二本松市には、室町時代、畠山氏によって1414年に築城されたという二本松城(霞が城)
があります。
明治維新時の戊辰戦争では、二本松藩は奥羽越列藩同盟に加わり、東軍(旧幕府軍)の一員として
薩摩や長州などの西軍(新政府軍)と戦いました。
この戦いが、会津藩の白虎隊と同じような悲劇を生むことになります。
白虎隊は、はるかに見える城が燃えて落城したと思った少年兵(数え年で16歳・17歳)が飯盛山で
自刃したのでしたが、二本松少年隊は、数え年13歳から17歳の少年兵が、実際に新政府軍との
激しい戦いを繰り広げ、戦死しています。白虎隊の悲劇の1月前のことでした。
戦死者は、14名の少年たちと、年長者の隊長・副隊長2名と伝えられています。
この史実は、あまり世に知られていないようです。
お城は、落城とともに火に包まれ灰燼に帰しましたが、その後修復が行われた結果、
往時の姿をしのばせるものとなっています。
お城の中の池には、そんな歴史はなかったかのように暑い日差しの中で、ハスが静かに花を
咲かせていました。
天主台からは、二本松の市内が一望できます。それほど人口が大きな市では
ないのですが、毎年10月の菊人形祭り、よく知られているのではないでしょうか。
ちょうどこの秋の菊人形の準備のために、汗を流していたスタッフの方がこんな
話をしてくれました。
「二本松の菊人形というと以前は大変な人出で、来場者の方は駐車するのも一苦労
だったと思います。菊人形はどちらかというと高齢者の方向けの感じがするのか、
最近はだいぶ来場者が減っています。」
「でも、今年の菊人形は第60回の記念の年。二本松城の開城600年です。
是非この秋に、また二本松に来てくださいね。」
天主台の一角で、キアゲハが羽を休めていました。
幼虫時代を厳しい自然の中で生き抜き、そして可憐な羽を広げる営みは、おそらく
600年以前から繰り返し行われてきているのでしょう。
二本松も3年前の震災以来苦しんでいるはず。
がんばれ二本松、がんばれ福島。
があります。
明治維新時の戊辰戦争では、二本松藩は奥羽越列藩同盟に加わり、東軍(旧幕府軍)の一員として
薩摩や長州などの西軍(新政府軍)と戦いました。
この戦いが、会津藩の白虎隊と同じような悲劇を生むことになります。
白虎隊は、はるかに見える城が燃えて落城したと思った少年兵(数え年で16歳・17歳)が飯盛山で
自刃したのでしたが、二本松少年隊は、数え年13歳から17歳の少年兵が、実際に新政府軍との
激しい戦いを繰り広げ、戦死しています。白虎隊の悲劇の1月前のことでした。
戦死者は、14名の少年たちと、年長者の隊長・副隊長2名と伝えられています。
この史実は、あまり世に知られていないようです。
お城は、落城とともに火に包まれ灰燼に帰しましたが、その後修復が行われた結果、
往時の姿をしのばせるものとなっています。
お城の中の池には、そんな歴史はなかったかのように暑い日差しの中で、ハスが静かに花を
咲かせていました。
天主台からは、二本松の市内が一望できます。それほど人口が大きな市では
ないのですが、毎年10月の菊人形祭り、よく知られているのではないでしょうか。
ちょうどこの秋の菊人形の準備のために、汗を流していたスタッフの方がこんな
話をしてくれました。
「二本松の菊人形というと以前は大変な人出で、来場者の方は駐車するのも一苦労
だったと思います。菊人形はどちらかというと高齢者の方向けの感じがするのか、
最近はだいぶ来場者が減っています。」
「でも、今年の菊人形は第60回の記念の年。二本松城の開城600年です。
是非この秋に、また二本松に来てくださいね。」
天主台の一角で、キアゲハが羽を休めていました。
幼虫時代を厳しい自然の中で生き抜き、そして可憐な羽を広げる営みは、おそらく
600年以前から繰り返し行われてきているのでしょう。
二本松も3年前の震災以来苦しんでいるはず。
がんばれ二本松、がんばれ福島。
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