癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

函館山ふもと「19の坂道」全踏破ウォーキング & 坂道紹介~その1

2019年10月10日 | ウォーキング・ジョギング・マラソン

 函館山の麓には海に向かって名前の付いた坂道が19本並んでいる。これらは函館が箱館といわれた、開港間もない時代の中心が函館山ふもとの西部に集中していたことによるもので、当時の函館を偲ばせる名前が現在も残っている。この坂道を含む景観が西部方面の観光地の一翼を担っていると言っても過言ではない。

 なお、いろいろ調べていたら、この19のほかに、昔から名前の付いてる「さくら坂」「地獄坂」「すりばち坂」「テンコの坂」「みやま坂」という5つの坂もあるようだ。

 これらの坂道は部分的に歩いたり見たりはしているが、これらのすべてを意識したことはなかった。19本あるということも今回初めて知ったくらいである。
 そこで、今日はとりあえず、青柳坂から魚見坂までの19本の坂道をすべて繋いでウォーキングがてら、写真を撮りながらじっくり歩いてみようと思った。妻も仕事の原料が切れたので一緒に行きたいと言う。


<本日歩いたコース>

 車を青柳坂の近くに置いて、青柳坂の下からスタート。同じ坂を往復するのではなく、下から上まで登ったら、次の坂の上から下まで下るを繰り返すようにした。

 歩いた距離は、スタートの青柳坂の下からゴールの魚見坂の下までで約10.5km。9:50にスタートし、魚見坂下でゴールしたのが13:30で、所要時間3時間40分だった。
 さらに、途中で昼食を食べて、車を置いてある地点までの歩きが2.5kmで、合計13kmのアップダウンウォーキングだった。歩数計は約21,000歩。

 これまで歩いてじっくり見ることは少なかったので、いろいろ収穫が多かった。それらを含めて撮った写真を中心に、数回に分けて紹介する予定である。

坂道紹介~その1~まずは、①青柳坂、②あさり坂、③護国神社の坂、④谷地坂

①青柳坂(約400m)<下から上へ>

青柳坂(下から)
 昔はこの坂を「聖天坂(しょうでんさか)」といった。聖天とは大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)という仏教の守護神のことで、坂の途中にある天台宗天佑寺にまつられている。昭和40年まで坂上に春日町があったため「春日坂」ともいわれた。現在は、青柳町の方へ向かって登ることから「青柳坂」と呼ばれている。(坂標より)



 途中の主な建物~(左上)別名の「聖天坂」の名の由来となった大聖歓喜天を祀る天佑寺 (右上)古民家を利用した居酒屋「桜路」 (下)青柳小学校


青柳坂(上から)

②あさり坂(約300m)<上から下へ>

 あさり坂(上から)
 明治11年(1878年)、英人ジョン・ミルン、米人エドワード・モースらが来函し、函館在住の英人ブラキストンと協力して貝塚などを発掘したが、この坂の付近から古代人が食べたアサリ貝の殻が数多く発見されたので「あさり坂」と命名された。(坂標より)


 途中の主な建物~(左上)人気老舗の佐々木豆腐店 (右上)旧井上米穀店~看板がはずれされてしまったのが残念 (下)あさり坂下の阿佐利精肉店~店名は坂の名前に由来。


あさり坂(下から)

③護国神社の坂(約700m)<下から上へ>

 護国神社の坂(下から)~高田屋嘉兵衛の銅像と函館山
 別名「汐見坂」ともいい、昔は「招魂社の坂」とも「倒産坂」ともいった。汐見坂は坂上に汐見町ができ、その町名からとったもの。招魂社の坂は明治2年(1869年)に建立された招魂社(現 護国神社)に登る坂ということから呼ばれ、現在の名になった。倒産坂は坂に面して門を立てると罰が当たって“かまど”がつぶれるといわれ、昔は門を坂に面しないようにした。(坂標より)

<追記>明治2年に、「招魂場」、その後招魂社と変わったらしい。境内に高田屋の亀石を使用した「招魂場」の石碑があるとのこと。(ご指摘いただきました)


 途中の主な建物~(左上)千秋庵総本家 (右上)茶房ひし伊~旧入村質店の建物を改造。3回の大火すべてに焼け残ったのは、函館でもここの3棟だけとのこと。(左下)ツタが絡まる石灯篭 (右下)函館市公民館


 護国神社の坂(上から)

④谷地坂(約300m)<上から下へ>

谷地坂(上から)~初めて通った路だった。
 この坂と道路は昭和9年の大火などでいくらか変わってこそいるが、大体においてほぼ同じ位置で江戸時代からあったもの。谷地頭(やちがしら)は昔、遊興地として有名になったので、そこに行く坂として付けられたものらしい。(坂標より)


 谷地坂(下から)~特にめぼしい建物はなかった。

  <追記>どうやら「谷地坂」の位置は違うようで、はこだて検定のテキストの最新版から削除されたらしい。
 地元では谷地坂と呼ばれていないが、函館市が谷地坂という坂標を立ててしまったらしい。その根拠は1982年の北海道新聞社刊「はこだて歴史散歩」にそう書いてあったから、というのが理由とのこと。
 古地図研究家の著書には、もう1本十字街寄りの道を「谷地ノ坂」としている説もあるそうだ。

 残りの⑤から⑲までの「坂道紹介」は3回に分けて、順次アップしていく予定。