中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

どうにもならない教師。

2010-09-15 22:19:53 | 身辺雑記
 昔は教師の仕事は聖職と言われていた。今ではそのように言う人もないだろうし、そのように自覚している教師もほとんどないだろう。それはそれでいいと思う。教師も喜怒哀楽のある普通の人間だから、ことさらに特別視することは要らない。しかし、あまりにも普通すぎるのも困る。少なくとも教育と言う大切な仕事に携わっているという自覚と、自分のあり方について自戒はなくてはならないだろう。ところが近頃は普通どころか、いったい何だと呆れ返るような行為をする教師のことを新聞などの記事で見かける。

 愛知県岡崎市の3年生の担任の45歳の男性教諭は、算数の割り算の授業で「18人の子どもを1日に3人ずつ殺すと、何日で全員を殺せるでしょう」と口頭で出題したという。市教委の聴き取りに対してこの教諭は「指導に自信がなく、子ども達の興味や関心をひこうとついやってしまった。二度としない」と言ったそうだが、何ともお粗末な教師だ。この程度のことで指導に自信がなく、子どもを殺すなどという例を持ち出すとは、よほど能力の乏しい教師なのだろう。9月15日に学級担任を外されている。45歳と言うと小学校の教師をしている私の次男より1歳年下だ。感想を聞いてみると、返ってきた返事は「アホやな」の一言だった。

 埼玉県所沢市立小学校の6年生担任の29歳の男性教諭は、女子児童5人を学級活動の際に図書準備室に別々に連れ込んでアイマスクをかけさせた上、手を頭の上に掲げるなどのポーズをとらせたという。前にも同様な行為があったそうだ。この教師は学校側に「家庭学習などをがんばっている子に1対1で親愛の情を示したかった」などと話したという。いったいどういう意図でこのようなことをしたのかまったく理解できないが、アイマスクをかけさせたり「1対1で親愛の情を示したかった」と言うのには何か異常性、変質性を感じさせる。事実関係を認めて現在は病気休暇中だそうだが、処分もあり得るようだ。

 少し前のことになるが、前学期末に青森県の県立高校の1年生担任の40代の男性教諭が、球技大会の成績を間違って伝えたとして、生徒会役員に対して土下座を強要したという記事を見た。校内球技大会の予選の際、生徒会役員が成績を集計し、この1年生のクラスが決勝に進めると発表したが、集計ミスで実際は決勝には進めないことがわかった。3名の生徒会役員がその日のうちにこのクラスの担任の男性教諭に謝罪したが、この教師は1時間以上にわたってこの役員達を罵倒し、翌日にはこの役員達を担任クラスの教室に呼び出し、クラスの生徒の前で謝罪を要求した。役員達が立ったまま謝罪すると「それが誠意か」と言って土下座させた。これは非常に卑劣で悪質な行為だ。私は土下座という行為が大嫌いで、それを強要する者に対してはたとえその者が正しくても憎悪に近い嫌悪を感じる。土下座した生徒の屈辱感はどれほど大きかったか、誰にでもありうる集計ミスに対してこれほどまでのことをするこの男は異常性格ではないか。教師失格で、退職するべきとさえ思う。

 最近はモンスターペアレントとやらが横行し、教師に対して理不尽な要求をする親が増えているようだが、数多くの教師の大部分は、たとえ聖職者意識はなくてもまじめでまともだ。私は教育員会の事務局にいた時に多くの教師に接する機会があったが、どうにも問題と思われる教師よりも、研究熱心で頑張っている教師がずっと多かった。しかし多くのまじめな教師がいても、問題のある教師がいると教師全体の評価を下げてしまい、あたかも教師全体の質に問題があるかのように言われてしまうのは残念なことだ。


                      

幼い弟の死

2010-09-15 08:37:28 | 身辺雑記
 私は6人きょうだいの長兄だ。私を筆頭に年子の妹以下、弟1人と妹が3人いる。一番下の妹が65歳だから、私達きょうだいも年をとったものだが、今のところ皆まずまず元気にしている。

 私にはもう1人弟がいたが、太平洋戦争が始まる少し前、昭和16年9月に死んだ。その頃は神戸の須磨に住んでいた。あの時代は数え年で数えたから2歳と言っていたが、1歳を少し過ぎたばかりの可愛い盛りだった。名前を淳(ジュン)と言った。元気な時はよく太っていて、私も可愛がっていた。まだあまり話すことができなかったので、どんなことを言っていたのか記憶にない。

 父が好きだったフォスターの愛唱歌集のレコードをかけると体をゆすって喜んだ。とりわけ「草競馬」がお気に入りで、「ドゥダードゥダー」という合いの手が好きだったようで、この曲をかけると「ワァオゥワ、ワァオゥワ」とあどけない声で叫んだ。きっと「ドゥダードゥダー」と言っているつもりだったのだろう。それが可愛いから私は何度も「草競馬」をかけてやった。あの「ワァオゥワ、ワァオゥワ」という幼児にしては低いジュンの声が不思議に今も耳の奥に残っていて、思い出すと少し涙ぐんでしまう。どうも西安の撓撓(ナオナオ)や宸宸(チェンチェン)と重なってしまうようだ。

 9月に入ってしばらくしてジュンは下痢をして入院した。暑いので母が氷を食べさせたのが原因らしく、大腸カタルという診断だったようだ。今だったら抗生物質を投与したらすぐ治っていただろう。あまり長く入院していなかったように思う。一度も見舞いに行かなかった。両親はずっと付き添っていて家に帰らなかった。

 ある朝、9月15日のことなのだが、妹と2人で寝ていた部屋の入り口に、お手伝いさんのとねさんが正座して私達に「ジュン坊ちゃまは亡くなられました」と告げ、泣きだした。私は何が何やらわけが分からず、ジュンが死んだなどということの実感が湧かなかったので泣くことはなかった。やがてしばらくして父がジュンを抱き、母が付き添って帰ってきた。その後のことはほとんど覚えていない。人形のように眠っている小さな白いジュンの顔をかすかに覚えている。親戚の人たちがやってきたが、それもほとんど記憶にない。ただ東京の父方の祖母がその夜駆けつけた時、玄関の間で電灯に照らされて母が祖母に取りすがって泣いていたのを古い写真を見るように思い出す。

 ジュンは明け方に死んだが、その時母はうとうとしていて夢を見たそうだ。裸のジュンが空に向かってどんどん昇っていき、そのジュンに向かって母は「ジュンちゃん、ジュンちゃん、どこへ行くの」と呼びかけた。目が覚めるとジュンは息を引き取っていた。母はこのことを50年も後になって話してくれたが、そんなこともあるものか、夢で愛し子の昇天を見送ったのかと何か不思議なような気持ちで聞いた。

 母はジュンが履いていた小さい下駄を手元に残していた。鼻緒のところにはジュンの小さい指の跡が黒く残っていた。ジュンが生きていた証として母は捨てがたかったのだろう。自分が死んだら棺に入れてほしいと母は言い遺していたのでその通りにした。

 あれから70年がたった。今も時折ジュンのことを思い出す。生きていたらジュンも70歳を過ぎた老人になっている。どんな家族を持ちどのような弟として過ごしてきたのだろうと考える。