昨日から急に涼しくなった。数日前まで半袖で歩いていたのに・・・汗をかかないで歩けるのがうれしい。また、天候には実に恵まれている。昨夜降っていた雨も朝には上がっていた。まだ、一度も雨に当たっていない。
今回の旅は、街道沿いに宿が少ない。どうしても宿までの電車移動が多くなる。GoTo割引が適用になるじゃらんで予約できる宿にこだわっていることもあるのだが・・・。特に、今朝は、ホテル予約のミスもあり、ホテルから乗り換え等で1時間半近くも要した。
今日は、4 つの宿のほかに、間の宿が2ヵ所もあり、やたらと宿場が多く、得した感じだった。
4:50にホテルまで車で迎えに来てもらって、昨日のゴールの三谷駅に着いたのは6:14だった。
三谷駅~17矢掛宿
6:20、まだ夜明け前の旧街道に出てスタート。
田園風景の中をのんびり歩く。
18矢掛宿~七日市宿
1時間ほどのんびり歩いて、矢掛宿の入口に到着。
すごい力の入れようの案内板や「岡山町並み保存地区」の文言に嫌でも期待が高まる。
案の定、今回の旅では、最も宿場の雰囲気を残している。昔のままの重厚な商家造りが軒をならべている。観光にも力を入れているようだ。
「重要文化財 旧矢掛本陣石井家」
間違って消してしまったが、「脇本陣高草家」も重要文化財に指定されている。
矢掛宿の標石の説明板。
1kmほどの宿場は橋の手前で終わっている。
その後は、しばらく国道歩きが続く。
国道から旧道に入ると、再び、宿場の雰囲気を残す家並みに入っていく。
ここは、間の宿、小田堀越宿である。
古い家並みの中に、2軒だけ、大正時代のものと思われるモダンな建物がある。軒の模様も然り、大正時代の建物が並ぶ函館の銀座通りの建物と雰囲気が似ている。
再び、国道歩きが続く。途中で、矢掛町から井原市へと入っていく。
旧道へ入ると、今度は、また、間の宿・今市宿が現れる。重厚な旧家が数軒目につく。
この辺りは、標識はなかったが、本陣跡らしい。
神社の入口に中堀城址の標識が立っている。
19七日市宿~高屋宿
10:30、川を渡ると、七日市宿が現れる。ここは、井原市の中心部である。
立派な石に彫られた「旧山陽道 参勤交代 七日市宿場 本陣屋敷跡」の碑が立っている。
井原駅前の繁華街を抜ける。
旧道が直角に曲がる地点に「旧山陽道大曲跡」の説明板が設置されている。これは、矢掛宿を抜けた後にもあったが、単調な旅に変化を持たせる意味で、わざと作ったらしい。戦乱の世では、駆け抜ける敵の人数を数えたり、参勤交代のときは、殿様が行列の様子を眺めたりすることもできたそうだ。
20高屋宿~神辺宿
高屋宿は、入口に文化年間の常夜灯が立っている。
ここにも、旧家の間に大正時代のものと思われるモダンな建物がある。
高屋宿の出口の大きな看板が立っている。すぐその先に、岡山県と広島県の県境の高い標柱が立っている。昔でいえば、備中国と備後国の境である。普通、県境は川や峠にあることが多いが、ここには何もなく、突然隣の県となる。1歩跨げば、岡山県と広島県な足を置くことができる。
広島県福山市になるが、上御領地区に古い「一里塚跡」の石碑と菅茶山先生の漢詩「高屋途中」の碑が立っている。この菅茶山先生のことは、このあとでも触れる。
「南大門跡」~ここは、備後国分寺があったところの入口である。
この前は、近世山陽道(西国街道)と古代山陽道(石洲銀山道)の交差点だそうだ。自分が歩いてきたのは、近世山陽道だった。
やがて、堤防の上の歩きとなる。珍しい石橋を目にした。これは古いものであろう。
21神辺宿~神辺駅
神辺宿の入口付近に、「平野一里塚跡」の碑と、江戸時代の絵図が掲げられていた。
神辺宿へ入っていくと、国の特別史跡「簾塾と菅茶山旧家」がある。菅茶山は、幕末の学者でここで塾を開いていた。
この建物は、当時のものである。
今回の街道歩きで初めて目にした酒造会社「天寶一」
「神邉驛跡」~太閤秀吉が朝鮮出兵の帰途、立ち寄った館があったところ。明治以降は川北村役場が置かれた所。
神辺本陣~この建物は当時から残っているものである。
ここにも、大正時代の建物が残っている。
14:00、今日のゴール、神辺駅に到着。
このあと、10分ほど電車に乗り、福山駅前のホテルリブマックス福山へ。
駅から眺めた福山城。
今年オープンしたばかりのホテルだが、GoTo割引で2532円。地域クーポン券付き。1500円で泊まった感じ。
今日は、食べるところに恵まれず、朝は肉マン、昼はたい焼きのみだった。これから夕食に出掛けて、少しも良いものを食べよう。
今日の歩数計 46000歩。