免疫学者の多田富雄さんの随筆集『落葉隻語』(青土社)を読んだ。(隻語=ちょっとした言葉)
多田さんは1934年生まれの世界的な免疫学者、文筆家である。能にも造詣が深く新作能の作者でもある。84年に文化功労賞を受賞。自身の体験に基づいて医療行政に対しても積極的果敢に批判した。しかし、病魔に襲われてからは長く苦難の生活を強いられることになった。
「二〇〇一年、私は旅先で脳梗塞に襲われ、死地をさまよった末生き返り、重度の右半身の麻痺と摂食、言語障害の後遺症をもつ身となった。まだ一言もしゃべれない。自死も考えたが、助かったからには生きなければならぬと思った」(同書より)
それでも執筆意欲は旺盛で、執筆活動を続けたが、その生活は筆舌に尽くしがたい苛酷なものだったらしい。
「そこで再び私は『死の病』に遭遇する。私を次に襲ったのは悪性腫瘍、前立腺がんだった。手術不能まで大きくなって、リンパ腺転移まである。それが進行すると、さまざまな苦しみが現れることを医師の端くれとして知っていた。
とりあえず増殖を抑えるため去勢の手術を受けた。しばらくは腫瘍マーカーも下がり平常の生活に復したが、いずれ再燃し、がんは私の命を奪うことになると覚悟した。そのときはどんな苦しみが待っているか、臨床医でなくても私には予想できた」(同書より)
今年2月に書かれたこの書のあとがきには、
「・・・・最終原稿を書いているとき、車椅子を押していると、胸に激痛が走り、ぽきりと音がした。鎖骨の骨折だった。恐れていた前立腺がんの骨転移だった。
いま骨を折ることは筆を折ることに等しい。パソコンを打とうにも激痛で打てない。それが今では一字打つにも、うめくほどの痛みである。さすがの私も、この突然の執筆中止命令には運命を感じるよりほかはなかった。
最後の原稿を送ってやれやれと病院に向かい、検査を受けたが、見る見る主治医の顔が曇った。先月はそんな様子はなかったのに、たった1月の間に私の骨は満天の星のように転移でいっぱいであった」
とある。そして最後に「まだまだ辛い日が続くだろうが、この本が無事出版されることを夢見ている」と書いている。この本の第1刷が印刷されたのは4月20日で、多田さんはその翌日に前立腺癌による癌性胸膜炎のため76歳で亡くなった。本が出版されたのは5月10日だから、多田さんは手にすることはできなかった。
闘病の部分は読んでいて息苦しくなるような思いにさせられた。そして死と向き合い、最後まで執筆活動を続けた強靭な精神力にはただただ頭が下がった。多田さんの苦しみに比べたら、私の坐骨神経痛がどうの、腰が重いのなどは児戯に類するようなもので恥ずかしくもなる。そんな状態だから、死ぬのは怖くないなどと気楽に言っているが、もし多田さんのようなことになれば、果たして平常心は保たれて、最後まで何らかの努力をするだろうかということははなはだ覚束ない。
多田さんは1934年生まれの世界的な免疫学者、文筆家である。能にも造詣が深く新作能の作者でもある。84年に文化功労賞を受賞。自身の体験に基づいて医療行政に対しても積極的果敢に批判した。しかし、病魔に襲われてからは長く苦難の生活を強いられることになった。
「二〇〇一年、私は旅先で脳梗塞に襲われ、死地をさまよった末生き返り、重度の右半身の麻痺と摂食、言語障害の後遺症をもつ身となった。まだ一言もしゃべれない。自死も考えたが、助かったからには生きなければならぬと思った」(同書より)
それでも執筆意欲は旺盛で、執筆活動を続けたが、その生活は筆舌に尽くしがたい苛酷なものだったらしい。
「そこで再び私は『死の病』に遭遇する。私を次に襲ったのは悪性腫瘍、前立腺がんだった。手術不能まで大きくなって、リンパ腺転移まである。それが進行すると、さまざまな苦しみが現れることを医師の端くれとして知っていた。
とりあえず増殖を抑えるため去勢の手術を受けた。しばらくは腫瘍マーカーも下がり平常の生活に復したが、いずれ再燃し、がんは私の命を奪うことになると覚悟した。そのときはどんな苦しみが待っているか、臨床医でなくても私には予想できた」(同書より)
今年2月に書かれたこの書のあとがきには、
「・・・・最終原稿を書いているとき、車椅子を押していると、胸に激痛が走り、ぽきりと音がした。鎖骨の骨折だった。恐れていた前立腺がんの骨転移だった。
いま骨を折ることは筆を折ることに等しい。パソコンを打とうにも激痛で打てない。それが今では一字打つにも、うめくほどの痛みである。さすがの私も、この突然の執筆中止命令には運命を感じるよりほかはなかった。
最後の原稿を送ってやれやれと病院に向かい、検査を受けたが、見る見る主治医の顔が曇った。先月はそんな様子はなかったのに、たった1月の間に私の骨は満天の星のように転移でいっぱいであった」
とある。そして最後に「まだまだ辛い日が続くだろうが、この本が無事出版されることを夢見ている」と書いている。この本の第1刷が印刷されたのは4月20日で、多田さんはその翌日に前立腺癌による癌性胸膜炎のため76歳で亡くなった。本が出版されたのは5月10日だから、多田さんは手にすることはできなかった。
闘病の部分は読んでいて息苦しくなるような思いにさせられた。そして死と向き合い、最後まで執筆活動を続けた強靭な精神力にはただただ頭が下がった。多田さんの苦しみに比べたら、私の坐骨神経痛がどうの、腰が重いのなどは児戯に類するようなもので恥ずかしくもなる。そんな状態だから、死ぬのは怖くないなどと気楽に言っているが、もし多田さんのようなことになれば、果たして平常心は保たれて、最後まで何らかの努力をするだろうかということははなはだ覚束ない。