中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

痛ましい死

2010-08-19 09:20:31 | 身辺雑記
 相変わらず猛暑が続いている。東京都23区では梅雨明けから1ヶ月の間に熱中症による死者は100人に達し、戦後最悪とのことだ。屋内での死者は96人、70歳以上の高齢者が83人、独り暮らしは7割を超えていたと言う。

 さいたま市で76歳の男性が熱中症で死亡した。男性は無職の48歳の長男と同居していたが、暑いので氷がほしいと言って長男に買ってきてもらい、首筋に当てたりして暑さをしのいでいた。物音がしなくなったので見てみると倒れていて、その後死亡したとのことだ。さいたま市のこの日の最高気温は35.8度だったらしいが、実際は屋内ではもっと高かっただろう。

 2人は2か月に1度受け取る男性の年金15~16万円だけで生活をしていたようで、クーラーはあったが、生活が苦しく、10年以上前から電気代もガス代も払えず切られれていた。水道は使えて水は飲めたという。

 何とも痛ましい話だ。月額8万程度の収入で、電気もガスも使えないでは、食事のための煮炊きもできない。いったいどのような生活をしていたのだろうか。なぜ生活保護を受けなかったのだろう。無収入の長男はこれからどうして行くのか。あれこれ考え込んでしまった。この男性の死の原因は直接的には熱中症だろうが、その大元は貧困にある。熱中症で死亡した独居高齢者の内の少なからぬ人が似たような境遇にあったのかも知れない。

 私も年金生活の独居高齢者だが、幸いなことに金持ちではないが、貧困ではない。しかし、我が身の境遇を有り難がっていたり満足するだけでなく、この国には豊かさの陰に、多くの苦しい生活を余儀なくされている高齢の人達がいることは忘れないようにしたいと思う。

キリギリス

2010-08-18 08:04:08 | 中国のこと
 西安の謝俊麗と電話で話していたら、「ジジジジ・・・」という音が聞こえた。何かと尋ねたら、撓撓(ナオナオ、俊麗の息子)のペット、おじいちゃんが買ってきたと言う。

 虫かと聞いたが、さあどうだろう、セミみたいだけど・・・と頼りない。翅はあるかと言ったら、あると言う。餌は野菜の葉などを与えていて、とくに葱をよく食べるらしい。では虫だろう、何と言う?と聞いたら、グオグオって言うのと言ったがよく分からない。何となくキリギリスではないかと思ったが埒が明かないので、写真を撮って送ってくれと頼んだ。

 メールに添付して送ってきた写真を見ると、やはりキリギリスだった。



 中国語では蝈蝈(グオグオ)と言うようだ。 日本では、キリギリスの鳴き声は擬声語で「チョン・ギース」だ。普通は「ギー」が続いて、その合間「チョン」が入る。子どもの頃はキリギリスをチョンギースと呼んでいた。このあたりには草むらがないからキリギリスの姿はない。昔は籠に入れて売っていたが今では見られない。カブトムシやクワガタ虫ほどの人気がないのだろう。西安では売っているようでちょっと懐かしい。蝈蝈を辞書で調べると、地方によっては叫哥哥(ジアオ・グゥグゥ)とも呼ぶらしい。叫は「鳴く」で、哥哥は「兄」だが、発音の「グゥグゥ」は「ジジジ・・・」と鳴く、その音を表わしているのかも知れない。

 蝈蝈が虫だということがわからず、夫君の劉君に「これは虫だよ」と教えてもらったらしいが、俊麗も都会っ子ということか。彼女は西安がある陝西省の東隣の山西省の出身だが、育ったところがどんな所かは知らないが、幼い頃に蝈蝈を見たことがなかったのだろうか。それにしてもキリギリスをセミみたいだとかのんきなことだが、鳴き声がセミみたいだと言ったのかも知れない。今度確かめてみよう。



サギソウ

2010-08-17 09:39:22 | 身辺雑記
 先日、滋賀県草津市の水生植物公園に行った時にサギソウ(鷺草)の小鉢を2つ買った。買ったときから小さい固い蕾をつけていたが、毎日水をやっていると花が咲き出した。



 サギソウはその名前の通り、花は鷺が飛翔しているような形をしていて、とても優雅で上品だ。見れば見るほど鷺そっくりで、なぜこのような形の花に進化したのだろうと、自然の造形の巧みさに感心するのだが、あまたある花の中でもこれには一番心惹かれる。






 
 サギソウは野生の蘭の一種で、ラン科ミズトンボ属に分類されていて、本州、四国、九州の日当たりの良い湿原に生え7~8月に花が咲く。山野草として愛好されるので盗掘が多く産地では激減していると言う。私が買ったのも盗掘品の子孫が培養されたものかも知れない。



 サギソウの前にも近所で買ったウチョウランとセッコクも花が咲いた。両方とも園芸品らしい。フウランも買っているがまだ咲いていない。

 ウチョウラン



セッコク



 ラン類の花は寿命が長いので咲くとしばらく楽しめる。


灯籠流し

2010-08-16 09:43:01 | 身辺雑記
 当市を流れる武庫川で灯籠流しが行われると言うので観に行った。燈篭流しは盆の終わりに死者の魂を弔って灯籠を海や川に流す、盆の行事送り火の一種で、本来は仏教的習俗だが、当市では観光行事として行っている。

 7時半頃、暗くなってから行ったが、もう始まっていた。







 川面に灯をともした灯籠が、点々と下っていく様子を想像していたのだが、灯籠は筏のように縦につないで、それをカヌーで引っ張りながら行き来するもので、ちょっと期待外れだった。河の汚染を防ぐために仕方がないことなのだろう。少し微風があり、そのために点けた灯もよく消える。







 青色発光ダイオードを内蔵したプラスティックのボールを「宝塚蛍」と称して売っていて、これを灯籠に入れて流すのもあった。









 河岸にぶら下げられたボール。



 撮りそこないの写真が蛍のように見せている。



 河岸のそばの水面に置かれたボール。



 行事協賛の企業などの灯籠。



 川の向こうは温泉街。昔は古びた温泉旅館街だったが、今は旅館は高層のホテルと化し、マンションも多く、温泉町らしい風情ではなくなっている。

 


 川のそばだったのでさすがに涼しかったが、灯籠流しそのものは何か情緒が感じられないもので、観光行事となるとこんなものかと暑苦しい気がしながら帰った。




ブログを始めて4年

2010-08-14 10:44:57 | 身辺雑記
 2006年8月13日にブログを初めて今日で4年目になる。歌人の俵万智さんのデビュー作『サラダ記念日』(河出書房新社)の顰に倣うなら、今日は私の「ブログ記念日」と言うことになる。始めてから1496日がたった。これまで掲載した数は1219件、使った写真は4980枚になっている。まさに「塵も積もれば」と言うことだ。

 近くのパソコン教室で習ってから何気なくブログを始めた最初の頃、写真は1枚で、文も今流行のツイッターに毛が生えた程度のもので、人が見るということはまったく意識しなかった。思いついたことをちょっと綴る、日記のようなつもりで、たとえば、始めて2回目はこんなものだった。

 「我が家のすぐ近くにちょっとした水田がある。今日通りかかったら、一斉に花をつけていた。美しい緑色の茎から出ている花穂に着いている小さな白い花はとても可憐で美しい。さて今年の稔りはどうだろうか」

 これはこれでいいと思うのだが、それが回を重ねるうちにだんだん長い文章になってしまった。知人からはもう少し短くしたほうがいいと忠告もされ、心がけてみたのだが、どうもうまくいかない。書くことは過去の仕事柄、特に苦になることはないのだが、どちらかというと短く文を収めるのには苦心するほうだ。5000字ほどの原稿を依頼されたこともあるが、そういう場合にはいいのだが、例えば800字と指定されても、すぐに1000字くらいになり、苦心して削ると最初の起承転結が崩れてしまう。かつてはパソコンがなかったから、修正するのが楽ではなかった。

 ブログを日記のようなものと考えて、私的なものを公開するのはどうかという疑問もあるようだが、日記というよりもエッセーだと考えている人もある。私も今ではそう思うようになっている。北海道のブログ友のSさんはほとんど毎日書いているが、いつも400字以内くらいに収まっているので感心する。自然体の肩肘張らない文体で、日記とエッセーが交じり合ったようなものだ。軽妙な文章も書いてみたいのだが、私の性格もあるようで、我ながら堅苦しいなと思うこともある。

 編集画面の一覧を開くと、前日の私のブログへのアクセスの閲覧数、訪問者数などが示される。訪問者は日に130前後~150前後で、たまには190を超えたこともあったが、静岡のAさんや北海道のSさんほどは多くはない。それでも毎日これくらいの数の方に見ていただいていることは有難いと思う。記録が示されているので見てみると、この4年間で訪問者数は65762、閲覧数は186612 になっている。

 回を重ねるうちにコメントが寄せられるようになった。中国など思いもよらないところから来て驚くことがあった。ひと頃はよくあったコメントも今はあまりないが、それでも拙い文にコメントが寄せられるのは有難いと思う。私も気に入ったブログにコメントを寄せているが、そうやってだんだんブログ友ができてきた。北海道のSさん、隣の市に住むOjさん、静岡のAさん、神戸のUさん、東京近郊のTさんなど皆会ったこともない人たちだが、コメントを交わしているうちに何かいつでも会っているような気がしている。これからもブログ友は大切にしていこうと思う。

 私は他人には興味がないだろうと思うことでも、私自身の記録、覚書のためにまとめることがほとんど(特に旅行記)だし、老化防止の頭の運動と思って続けているが、やはりどこかで読んでもらっていることは意識して、杜撰なものにならないようにしていきたい。

 70歳近い男性が新聞の読者の声の欄で「高齢者の私にとってブログは世界を広げ、日常生活に潤いをあたえてくれるものです」と書いていたが同感だ。


  (日曜日はブログを休みます)

熱中症

2010-08-13 11:18:47 | 身辺雑記
 立秋に入って心持ちしのぎやすくはなったが、今年の暑さはまったくただ事ではないと言うようなものだった。特に梅雨が明けてからがひどかった。連日30度を超える猛暑の中で、熱中症に注意するようにという呼びかけがしきりにされた。

 梅雨明けした7月17日から月末までの間に、全国では熱中症とみられる症状で死亡した人は216人に達し、その中で70歳以上の高齢者が164人と最も多く、全体の76%を占めていた。炎天下で農作業をしていた80代の婦人が倒れて死亡したのは痛ましいことでも、何となくそうだろうと思うのだが、室内で死亡した人も多く、全体のおよそ80%に上り、中には夫婦で死亡した例もあった。東京では、病院に運ばれる前に自宅で死亡しているのが見つかるケースが相次いでいて、ほとんどが、1人暮らしの高齢者で、倒れても気づかれないまま死亡したとみられている。

 熱中症と言うと私のような昔人間は日射病と重ねてしまい、室内で起こるとは思っていなかった。今では日射病という言葉はあまり聞かなくなったが、熱中症は高温の環境下での全身の障害の総称のようで、その中に熱射病があり、日射病は、この熱射病の中の「太陽光が熱源となっているもの」を言うようだ。日射病という言葉があまり使われなくなったのは、日射病は一部の症状しか言わないことと、総称の「熱中症」で一般的に通じるからという説明があった。

 今年は例年以上に熱中症の危険と予防が言われたが、特に水分を多く摂るようにと注意された。とりわけ高齢者は喉の渇きを感じることが鈍くなるので、意識的に水分を多く摂ることが必要だと言うことで、私もこれまでになく積極的に水分を補給した。夜寝る前、朝起きてから、外出前、外出後にどんどん飲んだ。

 もう一つ、夜間の高温も危険と言うことで、クーラーなどの適切な使用も言われた。新聞に80代の女性が投書していたが、クーラーが嫌いで、これまでしなかったが、あるとき気分が悪かったので診てもらうと、軽い熱中症だと言われた。それでクーラーもかけるようにしているということだった。私も寝る時にはクーラーをかけ2時間ほどで切れるようにしておくと安眠できる。クーラーが切れると暑くて目が覚めると言う人もあるが、私はぐっすり眠ってしまう。窓を開ければとも思うが、生ぬるい空気が入ってきてかえって気持ちが悪い。

 日中、日差しが強いときの外出はできるだけ避けるようにしたし、もちろん帽子もかぶった。あれこれと気を遣う猛暑だったが、やはり自分の年齢や独り住まいだということを考えると慎重になるに越したことはない。


受動喫煙の悲惨

2010-08-12 09:34:59 | 身辺雑記
 私自身がそうだったが、概して喫煙常習者は非喫煙者には思いやりがない。禁煙指定の場所でない限り、どのような場であっても喫煙を遠慮しない。それどころか非喫煙者の訴えに暴力的な言葉で対する例もある。

 新聞の記事だが、ある中堅の建築コンサルティング会社に正社員に採用された40代の女性の場合は、職場の社員の多くが喫煙者で、それもかなりのヘビースモーカーが多く、1日3、4箱は当たり前、7箱という者もいたと言う。自席だけでなく歩きながらでも喫煙し、女性は咳や痰が止まらず目も痛くなり、入社1ヶ月で耐え切れなくなって上司に訴えた。しかしそれに対する答えは、「建設業とタバコが切り離せないのが常識。本数が多いのは仕事熱心な証拠だ」であり、廊下に置いてある灰皿は分煙のためではなく「どこでも吸えるようにするためのもの」だということだった。この訴えをした直後にこの女性は部署を変えられ、仕事も与えられなくなったという。その後幹部に呼び出されて「会社の和が乱れるし、仕事も怠けている」として即日解雇を告げられたので会長に電話で訴えると、「たかがたばこのことでごちゃごちゃ言うな」と怒鳴られた。

 まったく呆れかえった下劣な企業で、この会長や幹部、上司達はゴロツキに等しいと思う。女性は労働審判でこの会社と争っているということだが、どのような結果になるのか。しかしこのような会社はたとえ審判で負けたとしても、体質を改めようとはしないと思う。おそらく受動喫煙の防止を謳っている健康増進法の存在などはどこ吹く風ということだろう。

 この会長の「たかがたばこのことでごちゃごちゃ言うな」という考えは、多かれ少なかれ喫煙者の非喫煙者に対する意識の中にあるのではないかと思う。私もかつてはかなり吸っていたから、非喫煙者をおもんばかる気持ちなどはなく、喫煙をたしなめられたりすると、かえって不快に思ったことさえあった。今に思うと傲慢だった。

 喫煙を止めてだいぶたってから、ある職場で左右と前をヘビースモーカーに囲まれて、終日濃い煙の中で仕事をしたことがあったが、やがて咳が出始め、だんだん激しくなった。咳が出始めると止まらなくなり苦しい。あるとき咳をしていると隣の席の1人が「あんたはよく咳をするなあ」と眉をひそめるようにして言った。「あんた達のたばこのせいだよ」と言いたかったが黙っていた。事ほど左様に、喫煙者は自分の行為が他人にどういう影響を与えているのかには無頓着だ。ましてちょっとした煙でも不愉快な思いをする者がいることなどは考えようともしない。

 前に卒業生達と毎月恒例の昼食会をした時に、前に座ったK君が席に着くなりたばこの箱を取り出したので、思わず「食事の前と食事中にはたばこはやめてくれよ。吸わない者の身にもなってくれ」といささかつっけんどんに言った。それでK君は一瞬ためらって手を止めたが、それでもやはり火を点けて吸いだした。彼は温厚な性格で殊更に反抗したり無視するという態度ではなかったが、私はそれ以上は言わなかった。決して元教師風や年長者風を吹かしたつもりはなかったのだが、それだけに、ごく親しくしている関係でも、たばこはどうにもならないものなのかと侘しい思いは残った。

 私が入っている会の事務局で会議したり作業をしたりするときに、たばこを吸う者は吸いたくなると部屋を出て行く。別にそのような取り決めをしているわけではないが、喫煙者の遠慮というよりも、分煙という近頃の常識を心得ているのだと思う。親しい者が集う場、まして飲食の場では、喫煙者はそれくらいの心がけは必要だろう。

 厚生労働省は飲食店や宿泊施設の従業員の受動喫煙を防ぐために、喫煙について規制を法律で義務付ける方針のようだ。十分な換気設備を備えるのが難しい場合には禁煙を迫られることになって、多くの飲食店で喫煙できなくなる可能性もあるようだ。飲食店でのたばこほど嫌なものはないから、従業員の健康を守るだけでなく、客にとっても結構なことだと思う。それでも濃度の具体的な基準は「1立方㍍あたりの浮遊粉塵が0.15㍉グラム以下」のようで、この環境基準は世界保健機構(WHO)や米国の基準よりは4~6倍緩いのだそうだ。受動喫煙防止の道いまだ遠しか。

http://www.hit-1.net/tabako/in.html


近江八幡(3)

2010-08-11 09:07:08 | 身辺雑記
 八幡こんにゃく、通称「赤こん」。三二酸化鉄で赤く着色し、鉄骨こんにゃくとも呼ばれる。



 織田信長が赤の長襦袢をまとい、踊り狂ったと伝えられる近江八幡の奇祭「左義長祭」では踊り子が女装し、その年の干支にちなんだ山車を飾り、高さ数メートルにわたり炎を象徴する無数の赤紙を飾り、町内を練り歩き、その年の無病息災を祈願する。「赤こん」の製造元によると、この祭礼にちなんでこんにゃくを赤く染めたとのことだ。



 田楽や刺身にしてみた。くりくりした弾力のある食感でうまい。甘辛く煮付けてもいいようだ。




近江八幡(2)

2010-08-10 10:13:16 | 身辺雑記
 京街道。朝鮮人街道とも言う。江戸時代に将軍が交代するたびに、朝鮮国国王の親書を携えて来日した「朝鮮通信使い」の一行が通った街道。当時は町を挙げて歓迎したと言う。







 町屋。



 庇は銅葺き



 途中で 休憩した喫茶店も保存されている町屋を使っていた。

 入り口の戸は内側に跳ね上げて、荷を積んだ車がそのまま屋内に入れるようになっている。



 雨戸は普通は縦型で左右に滑らせるようになっているが、ここの町屋ものは上に設けられた戸袋から3枚の雨戸を引き下ろすようになっている。「すり上げ」と言うそうだ。





 箱階段。階段が家具として造られていて、収納部分が段々に作られ、2階に通じる階段になっている。。



 2階へは荷物が揚げにくいので、ここから吊り上げる。明かり取りの窓がある。



 八幡堀。豊臣秀吉が運河として利用させ、琵琶湖を往来する船をすべて八幡の街に寄港させたので近江八幡が発展した。昭和30年頃からどぶ川のような状態になったが、市民の手で清掃活動が行われて昔の姿に戻った。





 明治橋





 八幡堀では時代劇のロケがよく行われる。もう少し足を伸ばせばそのような場所が見られたのだが、あまりに暑かったので、またの機会にすることにした


近江八幡

2010-08-09 10:13:03 | 身辺雑記
 草津市立水生植物公園を後にして北上し、近江八幡市に足を伸ばした。近江八幡は近江商人発祥の地の一つとして有名な町だ。



 近江商人とは、近江に本拠地をおく他国稼ぎ商人のことで、近江八幡・日野・五個荘などから特に多く出た。主に鎌倉時代から江戸時代、明治時代、大正時代、昭和時代にかけて活動し、大阪商人、伊勢商人と並ぶ日本三大商人の一つとされている。近江商人は「売り手良し、買い手良し、世間良し」の「三方良し」を家訓とした。明治以後は企業として発展したものも多く、現在も高島屋、大丸、西武百貨店、丸紅、東レ、日本生命、武田薬品など数多い。

 近江商人が住んだ屋敷が並ぶ新町通り。



 森五郎兵衛邸(非公開)。たばこや麻布を売り出し、後には呉服(絹織物)、太物(綿織物、麻織物)も扱うようになり、江戸日本橋や大阪本町にも出店した。現在も近三商事株式会社として貸しビルなど不動産業を営んでいる。



 旧西川家住宅。典型的な近江商家の面影を残す京風建築のこの家は、3代目西川利右衛門によって宝永3年(1706年)に建てられたもので、昭和58年1月に国の重要文化財に指定された。西川家は屋号を大文字屋と称して蚊帳や畳表を商い、江戸、大坂、京都に店を構えた。家系は11代で昭和5年に途絶え、約300年の歴史を閉じた。













 土蔵。白壁の土蔵は普通は2階建てだが、この建物は大壁造り本瓦葺の3階建てで、全国的にも珍しいとされている。


 
 市立資料館



 資料館にある郷土資料の展示。



 資料館に隣接する前記の森家の控宅は歴史民俗資料館になっている。