癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

11日目 上松宿~39.須原宿~40.野尻宿~41.三留野宿~42.妻籠宿 〈計35.5km〉

2016年06月03日 | 登山・旅行
 今日は、この旅2番目のロングコースなので、朝食は摂らずに5:00にスタート。朝はかなり冷えたらしい。最低気温が2℃とのことだったので、スタート時間もそんなところだったのだろう。

 下は、ランニングタイツにハーフパンツなので寒くはないが、上の長袖は送り返したので、半袖に薄いウィンドブレーカーだけ。体も寒いが特に手が冷たくて仕様がない。のんびり歩いていられない。3時間ほどは大急ぎの10分/kmペースで歩いたが、暖かくならなかった。深い谷地形なので、8時頃になってようやく陽光が当たるようになった。


 上松は、今注目の力士・御嶽海の出身地で、このような張り紙があちこちに貼られていた。


 最初に寄ったところは天下の名勝「寝覚めの床」。これで2回目だが、碧い川面と白い花崗岩、周りの緑が織り成す景観がみごと。


 広重の「中山道69次」の上松宿は、この「小野の滝」が描かれている。


 次の「須原宿」は、街道の随所に水舟が置かれている。木曾五木のサワラをくりぬいた水舟には裏山から引いた湧き水が注がれ、旅情を誘う。


 その向かいの西尾酒造は地酒の「木曾のかけはし」を造っている。


 ここは、宿場時代からの「桜の花漬」で有名なところだが、駅前にその店があった。


 須原宿から野尻宿へむかう途中には、京都の清水寺を真似た岩出観音。


 さらに、山の方へ上がっていくと、のどかな農村風景がひろがる。このお寺の天長院には、マリア観音があるというが、見つけられなかった。


 その代わりに、ほっこりして思わず疲れが抜けそうな地蔵さんたち?を見つけた。


 次の「野尻宿」は、「七曲がり」と呼ばれ、外敵を防ぐために曲がりくねった町並みが特色だ。古い民家がちらほら残っているが、昔を伝えるものは少なかった。


 本陣跡には、その碑だけがた立っていた。

 野尻宿から三留野宿までは、国道と線路を何度も横切るので案内標識を見落とさないようにしなければならない。うっかり見落としたらしく、国道の野尻トンネルの中を歩くはめになってしまった。そのあとも国道歩きが続いた。
 三留野宿の手前の食堂で、昼食にしょうが焼きランチを食べてのんびり休んだ。


 「三留野(みどの)宿」は、かつては妻籠の並ぶくらい栄えた宿場だったらしいが、1881年の大火で町並みのほとんどを焼失したという。それでも宿場のほぼ真ん中に本陣跡の脇本陣跡の碑が立っていた。
 しかし、宿場を抜けた辺りの民家の出梁造りに往時の面影が偲ばれる。


 宿場の先の南木曽駅横には、木曾檜の集材所があり、壮観だった。


 妻籠宿の手前の竹林の中に続く石畳道か風情たっぷり。


 妻籠城趾から妻籠宿を見下ろす。9時間以上も歩いた後に、この上に登るのは辛かった。


 14:30、今日のゴール、言わずと知れた日本の宿場を代表する「妻籠宿」に到着。ここに来るのは、これで3回目だ。全長800mの宿場には、出梁造りの二階屋と竪繁格子、うだつのある家などが並ぶ。


 電柱も自販機もなく、当時の姿を保つように工夫されている。


 宿場には、ほぼどこにもあった本陣、脇本陣、高札所なども忠実に復元されている。

 保存よりも開発が優先された昭和46年制定の「妻籠をまもる住民憲章」には、建物を「売らない」「貸さない」「壊さない」の3原則がうたわれ、それが貫かれてきたのが、現在の観光地としての繁栄に繋がっている。

 妻籠宿の中の宿はほぼ満室だったので、少し離れたところにある送迎付きの民宿かめやまに予約したおいた。15:00に電話したら直ぐに迎えに来てくれた。

 
 うれしいことに、のどかな山村風景の中の1軒宿だった。さらに、客は一人で貸切りだった。


 築年数93年の家で、民宿を始めて43年だそうだ。


 囲炉裏が懐かしい。


 料理は見た目もきれいで、煮物が多く、その味付けがとても美味しくて大満足だった。このほかにそばも出て、こはんを持ってこられたときには食べることができなかった。

【歩数計】56304歩。これまでの最高記録になった。宿場間の距離に、寝覚の床と妻籠城趾の往復が加わったから多くなったようだ。

【諸経費】コンビニコーヒー100円、コピー30円、おにぎり200円、昼食800円、ドリンク140円、宿泊費+ビール8600円 〈計〉9870円

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