそも、神道というのは日本列島地域に根付いていた「多神教」の残滓でしょう。
ただ、それが明治以来、国家神道というように管理された存在になり
天皇制と結びつきを強めてきた経緯がある。
その時代の為政者層の都合で、そのような側面が強調された。
しかし、一方で全国に約85,000の神社があって、
その境内は、その地域の「公共」空間として長く生活文化と結びついてきた。
そのような自然発生性においては、縄文以来というような土着性がある。
天皇制と完全に一体なのかと言えば、
たとえば出雲大社などは皇室にも本殿内には立ち入れないなど、
そうとも言えないし、各地に存在する「八幡社」は源氏の氏神であるように
各氏族がそれぞれの神社を持っているので、
ほぼそういうことは言えない。
ただ、明治期から戦前までの限られた一時期だけ、「国家神道」的に崇められたに過ぎない。
それは、「帝国主義国家戦争」の象徴としてその時期の為政者が
利用してきた結果に過ぎない。
そういう意味で、存在そのものが玉虫色というものだと思います。

今日の社会に於いては、
そのような国家神道色は完全に後退している。
今日では靖国神社にすら中国人観光客が来たりしている。
まぁ、民衆レベルでは、このような平和な光景が当たり前であって、
そういった「普通さ」が大いに拡張していって欲しいものだと思います。
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また事務所の窓辺にハチが営巣

2013年08月17日 08時32分59秒 | Weblog



きのうはお盆休暇と土日の狭間での出社日。
3日間、時折出入りはしていましたが、
スタッフは休日だった会社事務所ですが、
朝、出社してみて、また異常を発見。
昨年も出来ていたのですが、ふたたびハチが巣を作っていたのです。
当社事務所には東南側道路に面してのカーテンウォール、
大きな開口部がありますが、そこは同じ大きさの木製サッシを4×4枚
連続させているのですが、
そこに営巣していたのです。昨年と同じ場所であります。
最初発見したときは、「なんだろう」とつい近寄ってしまったのですが、
ハチの巣と認識してからはさっと身を翻したつもり。
周辺には、ただならぬ殺気が満ちておりまして、
なぜかいろいろな大きさのハチたちが、終結している。
大型のヤツは、クマンバチのようでした。
そのほか、小ぶりのがたくさんいまして、どうやらその連中が巣作りしている。
どうもクマンバチは、いろいろと騒ぎが起きているのでやってきた
野次馬、ならぬ野次ハチのようであります。
あんまり近寄って確認するとハチを刺激するので
写真は室内側、窓ガラス越しに観察しながら撮影しました。
ガラス越しなので,万一ハチさんたちと目が合っても
襲われる心配はない(笑)。
このあたり、どう猛な連中は動物種を問わず、危険であります(笑)。

こういうの、昨年も駆除屋さんにお願いしたのですが、
ちょうどお盆休みのようで、電話も繋がらない。
やむを得ず、状況の推移を見守っている次第であります。
それにしても、たった3日しか経っていないのに
よくもまぁ、一生懸命に巣を作るものです。
まぁこうして見ていると憎々しげには見えるわけですが、
でもまぁ、必死に種の維持のために戦っている神々しい姿でもあるわけです。
しかし、こちらも建物の維持管理上、戦わざるを得ない。
休み明けには、言葉は通じないけれど撤去を申し入れ(笑)、
その後、すぐに強制排除の強制力を発揮しようと毅然として考えております。
妥協の余地はない。
降ってくる火の粉は払わなければならないのが生存の掟であります。
無慈悲に鉄槌を下す所存であります。
・・・とまぁ、勇ましく考えているのですが、
それまでのいっとき、こうしてガラス越しにかれらコロニーの様子を
スタッフ全員、物珍しげに観察させていただいている次第。
生命活動の実相をいろいろに垣間見させてもいただいているところです・・・。


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日本と東アジア世界-3

2013年08月16日 10時42分40秒 | Weblog



お盆期間中でもあり、こういうシリーズブログを書いていて
ふとフジテレビ系列を見ていたら、
なんと、いま公開中の「終戦のエンペラー」という映画のクライマックスシーンが流されていた。
昭和天皇と連合軍最高司令官・マッカーサーとの会見の模様で
この史実には公式的な記録はない、とされているので、
フィクション、という断り書きを入れながら、
しかし、視聴率の高いフジテレビの朝の情報番組ということもあって、
その内容が、ある意図を持って放送されていることは明らかだと思いました。
日本の敗戦が確定し戦争が終わった記念日の翌日に
いま、東アジア2カ国とのあつれきが高まっている時期に
こうした内容が流されていることから推察すれば、
官房機密費あたりがフジテレビに流れて
公開中の映画の1シーンの放送許諾が得られたのではないかと想定できた次第。
その内容としても、昭和天皇の役者が
「この戦争についての責任は自分一個人にあって、国民にはない」と語り
それを受けてマッカーサー役には
「いや、あなたには、戦後日本の構築のために働いてもらわなければ」
というようなセリフを言わせて、いわば「前向きに」処理されたように描かれていた・・・。

米ソに占領支配され、東西に分割されるという苦難も味わいながら
ナチズムに正面から立ち向かって
国際社会に対して、いわば正面から外交的な立場を表明し続け
平和国家としての認知を受けてきたドイツと比較して
いわばアメリカだけに占領支配され、その後、
アメリカの世界戦略において地政学上の重要な役割を担い続けさせられてきたのが日本。
第2次世界大戦後の同盟した2カ国の状況は今日に於いて
大きな違いが生み出されてきている。
たぶん、日米軍事同盟というものの存在が大きかったのだろうと思う。
アメリカは中ソという共産圏国家群の勢力拡張を抑えるために
米軍を日本に安定的に駐留させ、その世界戦略的利益をなによりも最優先させてきた。
その結果、日本は貿易関係に於いて有利な立場を持ち続け
経済復興はその大きな果実としてもたらされたのだと思う。
しかしいまアメリカにとって日米関係は、世界戦略上の優先度に於いてそう高くはない。
そうであれば、いわば普通の国としての扱いも場合によってはしてくる。
日中韓3カ国関係におけるアメリカのスタンスは
いわば、玉虫色に近いのだろうと思う。
中韓2カ国の姿勢は、いわば「戦後処理」についての
根底的問題の追及が根本にあると思われる。
そのような現実認識に立った上で、日本は東アジア外交「戦略」を十分に国民的規模で練った方がいい。
たぶん、アメリカはこっちの肩をそうは持たないという前提で。
感情論でムキになるのではなくこういう国際関係の中で、
日本としては、どのような立場を構築するのが国家戦略上、有益なのか
冷静な分析と対応力が必要とされるのだと思います。
いわば「普通の国」としての国際関係対応力、外交力が試されている。

お盆休暇につき、以上3回にわたってちょっと拡張したテーマに触れて参りました。
本業に立ち戻りたいと思います(笑)。

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日本と東アジア世界-2

2013年08月15日 05時35分24秒 | Weblog


朝鮮と日本、半島と列島は
たぶん、東アジア世界では長く一体的な関係だったのだと思います。
中国大陸の人口増、社会発展があって、
それへの対応の仕方が、陸続きだった地域と、
海という結界をもった地域とで、考え方が違うようになった。
このことが、民族意志の決定において、より重要な要素になって
次第に「国際感覚」に違いが現れるようになった。
もともと日本という列島地域には、縄文の伝統的社会は形成されていただろうけれど、
その人口維持規模からして、弥生的生産様式を「移住」的に持ってきた
半島、大陸からの流入諸族が形成するコロニー(クニ)が次第に列島社会で優位性を持ち
基底的な縄文社会とが融合するようになっていったのに間違いはない。
そういう意味で、この列島は、アジアに開かれたフロンティア地域だった。
そうした弥生生産様式優位の体制の結果としての
初源的な「倭国」という連合国家体制が形成された頃には、
朝鮮半島の国家群、新羅や百済などの南朝鮮諸国家群と、支配層の意識に於いては
「同族意識」が非常に高かったのだと思われます。
中大兄皇子、後の天智(天皇)の時代には、
同時代の超巨大律令体制国家・唐の勢力伸長があって、
こうした東アジア世界でのパワーバランス・国際関係が極度に緊張していた。
額田王が出征兵士を鼓舞したとされる古代の国際戦争が起こった。
唐・新羅連合軍と、百済・日本連合軍が白村江で戦って、
日本側は手ひどい大惨敗を喫してしまったのだ。
母親が死んで、「大王位」が空席になったにもかかわらず、
天智はこの非常事態の収拾に奔走させられて、即位時期を繰り延べざるを得なかった。
戦勝の機会を捉えて、唐・新羅連合軍が必ず攻め寄せてくると
防衛線の構築に相当の緊張感を持って当たっていた。
この白村江敗戦という国家的衝撃が、その後の「律令」国家形成へと向かわせていった。
「遣唐使」とは、唐との平和共存国家戦略であり、
唐側から見て「朝貢国」という位置づけになったことは間違いがないだろうと思います。
古代における強大な唐という、律と令による明確な法治・軍事超大国への対応に於いて
倭国内部で深刻な対立が起こり、
やがてそれが壬申の乱という内戦を引き起こし、
天智から天武への「兄弟」間での王統の遷移に結果した。
このときはじめて、この列島社会で「東西決戦」が行われて、
東軍の主力、上毛野氏などの勢力を率いた天武が倭国の支配権を握った。
かれは、唐に真似た律令国家・小中華国家を志向し、
同時に国号も「日本」として、国際社会に認定させ、国家体制の構築作業を行った。
遣唐使が、唐朝廷での席次で朝鮮国家と争ったという記録があるのは
こういった国際関係のなかでの出来事のようです。
さらに天武は古事記や日本書紀などの「歴史の編纂」を行い、
「日本国家」の正統性創造に成功したとされている。
伊勢神宮が、皇室に特別のゆかりのある大社であるのは、
この壬申の乱の時の経緯に深く関係している。

これまでの「日本歴史」では、この時期の詳細な解明が
まだ明確ではないと思う。たぶん、本来的な意味での「日本」の成立に関わるので
天皇家のルーツ、禁忌に近づきすぎるということなのでしょうか?
東アジアの国際関係を解明するためには、
しかし、このような歴史の掘り起こしが不可欠だろうと思う。
白村江での大敗戦から、壬申の乱、日本国号の成立、唐からの「認証」など、
この時期の歴史がもっと明瞭に探求されなければならないと思います。

<きょう書いたような歴史の見方は、わたし個人の意見です。歴史学者ではないので
この見方にどこまでの正当性があるのかは、正直わかりません。ただ、
おおむねは、このような流れだったのだろうと認識している次第です。>
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日本と東アジア世界-1

2013年08月14日 05時25分03秒 | Weblog



お盆なので、
ちょっと日常とは違う思考世界にアタマを置いてみたい。

いま、国際政治の中できわめて憂鬱な事態は、東アジア世界での
日中韓3カ国関係だと思います。
国際競技、サッカーの試合での剥き出しの憎悪感情のぶつけられようなど、
また戦後世界の中で経済交流も活発であるのに、
反日という、見たくないような無礼ぶりも頻発しているし、
為政者たちはそういった民族感情を操作しつつ利用もしていると感じられる。
日本人として、どうしてもへきえきさせられる。
日本人の多くが、できればこの地域とはあまり関わりたくないとも考えていると思います。
あらかじめ平和主義を宣言した憲法を持っている国であり、
自らそのような帝国主義的支配意欲を見せたことがない戦後日本国家に対して
あまりにも理不尽な感情のぶつけようだと思います。
戦争を放棄した憲法を持っている国に対して
その安心感から平然と一線を越えるような挑発や恫喝的外交を仕掛けていると思う。
そうした主張を日本は世界に対して発言し続ける必要はある。
ただ、自らの武装強化という道は、やはり取るべきではないのでしょう。

世界史の現段階は、ヨーロッパで始まった産業革命が
資本主義というかたちで世界を席巻し、
途中、共産主義思想という革命概念も生み出しつつ、
しかしその革命概念の方に先に破綻が来て、
「勝利した」資本主義がいわばグローバル資本主義として立ち現れ、
資本主義概念の拡張にともなって「新興国」世界を巻き込んだ
「世界市場」が生み出されつつある段階だと言えるでしょう。
そうだけれど、当然ながら歴史はその以前から存続してきていて、
「国際関係」は、その流れから自由ではあり得ない。

この資本主義の世界的拡張は
当初段階では植民地獲得競争として、「欧米列強」の相克というかたちとして現出した。
この「白人優位」の世界体制のなかに
140年ほど前に風穴を開けるように、アジア世界から欧米列強と対峙するという
はじめてのスタンスを獲得し得たのが日本だった。
明治維新によって、このような国際的位置を獲得し得た日本は、
世界の中で、唯一の有色人種による「帝国主義」として
世界政治の中で孤児のように存在し続けた。
なぜこのような帝国主義国家体制づくりが可能だったのかは、不思議とも言える。
欧米世界が日本という国に対して独特の見方を持つに至るのは、
このような不思議さが大きいのだろうと思う。
明治維新政府は、そうした体制を作るに際して
「日本」国家生成期の「天皇」という存在を最大限に利用して
その価値を、帝国主義戦争時代にフィットするように改変しつつ、
世界の中で新興の「帝国主義」として形成してきた。
そのときに日本国家形成期に夢見ていた「小中華国家」思想を大いに
再利用しただろうことは想像するにあまりある・・・。
というようなことはまた、じっくり考えてみるとして、そこから日本は
欧米列強による恫喝と戦争、剥き出しの帝国主義と対峙してきた。
第1次と第2次の世界大戦までの国際情勢というのは
基本的にそのような帝国主義戦争によって形成されたものであり、
その体制は、第2次世界大戦後も一貫して存続してきた。
基本的に第2次世界大戦の勝利国家による覇権が大前提の国際関係だと思います。
日本とドイツは、敗戦帝国主義として
「平和国家」としてしか、存続を許されない体制の中にいる。
そういう枠の中にいることが、
東アジア世界での最近の国際関係のなかに色濃く表れている。
長く植民地支配に苦しんできた中韓両国が経済的な成長を見せる中で
「戦勝国家」としての民族的主張を遠慮なくぶつけてきているという状況。
戦後冷戦構造の枠の中では
反共、中国封じ込めという共同戦線的な位置づけにあった韓国が、
その長い歴史的外交態度、
儒教体制宗主国としての中国への服従的対応に立ち戻りつつあって、
日本はそれがいやでいやでたまらなかった、
東アジア世界での歴史的外交関係の構図に
否応なく向き合わされているのだと思います。
・・・なかなか,難しい。
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盆の入り

2013年08月13日 12時10分15秒 | Weblog



ことしのお盆は週の半ばにどっぷりとハマっている。
本日は、実家とカミさんの家のお墓のある里塚霊園まで墓参り。
きのう遅くまで起きていて、
あれこれの話をカミさんとしていたせいか、
早起き、5時には出発することもあって、やや寝不足。
ということで、夫婦で機嫌が悪く、精神不安定気味。
準備も整っていなくて、イラつきながらの出発。
どうにも大人げないのですが、
やむなく、人間こういった日和の日もありますね。
坊主と義弟を伴っての墓参をしてきましたが、
こういう日には、どうもいろいろ勝手が違うことが起こる。
線香に着火させるチャッカマン、3本ほどあったものがすべて燃料切れ。
で、ようやくライターを探し出して、安心して出発。
車内にも1本ライターを見かけたので、大丈夫だろうと思っていました。
その上、途中でピックアップした義弟も仏式チャッカマンを持参していた。
ここまでたくさんあれば、まぁ普通安心できる。
わが家の墓参りは同じ里塚霊園のなかで3つの場所を巡るのですが、
まず最初のお墓でライターが燃料切れのような状態に。
たしかに燃料はあるのですが、1つめの墓であえなく用なしに。
2つめのお墓では、2つめのライターがダメなことが確認されて
その後、仏式チャッカマンで無事着火したものの、
これもなんと、心細い状態に。
で、3つめのわが家の墓ではついに着火装置が切れてしまった。
これはきっと、朝1番での夫婦の口論を聞きつけて
ご先祖様が警鐘を鳴らされているに違いありません。

ということで、袖擦れ合うも他生の縁。
同じ墓参りのみなさんにチャッカマンをお借りして、なんとか用を済ませられました。
ただ、その墓に行き着くまでには、
目印になる墓の周囲がまるで様変わりしてしまっていて
なんと迷子にまでなってしまった(!)。
墓参りではじめて、探し回ってしまった次第であります。
なんとも、ご先祖様に申し訳ない次第。
いつもの倍くらいの時間を掛けてお参りしておきました。
心おだやかに、手を合わせたいと思います。

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Facebook 誕生日

2013年08月12日 05時10分32秒 | Weblog



Facebookには消極的に参加している。
どうにも積極的になれない。
違和感はずっと持っているのだけれど、
まぁ、新しいものへの拒否感への拒否感(?)もあって、
まぁそこそこに、という対応をしています。
情報発信としては、こうしてブログを更新し続けているので
それ以上は、なかなか対応しにくいことが一番なんですが・・・。

で、その「違和感」のなかに
「さぁ、お友達の誕生日です、お祝いしましょう」
というヤツがあります。
アメリカで生まれたサービス文化なので、
かれら創業者たちの生活文化をそのまま反映させているのでしょう。
かれらの社会では、友人関係の大きさというのは
そのまま、社会的な「個人」の影響力を反映するような
そういった側面が大きい、いわばパーティ文化社会だから、
そうした「機縁」として、誕生日というものには大きな意味があるのだろうと思います。
でも、日本ではどうなんでしょうか?
日本の文化伝統の中には、個人の誕生日を祝うという風習は長く存在しなかった。
基本的には陰暦社会であり、
「数え年」という風習の方が一般的で、
「年が改まる」正月に、全員等しく年を取ることが社会伝統だった。
それでは欧米社会に対しての迎合調和の意味で不都合なので
太陽暦を導入し、何度か法などで「上から」仕向けてきた結果、
ようやくにして、社会風習も「欧米化」が徐々に根付きはじめている、
というのが現代の状況なのではないかと思います。
わたしは、6人兄弟という環境で育った昭和27年生まれ男ですが、
子どもの頃、「誕生日」というものは、家族から祝われた経験はない。
6人も子どもがいて、親も2人いるわけだから、
そんなことを一々していたら大変だ、という事情もあったけれど、
そういった欧米的価値観の押しつけに対する、違和感の方が大きかった。
まぁ家族を持ってから、その家族の中での調和を考えて
子どもやカミさんの誕生日にはケーキを買ってきて
ローソクを吹き消す、くらいのことはやっているけれど、
それがものすごく生きることの上で大きな比重を占めているかと言えば、
そんなことは断じてない(笑)。
2年前ある友人が、ごく親しい高校同期生の友人の「誕生日」を祝おう、
それも「還暦」だし、みたいな呼びかけをした。
集まったのは当然ながら、みんな「還暦」で、その年に
自分の誕生日には、友人たちみんなからは「祝われなかった」数人が集まって、
違和感を抱えながら「おめでとう」と言い合っていて、
まぁ、不参加にしたいとも思わなかったけれど、
あんまりその趣旨に同意もしにくかったので、祝われた友人には申し訳なかったけれど、
忙しかったこともあって、早々に帰ってきたという経験があります。
こういうコンセプトは、日本的文化の中では、心が弾むようではない。
日本人は個人よりも集団的調和のほうを尊ぶのが一般的。
ときとして、勘違いして個人的感覚のほうを上位に置くひとがいるけれど、
誕生日なんて、友人同士で一々祝っていたら、収拾が付かない。
そこに「格差」が当然のように発生せざるを得ない。
そうした「友人間格差」を無分別にも強要する考えには共感できません。

そんなことから、
このFacebookの「あなたの友人の誕生日です」通知サービスには
日本人として、どうもムリ感が漂っていると感じてしまうのです。
Facebookでは、誕生日は「登録しても公開しない」設定も出来るので
いかがなものでしょうか?
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