癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

<7日目>44仙台宿~45長町宿~46中田宿~47増田宿~47岩沼宿~48槻木宿(5km)49船泊宿<35.4km>(9時間35分)

2019年04月17日 | 登山・旅行
 今日で、盛岡道から仙台道に入る。これまては宿の予約を前もってしておいたので、無理でも頑張ってほぼ計画通り歩いてきた。しかし、40km超えや10時間超えは歩くより、宿に入ってからのブログアップが辛い。目がしょぼしょぼになってしまう。15時前後には宿に入り、夕食までにある程度メドをつけたい。そうでないと、ブログを終えてすぐ寝るだけになってしまう。
 予備日はたくさんあるので、無理せずに、昼の段階でその日のゴールを決め、宿を探すことにした。

 そのお陰で、今日は、街道を離れて仙台城址(青葉城)と東北最大の雷神山古墳を散策することができた。ゴールは計画より1つ手前の槻木宿とした。なお、仙台からは、宿場の間の距離が短いので、歩きに飽きが来ない。

仙台宿~長町宿
 
 5:00にホテルを出る。街道の国分町通り付近は札幌のすすきののようなところで、朝帰りの若者がうようよいる。

     
 まずは、盛岡道と仙台道の境となる芭蕉の辻を目指す。明治安田生命の前に芭蕉の辻が登場する。
 ここには、芭蕉の辻と道標が並んで立っている。道標には「南 江戸日本橋迄 六十九次 九十三里 奥州街道」、「北 津軽三厩迄 四十五次 百七里二十二丁 奥道中」と刻まれている。ここでは、江戸から仙台までを奥州街道といい、これまて歩いてきた三厩までを奥道中といっている。正式な呼称は昔からなかったらしい。
 「芭蕉の辻」の碑には、名称の由来が刻まれている。それによると「かってここに芭蕉樹があったがためと言い、また繁華な場所ゆえの場所の辻の訛ったものだとし、更に藩祖政宗が重く用いた芭蕉という虚無僧が一時居住していたためとも言われ定かにはわからない」とある。「正式には札の辻」であって、ここを通っているはずの歌人の芭蕉とは関係ないらしい。

 仙台道をスタートする前に、せっかくなので、街道を離れて仙台城址(青葉城)を見に行くことにした。

     
 20分ほどで広瀬川に架かる大橋を渡る。この広瀬川は天然の堀の代わりになっているのでこの城には堀がない。

     
 橋を渡り、城址に入る手前に「片倉小十郎屋敷跡」の案内板がある。
しかし、自分が知っている片倉小十郎は、室蘭、登別、札幌市(白石区)の開拓の功労者である。 
 片倉小十郎は仙台伊達家筆頭の重臣で、代々城持ちの大名格として処遇された。白石藩の白石城である。徳川幕府は一国一城しか認めなかったが、伊達班には2城を認めたという。  

      
      復元された西御門?を上っていく。

      
      みごとな本丸北壁石垣
 
      
 下から10分ほど登って、本丸跡に到着し、伊達政宗公の銅像の前でシャッターを押してもらう。

      
     本丸跡から朝日に眩しい仙台の町並みを眺める。

 再び、芭蕉の辻に戻って、6:30、白河までの仙台道のスタートを切る。
 城下町は敵からの攻撃に備えて道を鍵型に曲げて造っているので、その曲がり角が分かりづらい。スマホのガイドマップから目が離せない。

     
 何度か曲がって進むと、東北大学構内の入口前を通る。

     
 街道の面影を残す白壁の旧家も目に付く。

     
 日本で最初の鉄筋コンクリートの橋の広瀬橋を渡ると、長町宿へと入っていく。しかし、まだ仙台市内である。

長町宿~中田宿

     
 宿場内はビルばかりで街道筋の面影は何も残っていない。がしかし、現在の風景ということで長町三郵便局前の様子をカメラに納めて先に進むことにする。

 長町駅前から太子堂駅までのビル街の広い県道を進み、東北新幹線のガードを潜る。太子堂駅前を過ぎたら、いっきに寂しい街道となる。
 名取川を渡るといよいよ中田宿だ。
    
     
 長い塀を回した家や白壁の旧家が2軒あるだけ(撮ったはずが写ってなかった)があるだけで、宿場の面影は全くない。写したはずの中の白壁の蔵造り家屋が、検段屋敷とのことだ。

     
 中田宿で面白い信号を目にした。歩いていったら、車が止まってあるのに信号がない。きょろきょろしたら、頭上に初めて目にする信号があった。これは、知らないとまごまごしてしまいそうだ。

中田宿~増田宿
 
 中田宿を出ると、宿場内をその先に進む。ほぼ直線の車道となった街道は見るものもなく、ただもくもくと進む。

     
 増田宿に入っていくと、松の古木がある。明治天皇に随行してきた木戸孝允の和歌の中で「衣笠の松」と詠まれたことから、「衣笠の松」と命名されたと案内板に解説されている。樹齢数百年とのことだ。

     
     
交差点を渡りその先に進むと、左手に長い塀と門構えと蔵のある旧家・荘司氏の屋敷か現れる。庭を覗いて見たら「明治天皇増田御膳水」との石碑が立っている。

増田宿~岩沼宿

      
      
 鞍館地区は、古代の古墳群や墳墓群が密集している地区だそうだ。東北最大の前方後円墳である雷神山古墳があるというので、街道からそれて見にいく。史跡公園になっていて、丸い小塚古墳もあった。雷神山古墳は長さが168mもあり、400年前後に築かれたようだ。仙台平野一帯を統治した地方豪族の墓だと解説されている。こんな大きな実物の古墳は初めて見たのでその大きさにビックリした。しかし、こんなに立派な墓なら誰々の墓と伝承があっても良さそうなのに、と素人的に考えてしまう。
     
 小塚古墳の上から雷神山古墳の後円墳部分を眺める。

    
 雷神山古墳の後円頂上から前方部分を眺める。

     
 鞍館地区を抜けると集落が切れ、水田地帯の歩きとなる。右側にまだ白い蔵王連峰が見える。

 国道4号へ合流して別れると、岩沼宿へと入っていく。その入口にかつやがあったので、昼食のカツ丼を食べる。
 今日は、槻木宿まで歩けそうなので、宿を探した。2軒あったがいずれも満室とのこと。仕方ないので、槻木駅から電車で戻ることにして、岩沼宿のホテル原田を予約した。高級ホテルで素泊まり5900円とのこと。昨日2000円だったから、まあ良いかと・・・。

 岩沼宿は旧家が良く目についた。
     
     

     
 
 上掲のどれがどれだか分からなくなったが、小野酒造(渡辺家)の蔵屋敷、代表銘柄の「武隈」の看板が屋根に架かっている。相傳商店は、1821年創業の老舗の造り酒屋だが、酒粕を使った奈良漬けが評判の店だそうだ。街道を更に進み宿場の中心から大分離れた所でも塀と門構えのある旧家が現れる。
 
     
 その先に、日本三稲荷・竹駒神社が現れる。携帯へ入ってみる。大きな神社だ。

     
 境内の中に芭蕉の句碑もある。

     
 大きな提灯の下がった山門にも驚く。
 神社の境内からホテルが見えたので、リュックを預けて、槻木宿を目指した。

岩沼宿~槻木宿

     
 静かな県道から国道4号に合流するが、阿武隈川の堤防の上を歩く。サクラがもう散り始めていた。

     
 国道から別れる地点に四日市場の一里塚の表示板のみがあった。

     
 槻木宿内を進んでいくと現代な家並が続くが、時折塀と門構えのある旧家が現れる。最初に現れる北条家は広大な敷地を有しているとのことだ。

 中心地辺りが槻木駅近くなので、その入口を今日のゴールにした。
 15:08の電車で岩沼駅まで戻り、コンビニで夕食を仕入れて、ホテルへ。結婚式場もある高級ホテルに泊まって、コンビニ弁当は年金生活者ならではの知恵?ちょっと侘しい・・・。
 今日は時間的余裕はあったが、ネタが多く、ブログアップに手間どってすっかり遅くなった。目がしょぼしょぼ。どんな小さな文字でも見える我が眼に感謝しつつ、乱筆乱文失礼!


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〈6日目〉40三本木宿~41吉岡宿~42富谷宿~43七北田宿~44仙台宿<41.8㎞>(10時間40分) 

2019年04月16日 | 登山・旅行
 今日は仙台宿までの盛岡道が終わるところだが、宿の関係で仙台宿の中心地まで行けなかった。明日は、わずかな残りを歩いて、いよいよ白河までの仙台道となる。

 今までで最も暖かく、初めて汗を掻いた。そのせいもあるが、ソメイヨシノはどこも見事に咲いていた。また、吉岡宿と富谷宿は宿場の観光にも力を入れているようで、往時の面影を色濃く残していた。

三本木宿~吉岡宿

 うれしい5:00からのバイキングの朝食を腹一杯食べてスタート。

      
 三本木宿に入って行くと、北町がその中心地だったようで、右手に新澤醸造店の蔵屋敷が現れる。

     
 さらに進んでいくとカーブするところに、左右に門構えの旧家が現れる。
 三本木宿を抜けると、国道4号の歩きとなるが、朝の交通量がものすごい。ときどき左右に残っている街道に入るとほっとする。
 
     
 やがて、国道から離れ、見晴らしの良い高台の歩きが続く。しかし、それも、そのあと工業団地の造成で街道が寸断され、その団地の中のあたらしい道路を迂回することになる。

 広大な工業団地を抜けて、本来の街道に出ると、吉岡宿へと入っていく。「吉岡宿本陣案内所→」の看板があり、期待を抱かせる。

     
 吉岡宿に入っていくと、やたらと映画「殿、利息でござる!」の映画の説明が多い。この吉岡宿を舞台とした映画があったようだ。調べてみたら、2015年の映画で、原作は磯田道史の評伝「穀田屋十三郎」で、18世紀に仙台藩の吉岡宿で宿場町の窮状を救った町人達の記録『国恩記』を元にしているとのこと。

     
 下町に進む。左手に門柱に「酒類醸造所」の看板が架かった早坂家が現れる。ここは下町で一番の大店だったそうだ。ここも映画の中に登場したらしい。
 このあと、高札場跡や映画の主人公の穀田屋跡の説明板もあった。

     
 その先の角を曲がると、「吉岡宿本陣案内所」があった。もとはセブンイレブンの建物だったようで、ここが本陣跡とのこと。案内所は残念ながら定休日だった。
 その前が街道だったのに、それまで歩いてきた道を街道だと勘違いして、往復1km以上も無駄足を踏んだ。

     
 戻って進んで行くと、歴史を感じる大きな木造の建物があったが、説明はなかった。

吉岡宿~富谷宿

 吉岡宿を抜けると、4kmほどの国道歩きが続く。反対側から警官をたくさん乗せた装甲車が次々とやって来る。全部で15台以上はあったろう。あまり来るのでナンバーを見たら、宮城、岩手、福島、秋田、山形と青森以外の全てがあった。どこへ、なんの目的で向かったのか非常に気になった。

 やがて、国道から離れ、富谷宿へ入っていく。

      
 その曲がり角に内ヶ崎別邸がある。河北新報社の観光百選にも名を連ねた庭園があったとのことだ。
     
       
 先に進むと土蔵づくりの家が現れたりする。

     
 その先には、脇本陣気仙屋跡碑がある。
 
     
 少し進むと、内ヶ崎家が現れる。本陣とともに酒造店も営んでいたようだ。南部信濃守宿などの関札などが残っているとのことだ。

     
 その隣には土蔵づくりの店があり、富谷宿をとおった松前藩、南部藩などの大名の宿札のレプリカが展示されているらしい。

富谷宿~七北田宿

 往時の宿場の面影を色濃く残している富谷宿を抜けると、ずっと国道歩きが続く。仙台が近くなるせいか、道路幅も広く交通量も多い。時おり残る街道へ渡るにしても信号のないところは無理である。
    
     
 そんな中、国道のすぐそばを通る農道に転用されている街道歩きはうれしかった。

 仙台市に入る手前のガストで、昼食に月替わりランチを食べた。やがて、国道から別れて七北田宿へ入っていく。

     
 この七北田郵便局の辺りに、往時には本陣があったそうなので、郵便局と通りの写真を撮った。あとは、宿場の面影を残すような建物も見当たらなかった。

七北田宿~仙台宿

 七北田宿を抜けると、広い県道に出る。しばらく進むと、県道の右手に上がっていく道となる。街道は県道と平行しているが、高いところを通っている。

     
 騒音で賑やかな車道を見下ろしつつ進む。気持ちの良い眺めだ。

     
 ももなくして、「仙台藩刑場跡」が現れる。お地蔵様と南無妙法蓮華経と刻まれた供養碑がたち、花が供えられていいる。1690年から百姓、町人等の罪人の磔、火焙り、斬首、獄門の刑がここで執行され、その数5300人とも7000人ともいわれている。なお車道側の地蔵様は車道の東側にあったものを、道路拡張工事にともなって現在地に移設したとのことである。それにしても大勢の人が処刑されたものだなと思った。合掌!

 どんな大きな町や都市でも、宿場は街道筋にあったので、必ず国道や広い県道沿いにはない。国道や県道から別れて、細い街道へと入っていく。

     
 大都市の仙台もそうである。その入口に、「御仲下改所(おすあいどころあと)」の案内板がある。これは城下に持ち込まれる商品から税金を取る北の番所跡で、東西南北にあったものであるとの解説と絵が書き込まれている。

     
 その隣に佐大ギャラリーがある。往時は堤焼きの窯元が沢山あった所だが今はなく、堤焼きを展示している佐大商店だけが残っているようだ。

       
 やがて、光明寺の階段の下に、スペイン、ローマへと渡ってきた支倉常長の墓があるとの標柱が立っていた。見に行きたかったが、すでに40km以上も歩いた足にその階段を昇る元気はなかった。

     
 その先に、サクラに彩られた青葉神社があったが、ここも境内はパス。そこから向きを変えて、仙台宿に向かって直線の狭い国分町通り商店街が続く。

      
 しばらく進むと、右手に検段屋敷だった伊澤家が現れる。門構えがあり、どっしりとした蔵造りの建物はやや壁がいたんではいたが街道筋の面影を残している。左の通りに、仙台市役所や宮城県庁を見ながら進む。

     
 15:55、ホテルが近くなって来たので、定禅寺通りとの交差点を今日のゴールとした。

     
 5分ほどで今日のカプセルホテル・リーブスに到着。これまでで最も遅いゴールかも?
 昼食後に一応じゃらんを通して予約を入れたら、突然割りという2000円の企画があったので、当然それにとびついた。チェックインの時に聞きそびれたが、空いていたのと、入口のドアのそばのベットだからではないかと勝手に解釈した。

 20:30にようやくブログを打ち終えたので、これから夕食へ。残念ながらホテルのなかに食べるところはないので、着替えて外へ出なくてはならないのがちょっと面倒くさい。


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<5日目>36築館宿~37高清水宿~38荒谷宿~39古川宿~40三本木宿〈32km〉(8時間35分)

2019年04月15日 | 登山・旅行
 今朝になって、すでに築舘宿に着いていることが判明。しかも、このすずはる旅館周辺が宿場の中心地だったとのこと。確かにそばに栗原市役所もある。宿の主人は、当時の面影を残すものはないという。見落としたものがあるかも知れないが、そのまま前進することにした。

 5:15、雨予報だったので、完全装備で玄関を出たら、すでに止んでいた。しかし、その後1時間ほどは降ったり止んだりを繰り返した。その後晴天になったが、風が非常に強かった。

 ここ2日間は好天で暖かかったので、ついに、開花したソメイヨシノが迎えてくれた。日当たりの良いところは、すでに3分咲きくらいにはなっていた。

築館宿~高清水宿

       
 宿の前の街道を下って行くと右手に「奥州杉薬師如来」の看板と登り階段が現れる。ここを登っていくと薬師堂の姥杉、樹齢1200年を越える杉の大木が現れる。落雷や火災にあったため上部は切断され、幹の片側は表皮がむけてしまって痛々しいが枝も繁っていて元気な様子だ。

     
 その先の交差点の間から地図上では街道が延びている。よく見ると、細い自然道は確かにある。それを下ってしばらく進むと、街道の正面に人家がある。そこで街道は行き止まり。左手奥は私有地で行き止まりとなっている。その民家の方の話によると旧国道を造るときに、旧国道の土地と街道だった土地とを交換し、畑にしてしまったので街道は消失してしまったとのことだった。少し戻って左へいけば国道にでられるとのこと。確かにガイド地図を見たら、そうなっていた。

     
 国道を少し進んでいくと、左へ入る。その先に、自然道が見え、奥州街道の標識がたっていた。昨日も歩いた昔のままの街道歩きとなる。

     
 昨日同様、見事なまでの苔まで生えた街道が保存されている。車止めもないのに、タイヤ痕もないことに驚く。

     
 昔のままの街道を抜け、車道に出たところに「明治天皇行幸記念碑」があった。

     
 その先の農道を進むと、石造りの奥州街道の標識が現れ、その先の右側に農道に転用されている自然道の街道が続く。

     
 その街道を進んで行くと、交差点に出る。その角に力石の山神様の碑がある。

     
 そのすぐ先に、石母田氏が百姓一揆勢を説得してくい止めたという「三迫百姓一揆旧蹟」がある。

     
 その先に再び保存整備されている街道があり、立派な標石が立っている。このような立派な標石はここまでで5本ほどあった。
 国道へ出たところにコンビニがあったので、サンドイッチとカフェラテの朝食とした。

     
 ついに、開花したソメイヨシノ第1号との対面である。そこは善光寺の境内だった。昨日までの2日間の好天で一気に咲いたようだ。このあとも、あちこちで目にすることができた。さらに南下する明日か明後日には満開のソメイヨシノを楽しめることだろう。

     
 この善光寺は、奥州藤原氏第二代の基衡が父清衡の菩提を弔う為に、信濃善光寺を模して創建したもので「阿弥陀如来像」が祀られている。

     
また、寺の入口には「北条塔」といわれる板碑や石塔が並んでいる。鎌倉幕府執権北条高時が新田義貞に敗れて自害したのを悼み、北条の縁者が建立したとのことである。

     
 いよいよ高清水宿へと入っていくが、「本陣」とかかれた看板をめにする。ここが本陣だったのか?と思って少し進んだ。

     
 その先の右手に、鉄柱に書かれた、明治天皇が巡幸のおり休息した旧本陣沼倉屋跡を示す碑があった。宿場の面影を残すものはこれくらいだった。

     
 左手に門構えの旧家が現れる。門柱には「まるさん醤油醸造元」と書かれている。

      
 集落の端の下り坂を暫く進むと、右手の小道の角に七清水の一つである「本町裏清水」の石碑が現れる。高清水宿は古くから高台の地に清水がわいていたことに由来するもので、七清水と呼ばれるように七箇所から水が涌いていたとのことである。その一つがこの本町裏清水だが、枯れてしまったようだ。

高清水宿~荒谷宿
 
 荒谷宿までは、途中から国道4号に合流する。国道は真っ直ぐだが、街道は蛇行しているので、昔の街道が国道を横切りながら続いている。そちらを歩く。車の轟音から解放されるだけでも快適だ。

     
 荒谷宿に入り、先に進むと右手に郵便局が現れるが、ここは本陣跡だとのことである。その隣は庄屋だった家であり、郵便局長のお宅でもあるとのことだ。

     
 その先に、藁屋根の古民家然とした2棟が建つ旧家と思われる屋敷が現れる。どうも居住している雰囲気ではない。

     
 その裏へ回ったら、ソメイヨシノが咲き、敷地内に大きなマンションかと思うような介護老人ホームが建っていて、その名もずばり「庭の里」。前の屋敷の庭園が由来なのだろう。

     
 そのすぐ後ろの斜面に、一面の菜の花が咲いていた。

荒谷宿~古川宿

 東北本線を左に見ながら南下する。これまでにも、ライラック色のラインを入れた北海道新幹線が疾走する姿を見るたびに、郷愁に似た感情が湧く。
 県道を黙々と進む。古川の繁華街へと入っていく。その先の十日町交差点を右折すると七日町となる。

     
 往時の宿場に入ることになるが、現代的な商店街となり街道筋の面影を残すものはなにもない。

     
 曲がり角の奥に古川城址があるというので、進んでみる。大きなクランドを持った小学校が現れる。そこが古川城跡である。
 案内板によるならば、古川城は中世のころ大崎氏の家臣だった古川氏が居城としたことに始まり、やがて伊達政宗の重臣鈴木元信が居をかまえた城でもある。元信の没後は伊達藩の直轄地となり城は廃止されていたと説明しいる。なお、大正デモクラシーの思想的指導者だった吉野作造の生地でもあるので、「ゆかりの学舎」と案内板に記されている。

     
 街道に戻って少し進むと、歌枕の地として名高い緒絶橋が現れる。案内板にはこの地は玉造川(現、江合川)の川筋が7世紀ごろから東に移動してしまったことによって残された川筋であることから、玉の緒(いのち)の絶えた川・緒絶川と呼ばれ、その上に架かる橋は緒絶橋と呼ばれたと解説してある。また、「みちのくの をだえの橋や 是ならむ ふみみふまずみ こころまどはす」と藤原道雅が詠んだ歌が勅撰和歌集に選ばれたことによって歌枕として定着し、全国に知られるようになったことも記してある。私にとっては初めて知ったことであるが・・・・。
 
     
 この角の建物は、橋平酒造の建物で、川には鯉が泳ぎ、橋の隣りには櫺子格子の食事所があり、またその横から入る敷地の中には、蔵造りのみやげ物屋や食事所があり、観光地となっている。

     
 ちょうどお昼になったので、その中の蔵造りのレストランに入り、日替わりランチを食べた。

     
 しばらく進むと、右手に瑞川寺が現れる。伊達政宗の重臣鈴木元信が再興した寺であり、風格のある山門は古川城の搦手門を寺門風に改築して寄進したものであり、室町時代の建築様式のものだとのことである。

古川宿~三本木宿
 
 古川宿を出て、2kmほどの直線道路を進む。やがて国道4号と合流する。三本木宿へと入って行くが、今夜のバリュー・ザ・ホテル古川・三本木がその手前なので、その入口の三本木郵便局を今日のゴールとした。

     
 13:50、ホテル到着。早かったがチェックインさせてくれた。何とも不思議なホテルだった。市街地ではなく、広大な敷地の中に、今は営業していない?ボウリング場や廃棄物処理工場などがあり、その前に、新しい2階建てのマンションのような宿泊棟がずらっと並んでいる。530室もあるそうだ。
 詳しくは分からないが、東日本震災の復興支援を目的に建てられたホテルだそうだ。部屋は新しいので非常に快適だ。
 周りに食事が摂れそうなところもない。当然食事付きとなるが、2食付きで5985円という安さである。しかも、うれしいことに朝食は5:00からとのこと。
 
 今回初めて、夕食前にブログをアップできたのて、ゆっくり夕食を楽しめそう。

     
 管理棟の広さや食堂と厨房の広さに驚く。10人は楽に座れるテーブルが40席以上。合宿には最高だろう。生ビールもあったが、缶ビールの自動販売機もあった。安いので料理はあまり期待していなかったが、バイキングで何を食べても美味しかった。洒落た料理はないが、おばちゃん方の味付けが良いのだろう。
 これまで、きちんとした夕食を食べていなかったので、しっかりと栄養補給に努めた。


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〈4日目〉31一関宿~32有壁宿~33金成宿~34沢辺宿~35宮野宿~36築館宿〈32.5km〉(8時間15分)

2019年04月14日 | 登山・旅行
 計画書の今日のコースの時間計算が1時間多く間違っていて、正しくは27.7kmだった。それでも、途中2度間違って3kmほど余計に歩いたのと、宿近くまで明日のコースを2km歩いたので、実測距離は32.5kmだった。
 
 今日は、往時のまま整備保存されている山越えの道が2ヵ所合計で4kmほどあったり、ほかにも舗装道路だが山越えの道や田んぼの中の畦道歩きがあったりと、非常に野趣に富んだ1日だった。
 さらに、函館ハリストス教会の流れを引く金成ハリストス教会とのうれしい出合いもあった。

 昨日に引き続き、好天で気持ちの良い歩きを楽しむことができた。

一関宿~有壁宿 

 5時にホテルをスタート。1時間ほど県道歩きが続いたが、途中から山の方へ向かう道に入る。その入口の民家の方に聞いたら間違いなく昔の奥州街道だと言う。自信を持って進んだら、突然道が消える。あちこちきょろきょろしたが、ほかに続く道はない。 

     
 改めて前を見たら、2本の杭が立ち、その先に刈り払われたような自然道が続く。これが昔のままの街道で、整備保存されているのだろうと思って、進んでいく。

     
 感心するのは、人が歩くための整備ではなく、昔のままの街道そのものを保存しているのである。車の轍もない。完全に江戸時代にタイムスリップできる道である。

     
 橋が落ちたところに仮橋を掛けている。

     
 40分歩いたので、2.5kmくらいであろうか?舗装された林道に出る。そこには、有壁宿の旗とここまでの街道整備のことが書かれた案内板が設置されていた。有壁宿助郷の会が整備しているらしい。感謝して林道を下る。
 山越えをしているうちに、いつのまにか岩手県から宮城県に入っていたようだ。

     
 山から下りたらすぐに有壁宿だった。こじんまりとした家並みだが、どの家も立派である。

      
 すぐに佐藤本陣が現れる。有壁以北の松前氏、津軽氏、八戸南部氏、盛岡南部氏などが宿泊したところであり、関札などの資料が残っているという。白壁と櫺子格子の戸、黒板塀が貴賓を漂わせている。よくメンテナンスされているようでほころんでいる箇所はない。その横にはこの道が奥州街道であることを示す道標がある。

     
 外れには、萩野酒造があり、その前に有壁宿の説明板が立っていた。の前にでる。この酒造は脇本陣を勤めてきた家である。

有壁宿~金成宿
     
 舗装された林道になっている街道を下っていくと、「明治天皇東北御巡幸御野立休憩所」の標柱が現れる。階段になっているのでその先に登ってみると、野立所址の立派な石碑が立っていた。野立をするところは展望の良いところが多い。木が大きくなって見えなくなったのか、展望台もあったが、階段がぐらぐらするので昇らなかった。

     
 また、農道を歩いていると、再び整備された街道が現れる。実はこの入口を見落として先へ進んでしまい、往復で1kmほど無駄足を踏んだ。

     
 ここも実に丁寧な整備状況である。今まで多くの街道や古道を歩いてきたが、これほど往時の姿まで復元しているのは珍しい。途中で高速道路に寸断されていたが、迂回路も用意されていた。

     
 やがて、金成宿へと入っていく。左手に公民館が現れる。ここは金成宿本陣跡であり、大肝入であった菅原家が勤めてきたもので、仙台藩主伊達綱村なども宿泊したとのことである。左手に立派な門構えの旧家もあった。
 左手にけやき会館の看板が現れるので左折してけやき会館へ向かう。けやき会館の左手奥に案内板があり、けやき会館の地は仙台藩の金成代官所があった所で、三迫、磐井などの村から年貢の徴収をしていたと記してある。

        
 けやき会館の裏には歴史民俗資料館がある。この建物は明治20年に建てられた木造素木造り、小羽葺き(現在は銅板葺き)の二階建ての旧金成小学校校舎を利用している。
 庭の手入れをしていた管理人に、いろいろな話を聞く。前に並んでいる巨木はけやきで、前の金成町(現栗原市)の町木だそうだ。
 
     
 資料館の隣に建つ金成ハリストス教会。函館のハリストス教会で、最初にニコライ神父から洗礼を受けた坂本龍馬の親戚筋の澤辺琢磨は有名な話だが、そのときにあと何人か一緒に洗礼を受けている。そのひとりにこの金成出身の川股篤礼がいた。
 その甥の川股篤太郎が、函館のハリストス教会を模して建てたという。思いがけず、この地で函館との所縁を知り感動しながら、金成宿をあとにする。

金成宿~沢辺宿
 
 このあと、金成宿から2kmしか離れていない沢辺宿を目指す。しかし、T字路を反対に進んでしまった。店の1軒もない宿場は珍しいと思いながら1km以上も歩いてから間違いに気づいて戻った。

 
 結局2倍の時間を要して、沢辺宿に入っていくが、宿場の面影はおろか、なにも見るべきものもなく通りすぎてしまった。

沢辺宿~宮野宿 
     
 県道から国道へ合流して橋を渡るが、昔の街道の橋は少し上流にあったらしい。橋を渡ってから堤防の上を進む。その面影を残すガードレールが両側に残っている。

     
 その橋から南へ続く道はない。ガイド地図によると、畦道を歩くらしい。今までの街道や古道歩きで畦道歩きは初体験である。多分、水田の区画整理で整理されてしまったのだろう。

      
 その先に、舗装はされているが、笹で覆われて笹刈り整備がされている街道跡もあった。
 農村地帯の街道を進み、やがて、宮野宿へ入っていく。

     
 一番先に目を奪われたのが住宅の裏山に生えている見事なシダレザクラである。もう色づいている。

     
 その手前の家の前に「中世大崎古文書」を所蔵している旨の白い標柱が立っている。及川家である。ここは検断屋敷でもあったとのことである。

     
 その先に、立派な門構えの旧家があるが、その屋敷の中の建物の上に郵便マークが刻まれている。多分昔は郵便局だったのだろう。

     
 奥まったところにおむすび保育所がある。ここは往時の宮野代官所跡であり、栗原群一迫、二迫郷を支配していたと案内板に記されている。

 ここで宮野宿は終わりである。しかし、予約した宿はさらに明日のコースを2kmほど進んだところにある。そこまで国道4号を進んだ。宿のすぐそばにすき家があったので、そこを今日のゴールにした。
 13:45、すき家に入る。今日のコースにはコンビニも食堂もなく、朝は非常食用の煎餅2枚のみで、腹ぺこだったので、牛丼の大盛りを食べた。

 その後、宿に入るには早すぎる。たまたますぐそばに栗原市立図書館があったので、そこで、ブログの下準備をする。

     
 16:00にすずはる旅館到着。素泊まり4500円。大きなお風呂がうれしかった。18時にコインランドリーで洗濯をしている間に、また、すき家でから揚げカレーを夕食に食べた。

ブログをようやくアップし終えて見たら、画像の縮小サイズが間違っていた。訂正する元気はない。

(翌日追記)宮野宿~築館宿
 翌朝になって、築館宿までの残りのコースを確認したら、すでに築館
宿に着いていることが判明。しかも、泊まったすずまる旅館の辺りが宿場の中心地とのこと。しかし、当時の宿場の雰囲気を残すものは何もないらしい。見落としたものもあるかもしれないが、そのまま前進することにした。


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〈3日目〉27金ヶ崎宿~28水沢宿~29前沢宿~30山目宿~31一関宿<39.4km>(9時間20分)

2019年04月13日 | 登山・旅行
 昨日42kmも歩いたのに、脛の軽い筋肉痛以外にどこにも痛いところはないし、疲れもあまりない。いつもは3日目が一番辛いのだが、今日も快調に歩くことができた。天気はこれまでで最も良い天気で、ぽかぽか陽気の春の歩き旅を満喫できた。
 今日は、歴史上で有名な胆沢城や平泉のほかに、幕末の偉人に関わる史跡も多く、見所満載だった。しかし、平泉の中尊寺や毛越寺などは何度か訪れているし、街道から離れるのでパスした。

 今日もロングコースなので早く出たかったが、金ヶ崎へ戻る一番電車が6:10だった。

金ヶ崎宿~水沢宿

 6:25昨日のゴール地点をスタート。すぐに繁華街となる。

     
 いきなり、早咲きのサクラのお出迎え。ソメイヨシノではないが。ほっかいどうでは見ることのない可愛い花びらのサクラだった。

     
 家臣団屋敷跡が左手に現れる。案内板によると金ヶ崎城主大町氏の家臣たちの屋敷が小路に並んでいたとのことで、街道から少し奥へ入ると、今もその雰囲気が残っている。

     
 その中から「大沼家侍住宅」を写す。武家屋敷には珍しい土壁の家だった。
 金ヶ崎宿を抜けると、北上平野の水田地帯の県道をひたすら歩く。
 胆沢川を渡ると、奥州市へ入る。

     
 やがて、左手に鎮守府八幡宮の朱塗りの鳥居と胆沢城址の標柱が立っている。この辺りは広大な胆沢城址の敷地らしい。
 胆沢城は、陸奥国胆沢郡胆沢にあった日本の古代城柵。国の史跡に指定されている。 坂上田村麻呂が802年に築き、1083年の後三年の役の頃まで約150年にわたり鎮守府として機能した。

     
 少し進むとやはり左側に胆沢城跡の石碑と胆沢城の全貌を示した案内板があり、遺構を復元した広々とした土塁と芝生が広がっている。平安時代には確かにここに広大な胆沢城があったのだと実感した。歴史で学んだ知識を実際に目にできてイメージが膨らむ。

     
 いよいよ賑やかな水沢宿へと入っていく。「上伊沢代官所跡」がある。

     
 大通りを進み、左手に少し入ると「後藤新平記念館」がある。
 後藤信平は、この水沢出身で、台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁。拓殖大学第3代学長を歴任し、関東大震災後に東京再建に手腕を発揮した。

     
 武家屋敷資料館。

     
 街道から少し入ると、幕府の鎖国政策を批判した蘭学者・高野長英旧宅がある。ここは長英の母の実家で江戸にでるまでの一時期を暮らしたところである。その隣には武家屋敷の高橋家がある。ここの通りは往時は大畑小路といわれた武家屋敷通りだった。

 城下町の街道は鍵型に曲がりくねっているので、詳しいガイドマップとにらめっこしながら歩かなくてはならない。水沢宿を抜けたところのコンビニでサンドイッチの朝食を摂る。

水沢宿~前沢宿

 水沢宿を出ると、左側に北上平野が広がるのどかな農村地帯の歩きとなる。

     
 「真城上中野の一里塚」の説明板がある。片方残っていると書いてあるのにいくら探しても見当たらない。ふと、下を見ると、朽ちた木の間に一里塚と書かれた小さな標識があった。もともとは3mの高さだったそうだ。

     
 梅が咲き、のどかな農村風景か広がる。

     
 県道歩きだが、時おり旧街道が残っている。その桜並木の並ぶ街道。ソメイヨシノだが、咲くまでにはまだ1週間ほどは掛かりそうだ。

      
 このような豪華な塀と門を兼ねた、いかにも豪農といった農家も目につく。

     
 前沢宿に入る手前に岩手誉の蔵元がある。

     
 その先に進むと門構えのある太田家の大きな屋敷が現れる。この建物は、明治期に建てられた近代和風建築の民家として、岩手県の有形文化財第1号となっていると案内板に記されている。その先では櫺子格子の民家を見つつ進む。宿場の面影はまったくない。

前沢宿~山目宿

     
 前沢宿を抜けると、今回初めての急な登り坂となる。本浄寺坂というそうだ。それを上って進むと、工業団地の中へ入っていく。

     
     
 その突き当たりに、なぜか「奥州道中」の説明板がある。しかし、その先は私有地で立入禁止の看板が立つ。その先も高速道路のICで寸断されている。右の道からぐるっと遠回りの迂回路を歩き、高速道路の下を潜って、その先の街道に合流した。せめて、その先は寸断されていることと迂回路の説明も書いておいてくれれば良いのに。
 迂回路から下りて曲がる地点を間違えて西側へ1kmほど進んで間違いに気づいた。2kmほどの無駄足だった。これも歩き旅には付き物で、面白さでもある。

     
 途中から、昨夏に登った真っ白な焼石連峰が見える。このあと、平泉へ向かう衣川地区でも右往左往した。

 衣川の手前の食堂で、遅い昼食の味噌ラーメンを食べる。

     
 その食堂の前の街道を行くと、衣川の堤防にぶつかる。両側に「ころもがわばし」と書かれた欄干が立っていた。
 堤防の上を少し下流へ歩き、県道の橋を渡った。

     
 街道の斜面の上にカタクリの群生があった。

     
     中尊寺の入口だけをカメラに収める。

     
 そのそばに、衣川で立ち往生したまま亡くなった弁慶の墓がある。

     
 中尊寺通りと呼ばれる街道を進むと、世界遺産にもなっている無量光院が現れる。広場の案内板には藤原氏三代秀衡が宇治の平等院鳳凰堂を模して建てた寺院があったと浄土庭園の再現絵とともに記されている。今はまだ整備中らしい。
 
 平泉駅前を過ぎて、しばらく進むと一関市になる。

     
 やがて、山目宿へ入っていく。櫺子格子の家の前には「カスリン台風洪水位(昭和22年9月16日)」と書かれた標識がある。一階の軒下にせまる程の水位だったので驚いた。

     
 山目宿の最後の方に配志和神社の鳥居が現れる。本殿までは約1km位あるので訪れるのは止める。鳥居の左手手前には1795年に建てた道標がある。先に進み山目一丁目の右手前に来ると、問屋跡を示す「山目宿問屋・旧上町」」の白い標柱が現れる。これが唯一宿場を示すものだった。

山目宿~一関宿
 
 山目宿を抜けると、次の一関宿までは2kmである。コールは近い。
     
 磐井川を渡ると、右手に芭蕉二夜庵の碑が現れる。ここは1689年5月12日、13日と芭蕉たちが平泉探訪のために宿泊した金森家の場所である。

     
 橋から下って、右折して進むと酒の民族博物館が現れる。世喜の一酒造の酒蔵を活用したもので、この酒造家には幸田露伴や島崎藤村なども滞在したとのことである。

     
 ちょうどお祭りのようなイベントが開かれて、とても賑わっていた。

     
 一番の繁華街の大町となる。先に進むと「大町の由来」という石碑があり「徳川時代の初期から宿場町として栄えて来たところです。その時代は仙台藩主・伊達政宗一門・留守政景が一関城主となり中心街を「大町」と名付け、以来、暦代の一関藩主田村氏に引継がれ今日に至っております」と記してある。しかし街並みは現代化され街道筋の面影はない。

 駅前の交差点を駅側に少し入るとそこには「芭蕉辻」碑と「日本の道百選 ”奥の細道”」碑が立っている。「芭蕉の足跡を後世に残すため」と刻まれている。 

    
 その目の前が、今日の宿一関グリーンホテルだった。素泊まり4600円。夕食は、近くのコンビニで弁当と適当なもので済ませた。


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<2日目>24石鳥谷宿~25花巻宿~26黒沢尻宿~27金ヶ崎 宿<42.6km>(10時間15分)

2019年04月12日 | 登山・旅行
 今日は宿の関係で、距離は長かったが水沢宿までの予定を立てた。しかし、途中の間違いや街道が下水浄化センターで寸断されていて、トータルで4kmほど遠回りをしてしまった。しかし、GPS計測の距離は参考にしたカイドよりかなり長く、1つ手前の金ヶ崎宿手前で42.6kmもあり、所要時間も10時間15分になっていた。そこで、金ヶ崎駅から電車に乗って、水沢駅前のホテルへ移動した。

24石鳥谷宿~25花巻宿

 日の出時刻に合わせて、5:00に宿を出る。朝はマイナス気温だったが、天気が良かったので徐々に暖かくなった。
     
 歩き始めてまもなくの好地一里塚跡案内板。江戸から133番目の一里塚と解説されている。 

     
 その先の左手に「石鳥谷・宮沢賢治塚の根」の看板があり、その空き地に「石鳥谷肥料相談所跡」の案内板が現れる。「昭和3年3月15日から一週間、宮沢賢治先生による肥料相談所が開設されました」とある。賢治はここから眺めた一里塚の情景を『春と修羅』第三集に書いているとのことである。塚の根は一里塚のことか?

 石鳥谷は南部杜氏の里を謳っていて、国道の道の駅に「南部杜氏伝承館」があるが、朝早いので開いていない。残念ながらパス。

     
 右手にひばの古木が現れる。名木「逆ひば」の名称。見る角度によっては根本が細く見えないことも無い。弘法大師の杖が根付いたという説があるとのことだが、全国あちこちに似たような伝説がある。

     
 街道を進んでいくと、次の一里塚が現れた。江曽一里塚である。東側のみが現存していると案内板に説明されている。塚の隣には明治天皇御小休所の石碑がある。道を挟んで、天保8年の大飢饉の餓死者の慰霊碑も立っていた。
 花巻空港を左に見て、交通量の多い国道を進む。やがて、国道と別れて花巻市街地へと入っていく。

     
 裏通りのような道へ入っていくと、「花巻城下町発祥の地」の碑があり、四日町が最初に宿場となり次に八日町と一日市町が開かれたとしるされている。また、その右奥の花北地区コミュニティ消防センターの横には「明治天皇御聖蹟」の案内板があり明治9年と14年に明治天皇がこの宿場に宿泊したことが記されている。昨秋もあちこちで目にした石碑である。

花巻宿~黒沢尻宿

 街道は、花巻城址の坂を上っていく。「早坂御門跡」の説明を読むと、街道は城の敷地の中を通っていたようだ。

     
     平成4年に復元された西御門周辺。

     
 城址から眺める花巻市街地。城址のほとんどは花巻小学校の敷地になっている。登校してくる子供たちと挨拶を交わしながら坂道を下り、城址を抜ける。

     
 市役所の辻向かいに建つ「時鐘 盛岡南部城鐘楼」。ここの城は花巻城だが・・・?
 城址をあとにして、市街地へ降りていく。コンビニのイートインで、コーヒーとサンドイッチの朝食を摂る。

     
 「宮沢賢治生家」の標石が立つが、この家は現在も居住しているので、この建物ではないだろう。

     
 花巻市街地を抜けると、のどかな農村風景の中の街道歩きとなる。南城小学校の校門の中にある「奥州街道名残の松」。この先にも1本残っていた。往時はずっと続いていたらしい。

     
 北上川の流域に広がる水田の向こうに見える真っ白な早池峰山。やがて、北上市へと入っていく。

     
 見事なほどに当時のままの原形を留め、左右健在な「成田の一里塚」。これほどのものは本当に珍しい。江戸から129里、盛岡まで10里と記されている。

     
 さらに、1里進むと、今度は「二子の一里塚」が現れる。ここも左右とも健在だが、片方の木が生えていない。江戸から128里、盛岡まで11里を示していると案内板に紹介されている。しかし、左の塚は隣の神社の森とかぶっているのでパッとしないのが惜しい。
 このあと、どこで分岐を見失ったかわからないが、気がついたら、コースから外れて東側の道を歩いていたことに気づく。途中から北上工業団地の中を抜けて街道へ戻った。1~2kmほどの遠回りになったようだ

 まもなく、黒沢尻宿へと入っていく。ここは北上市の市街地である。
 
     
 繁華街の百貨店の前に「本町の起こり」の説明板が立っていた。それによると、この辺りか黒沢尻宿の中心地で、本陣や脇本陣があったと記されている。

     
 その斜め向かいの十字路の角の松屋呉服店の場所に本陣があったらしいが、標柱も立っていない。

     
 その十字路の先はアーケード街になっていて、少し先の北上信金の前に、これまでの奥州街道で初めて目にした脇本陣の標柱が立てられていた。

     
 北上市街地を抜けたら昼になった。食事できそうな所を探して歩いていたら、60種類の海鮮丼すべてが500円というテイクアウトの店を見つける。海峡丼を購入。そばの和賀川に架かる九年橋の下の遊歩道の階段で食べた。まぐろ、いか、甘えび、いくら、とびっこ、ほたて、かにの7種のネタが乗っていた。函館朝市でも同じような店はあるが、これほどのネタは載っていない。
     
黒沢尻宿~金ヶ崎宿

     
 橋を渡ったら右手に鬼柳関所跡が現れる。ここは南部藩の南端の関所で、二名の役人の他同心、足軽などが常駐し鉄砲や弓などを備えていた。関所は川を利用し橋を渡らないと通行できないように作られていたようである。

     
 少し進むと、右手に境塚が現れる。この塚を境いに北は南部領、南は伊達領を示す塚であり、復元されたものだという。藩と藩との境を示す塚で、奥羽山脈の駒ヶ岳頂上から太平洋の唐丹湾まで約130kmに渡って、460基築かれていたとのことである。重要な場所には藩毎にそれぞれが大きな塚をつくり並べて置いていたとのことで、往時は領地争いが激しかったようだ。 

       
 まもなくして、相去御番所跡が現れる。ここは伊達藩の北境の番所があった所で、往時は武頭や足軽ら102名が街道の両側に暮らし、勤めを果たしていたとのことである。

     
 街道をまっすぐ進んでいくと、浄化センターにぶつかる。立入り禁止の看板があり、抜けれそうにもない。参考にしてきた搖次郎さんも反対側から進んで、やはりここにぶつかり、戻って迂回したようでそのコースも書かれている。しかし、いくら探してもそれらしい道はない。
 仕方ないので、1kmほど戻って、国道に出て大回りをして、六原駅から街道へ向かった。結局3kmほど遠回りをしたようだ。

     
 街道へ出たところは瘤木という地区で、往時の街道の案内板が設置されていた。

     
 この先には、しつこいほど奥州街道の標識が設置されていた。これよりも、浄化センターの迂回路の表示が欲しい。  

    
 途中から切断された大きな杉株が現れる。ここが清水端の一里塚跡だ。西側はなく、東側だけが残っている。

    
 やがて、金ヶ崎宿へと入っていく。この時点で、42km、10時間を超えていた。宿場の入口の金ヶ崎駅口を今日のゴールとして、駅へ向かった。
 15:58の電車で次の水沢駅へ。駅前の水沢グリーンホテルにチェックイン(素泊まり4300円)。着替えをしたが、エアコン故障しているらしく寒い。フロントに電話して見てもらったら、やはり壊れているとのことで部屋を変えることになった。まずは風呂に入ってビールを飲んだら、外に食事に出るのが億劫になった。フロントでカップ麺を2個買って夕食代わりにした。
 落ち着いてブログを打ち始めたのが18時過ぎで、アップがすっかり遅くなってしまった。


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<1日目>22盛岡宿~23日詰郡山宿~24石鳥谷宿<28km>(7時間50分)

2019年04月11日 | 登山・旅行
 夜半からの雪が雨に変わり寒い1日だった。道路以外は積雪があり、冬景色の中の歩きだった。まさか、ここまで来て、この時期に雪に降られるとは思わなかった。上下雨具のほかがっちり着込んで、傘をさして、5:30にホテルを出て、前回のゴール地点の中ノ橋交差点の旧盛岡銀行本店の赤煉瓦の建物まで歩く。
 8時過ぎには雨は止んだが、その後もときどき雨が降る天気だった。

22盛岡宿~23日詰郡山宿

     
 6:00、いよいよスタート。1911年(明治44年)建築のこの旧盛岡銀行の建物は、東京駅と似ているが、設計者は同じ人らしい。

     
 やがて、明治橋を渡る。往時は20艘ほどの小舟を繋いだ船橋が架かっていたこと、明治になって木造の明治橋が架かっていたと解説されている。

     
 明治橋から雪景色の東側を眺める。やがて、国道4号に合流し、まもなく、矢巾町に入る。

     
 一番先に目にした早咲きのウメ。

      
 左手に今宮神社が現れる。そこの案内板にはこの付近は「塚根」といわれ一里塚があったが消失したと記されている。

     
 右手に広い史跡公園があり、徳丹城跡の看板が現れる。その先に案内板があり、813年ごろに、水害に度々あった志波城にかわるものとして大和朝廷の征夷大将軍・文屋綿麻呂によって造られたとある。城の外郭は350m四方あり、国道の左右に広がっていた。今は広々とした史跡公園となっている。
 城跡の左手には、歴史民族資料館と南部曲屋・佐々木家がある。

     
     南部曲家佐々木家

     
 間野々一里塚跡。江戸から136番目の一里塚。

 しばらくして国道から別れて旧街道へと入っていく。やがて、紫波町へ入る。

     
 左手に「月の輪」という看板を掲げた横沢酒造が現れる。陣ヶ岡の月の輪形から名付けたらしい。

     
 城山の麓の集落の端にくると左手に高水寺と走湯神社の鳥居が現れる。走湯神社の鎮守は伊豆の走湯権現を勧請したものであり、その側にある大道祖は藤原清衡が勧請したものと案内板にある。また、源頼朝はここに来たおりに鏑矢二つを槻に射立て走湯権現に奉納したともある。歴史のある神社と寺なわけだが、神社には珍しくなぜか男根が祭られているらしい。
 この先に城山公園の入口があるが、斯波氏の居城だった高水寺城跡である。足利尊氏によって奥州管領に任ぜられた斯波家長がここを本拠地として奥州を支配していた。戦国時代となると斯波氏は南部氏との抗争に破れ、城は南部氏が占領した。城は郡山城と改称されて城代がおかれた、が1667年には廃止され、城も破却された。
 城はなく、広い公園だけなので寄らないで先へ進むと国道に出る。すく先で、日詰郡山宿への旧街道へ入る。

      
 「銭形平次のふるさと紫波」の看板と「日詰発祥の地 習町」の説明板がある。「銭形平次捕物控」の作者野村胡堂は、ここ紫波町の出身である。また、説明板によると、この辺りが日詰郡山宿の中心地だったらしい。

     
 宿場内を進むと右手に煉瓦塀に囲まれた大きな屋敷が現れる。豪商平六商店の平井六右衛門宅で、大正10年、政治家でもあった12代目六右衛門が建てたもので、時の首相原敬もお祝いにきたとのことである。

 やがて、国道に出る。跨線橋を潜る手前のレストランで昼食を摂る。
 
     
 跨線橋を潜ってしばらくすると、五郎沼が現れる。対岸の道へ回り込む。

     
 「樋爪館周辺歴史絵図」「五郎沼の蓮のいわれ」「歴史のロマン香る樋爪館」という3つの案内板があり、藤原清衡の四男清綱がここに派遣され、その子俊衡、季衡らが樋爪館を構えて周辺を支配していたと解説されている。
 絵図をみると沼は今の倍以上あり広大な屋敷となっていて、神社裏の小学校付近に樋爪館があったようである。また、隣にある蓮沼の蓮は800年も前の藤原泰衡の首桶に入っていた蓮の実を開花させたものから株分けしたものである、と解説されている。これらの解説から、静かな五郎沼が実は陸奥の支配をめぐって戦った藤原氏と源頼朝とのダイナミックな争いの舞台の一つだったのだと思いが馳せる。

 やがて、花巻市へと入っていくが、国道と別れて、街道は石鳥谷町内への直線道路を進む。ここから5kmもの直線の旧街道は珍しいという。

     
 街道を先に進んでいくと右手に「境塚」の案内板が現れる。ここには好地村とこの先の犬淵村とが境界を定めた境塚があったとのことだが、塚は標柱が立つだけだった。
 
     
 直線の街道を進み、商店街になると、石鳥谷宿の中心地である。

     
 七福神という銘柄の酒を造っていた酒造店井筒屋跡が現れる。宿場内は人通りも少なく、街道筋の面影もないのでどこが往時の宿場だったのか不明だ。

     
 その向かいに、酒蔵交流館があったが、管理人が外出中で、閉まっていて見ることができなかった。

 13:50、ゆっくり歩いたが7時間50分で、今日のゴールの石鳥谷駅口へ到着。宿に入るのは16:00と伝えてあるのであまりにも早い。
 宿の前を通り、突き当たりの石鳥谷駅の待合室で、ブログを打ちながら時間潰し。

          
 16:00に宿へ。ご主人が買い物から帰って来たところだった。
 夕食付きで5150円という嬉しい料金だった。ブログを打っていたら、地震が来た。結構長い揺れだったが、震度3だった。ブログをほぼうち終えて風呂に入り、夕食までのんびり過ごす。 
 
     
     うれしい家庭料理っぽい夕食。


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盛岡まで移動

2019年04月10日 | 登山・旅行
     
 7:00に家を出る。35分歩いて、青函フェリーターミナルに到着。 8:10のフェリーに乗る。web割引で1440円。乗客室は貸し切り状態。本を読んで過ごした。

     
 青森フェリーターミナルから青森駅まで歩く。途中に「あおもり北のまほろば歴史館」があったので寄る。70歳以上は無料。

     
 歴史館の展望台からながめた、青森駅方面の展望。

 駅まで行き、まず盛岡行きの高速バス「あすなろ号」の切符を買う。3300円。ちなみに、函館から盛岡まで新幹線に乗ると13200円。今日はフェリーとバスで、時間は掛かるが4740円で済む。

     
 昼食は、ご当地ラーメン・津軽煮干しラーメンの有名店「長尾中華そば青森駅前店」へ。9席しかないカウンターだけの店だが、人気店らしく、常に外に待っている客がいた。

     
 注文した手打ちこく煮干しラーメン。麺も4種類の太さ、味は3段階あったので、一番太い手打ちで、一番濃いものを頼んだ。
 初めて食べたが、癖になりそうな素朴且つ濃厚な独特の美味さがあった。津軽煮干しは、はらわたを取った焼き干しなので、生具さや雑味がない。

     
 ごはんは無料なので、おすすめにしたがって、残ったつゆを掛けて食べた。 
 その後、バスの時間まで駅の待合室で本を読んで過ごす。

        
 15:20のバスに乗る。青森から乗ったのは自分ひとりだけ。ビックリ。高速料金やガソリン代にもにもならないと心苦しい思いで乗っていたが、秋田県小坂で4人が乗って、なぜかホッとした。
 途中花輪PAでトイレ休憩し、盛岡駅前には18:00に到着。
 駅中のレストランで夕食を食べてからホテルへ。

     
 夕食は、やはりご当地ものの盛岡冷麺と小ビビンバのセット。。
 
     
 ホテルは、駅裏にある昨秋の最後に泊まったユニゾインエクスプレス盛岡(素泊まり4140円のところ、じゃらんのポイント利用で2540円)

奥州街道歩き旅~その2~(盛岡道・仙台道)<盛岡~仙台~白河>

2019年04月09日 | 登山・旅行

盛岡道のルートと宿場


仙台道のルートと宿場

<奥州街道とは>
 奥州街道は江戸から宇都宮~白河~福島~仙台~平泉~盛岡~青森を経て津軽半島の三厩へと至る日本最長の街道で114次。宇都宮までは日光街道と同一行程。宇都宮~白河の区間を幕府の道中街道が管轄し、狭義の「奥州道中」と呼ばれ、白河以北では勘定奉行の管轄に置かれ、各藩で維持管理が行われた。
 呼び名については白河以北をまとめて「奥州奥道中」と呼ぶことや、仙台城下までを「仙台道」。仙台~盛岡間を「盛岡道」。盛岡から三厩までを「松前道」などと呼ぶこともあった。

<歩き旅の計画に当たって>
 奥州街道歩き旅の記録は、東京の日本橋からスタートして青森の三厩まで北上しているものがほとんどである。北海道の自分は、松前藩の気持ちになって、逆に三厩から東京へ南下する計画を立てた。
 そのうち昨秋は「奥州街道歩き旅~その1~(松前道)」として、三厩~盛岡までの22宿(約300km)を10日間で歩いた。
 そこで、今回は~その2~として、盛岡道・仙台道の盛岡~仙台~白河までの64宿を歩く計画を立てた。特に「仙台道」(仙台~白河間)は、宿場間の距離が非常に短いので、宿場の数は多いが、総距離は約400kmほどである。日が長いので、1日35km平均で計画を立ててみた。

 山旅は車中泊で安上がりだが、歩き旅の難点は宿代が掛かることである。できるだけ安い宿を探して、ケチケチ旅行に徹するつもりだ。

しかし、白河以北は、これまで歩いてきた旧街道(四国遍路・中山道・東海道・熊野古道)のようなガイドブックは市販されていない。唯一『奥州街道―歴史探訪・全宿場ガイド』があるらしいが、今は絶版になっている。

 そこで、前回同様、「揺次郎のウォーキングライフ」の「松前道」(盛岡道も含む)と「仙台道」を参考にした。とても詳しいし、宿場間ごとのルートをgooglemap上に記載してくれているので、そのルートマップを印刷して持参することにした。

 登山での自分の現在地やトラックログはGPSを使うことが多いが、この歩き旅では、揺次郎さんの宿場間のルートマップがgooglemap上に記載されているので、それを全部印刷した。自分のスマホに入れてあったランニング用のアプリ「Runtastic」と照合しながら歩くことにした。これも同じgooglemapだし、歩いた距離や時間が表示される。特に街中を歩くときは、登山用のGPSと違って、建物や店の名前、信号の場所も提示されるので、非常に助かる。

<一応の計画>※実際に歩いてみて、体調や天候、宿の関係で調整するので変化あり。
4/10(水) <移動日>
8:10青函フェリー12:10青森フェリーT  青森駅15:20~(高速バス)~18:04盛岡

①4/11(木)
22盛岡宿(18.3km)23日詰郡山宿(12.6km)24石鳥谷宿<30.9km> 
      
②4/12(金)
24石鳥谷宿(6.1km)25花巻宿(12.1km)26黒沢尻宿(11.2km)27金ヶ崎宿(7.7km)28水沢宿<37.1km>

③4/13(土)
28水沢宿(11.4km)29前沢宿(14.4km)30山目宿(2.0km)31一関宿<27.8km>

④4/14(日)
31一関宿(8.3km)32有壁宿(9.5km)33金城宿(2.1km)34沢辺宿(7.8km)35宮野宿〈37.3km〉
                          
⑤4/15(月)
35宮野宿(2.6km)36築館宿(9.6km)37高清水宿(6.6km)38荒谷宿(5.4km)39古川宿(5.8km)40三本木<30.0km>
           
⑥4/16(火)
40三本木(14.6km)41吉岡宿(6.1km)42富谷宿(9.7km)43七北田宿(5.7km)44仙台宿<36.1㎞>   
            
⑦4/17(水)
 44仙台宿(5km)45長町宿(3km)46中田宿(3km)47増田宿(8km)47岩沼宿(7km)48槻木宿(5km)49船泊宿<31km>

⑧4/18(木)
49船泊宿(4km)50大河原宿(3km)51金ヶ瀬宿(13km)52白石宿(5km)53斎川宿(5km)54越川宿(2km)51金ヶ瀬宿<32km>

⑨4/19(金)
51金ヶ瀬宿(13km)52白石宿(5km)53斎川宿(5km)54越川宿(2km)55貝田宿(5km)56藤田宿(3km)57桑折宿<35km>

⑩4/20(土)
57桑折宿(5km)58瀬上宿(7km)59福島宿(6km)60清水町宿(2km)61浅川新町宿(4km)62八丁目宿(4km)63二本柳宿(5km)64二本松宿<33km>

⑪4/21(日))
64二本松宿(5km)65北杉田宿(1km)66南杉田宿(5km)67本宮宿(4km68高倉宿(4km)69日和田宿(3km)70福島宿(3km)71郡山宿(2km)72子原田宿(2km)73日出山宿(1km)74笹川宿(8km)75須賀川宿76<35km>

⑫4/22(月)
75須賀川宿(5km)76鏡石宿(1km)77笠石宿(2km)78久来石宿(2km)79矢吹宿(3km)80中畑新田宿(1km)81大和久宿(2km)82踏瀬宿(2km)83太田川宿(2km)84小田川宿(3km)85根田宿(4km)86白河宿<27km>

⑬4/23(火)予備日

4/24(水)移動日

ドジで胃カメラ検査できず のち 泌尿器科検診

2019年04月09日 | 大腸癌以外の検診・健康関係
 先週の大腸カメラ検査に引き続き、本日、五稜郭病院で予約をしていた胃カメラ検査の日だった。
 前夜は9時以降の食事はしないで、今朝も食事をしないことになっていたが、5:00に起きたときに、うっかり牛乳を飲んでしまった。8:50に病院へ。牛乳を飲んだことを話したら、「はっきり見えないので、日程を変更してください」と言われた。
 予約変更の申し込みは午後からなので、帰宅後に電話で、旅から戻ったあとの日程でお願いすることに。

◎泌尿器科検診

前立腺肥大のイメージ図

 最近また、日中も夜も2時間置きくらいにトイレに行くようになっている。尿の勢いが弱くなり、切れも悪いし、トイレに行ってもまたすぐに行きたくなるようなこともある。
 日中はあまり気にならないが、夜は何度も目が覚めるので、特に朝方には寝直しができなく、慢性的な寝不足感が悩みである。

 そこで、五稜郭病院を出て、ウォーキングで今度は本通の平田泌尿器科へ。今までも何度かトイレが近くなっては前立腺肥大の検査をしてもらっている。昨年9月には思いがけない尿道感染症で点滴治療入院もした。これまでの検査でも、前立腺肥大の初期症状とのことで、薬を出してもらっては症状が改善してきた。

 まずは、採尿後、血圧測定。血圧は128/70と理想的な数値。そして、問診のあと、肛門から指を入れての触診。その後、採血による血液検査と腎臓と膀胱のレントゲン検査。
 レントゲンは3枚撮る。2枚目は注射で造影剤を入れた後、3枚目は排尿後に立位で。それで検査は終了。

 診察の結果は「肥大も少しあるが。おしっこはきれいだし、残尿もない。しかし、膀胱に気になる部分があるので、CTを撮りましょう」とのことで、CT検査を受ける。これも、造影剤を入れる前と後の2回。

結果は「う~ん、やはり膀胱が圧迫されているように見えるな~。しかし、悪いものにしては、おしっこもきれいで血尿もないし・・・。様子を見て、2週間後にまた来てもらえますか?血液検査の結果も分かるので・・・」とのことだった。

  
 薬は、肥大に伴う頻尿や残尿感などの症状を改善する薬、その副作用で便秘になったときに飲む薬、就寝前に飲む膀胱や前立腺の刺激症状を改善されるものとセットの良く眠れる薬を出しておくので、それを飲んで様子を見てくださいとのことだった。

 ちょうど歩き旅が終わってから帰ってくると2週間経っている。その翌日にでも行こうと思う。悪いものでないことを願うしかない。

平成年間96万kmを走り抜けた岳友のサファリ

2019年04月08日 | 日常生活・つぶやき

今年3月撮影の平成元年車のサファリ

 平成も終わりを迎えようとしている。そんな中、平成元年車に乗り続けた札幌の岳友がいる。その車は、もうほとんど目にすることはなくなった日産のサファリ。自分と同じくあちこち登り歩いているので、走行距離もなんと96万kmとのこと。私の経験では、30年以上走り続けた車や、96万kmも走った自家用車は聞いたことがない。まさに驚異そのものである。

 彼からのメールによると、「マニュアル車とディーゼルエンジン(ターボ無し)なので、これだけ持ちました。エンジンは快調なのですが・・・最近の塩害で車体がもう限界で・・・。フレームが腐り、ボディも錆と穴が開いて、ヤバい状態になっています。残念なのですが、今年の7月に車検が切れるまでとなりました・・・。平成が終わって、私の車も最後を迎えます。」とのこと。100万km突破はならなかったようだ。このサファリは、消防車にも使われたという車なのでもともとタフな車ではあったようだ。

 自分のX-TRAILもかなり走り回り、11年目を迎えて27kmを超えているが、31年で96万kmは、こちらのペースをかなり上回っている。しかも、彼はまだ現役世代で、山に登るのも週末や休日だけである。車も凄いが、彼も凄い。

 我が愛車も頑張って乗り続けて、車が先に逝くか、自分が先に逝くか競争してみたいものだ。あと10年乗り続けられれば、こちらは85歳になる・・・。そのためにも、6ヶ月点検もマメにやり、直せるところは早めに直して乗り続けたいと思っているが・・・?  

2019年度函館スキー指導員会納会・祝賀会

2019年04月07日 | スキー・クロカン

新会員となるスキー・スノーボード準指導員合格者

 昨夜、湯の川花びしホテルを会場に、12年間会長を務め、今は顧問をしている函館スキー指導員会の納会・祝賀会が開催された。昨年は四国遍路に出ていたので参加できなかった。
 

 この納会・祝賀会は、納会と兼ねて、喜寿・古希・還暦を迎えた会員と、スキーとスノーボードの指導員・準指導員・認定指導員合格者の祝賀会も行っている。特に、準指導員・認定指導員合格者は新会員となるため、その歓迎会も兼ねている。
 今年の喜寿は2名、古希は12名、還暦は11名、スキー指導員合格者は4名、スノーボード指導員合格者は2名、スキー準指導員合格者は9名、スノーボード準指導員合格者は2名、SAHスキー認定指導員合格者は6名だった。


会場全体の様子


喜寿を迎え、記念品をいただくライフスポーツ会長の近藤さん(左)と差し上げる指導員会会長の手坂さん(右)


函館市スポーツ功労賞を受賞した来賓の函館スキー連盟会長今氏へ、お祝いの品を贈呈。


最後は、恒例のシーハイルで乾杯

 これで、自分もスキー関係の事業は終了。春山スキーも考えていたが、3日後に奥州街道歩き旅に出るので、今シーズンのスキーも終了となるだろう。

Café 谷地坂 & 遅れている宮ノ森コースの花

2019年04月06日 | 食べ物

 例年はもう見ごろの函館山宮ノ森コースの早春の花々を目的に、家からロングウォークをしようと思った。妻が「一緒に行って、Café 谷地坂に寄りたい」という。2017年に谷地頭の坂の上にオープンしたカフェで、ネット上でも非常に評判の良い店のようだ。

 雨の上がった10時過ぎに家を出て、まず、到着が昼食時間近くになりそうなそちらを目指した。かろうじて1席だけ空いていてなんとか座ることができた。
 店の雰囲気も、窓からの眺めも素晴らしく、料理もおいしく、接客態度も良く、人気店の訳が良く分かった。


 玄関を入って右側の部屋にあるグランドピアノ。そこから階段を上がって2階へ。


階段のコーナー


窓から眺める大森浜方面


窓から眺める市街地や横津連峰








和室もある

 
テーブルの上の花      コーヒー



 「春メニュー 谷地坂ランチ」
料理はどれも上品な味でとても美味しかった。このほかにデザートのケーキもあった。

 妻の一番の目当ては看板猫の「ちー子」だったが、店には姿を見せなかった・・・残念。
 お店のwebサイトには、このように書かれている。
>もし、あなたが「ちー子」に出会えたら
>それは幸運の暗示かもしれませんね・・・Good luck!!

◎例年より遅れている宮ノ森コースの花

 カフェを出て、碧血碑の方から宮ノ森コースへ入った。しかし、3月下旬からの異常な寒の戻りが災いしたのか、花は例年より1週間ほど遅れているような感じだった。いつもは咲いているコジマエンレイソウは蕾すら見つけられなかった。



一番の目当てだったエゾエンゴサクもかろうじてほころびかけた株が数株のみ


ようやく開きかけたキクザキイチゲ・・・まだ蕾が多かった


ほかの花が遅いので、やたらと目についたネコノメソウ


今日歩いたコース(15.3km)

「どうなん・とうほく山楽紀行」あと1回で終了

2019年04月05日 | 登山・旅行

第1回の「恵山・海向山」の記事

 2016年11月8日から始まった北海道新聞夕刊(道南地域情報版「みなみ風」)に連載してきた拙筆による「どうなん・とうほく山楽紀行」だが、来る4月16日掲載予定の第59回「太鼓山(厚沢部町)で終了する。隔週火曜日掲載だったが、約2年半にわたる連載だった。
 
 2月末に、「評判が良いので、あと1年くらい延長してもらえないか」との依頼を受けた。しかし、道南の山は、函館から日帰り圏内の後志や胆振まで広げて書いてきたが、登山道のある山はすべて掲載し終わった。はっきり言ってネタ切れである。登山道のない薮山を書いても、興味を持つ人は少ないだろう。
 当初は50回の予定だったが、昨秋に「紙面改編時期の春までお願いしたい」という要望を受け入れて、9回分(4ヶ月半)頑張って延長したきた。

 2012年から同じく隔週で足掛け5年間、113回も続き、拙著のもとになった北海道新聞(札幌圏版)「ほっかいどう山楽紀行」だが、その2代目の編集担当者だった相原秀起氏(現ぶんぶんクラブ事務局長)が、2016年に函館支社報道部長として栄転してきたことが、新連載のきっかけだった。

 氏から「札幌圏版の記事は地元の人が読めなかったので、こちらでも道南と東北の山を書いてもらえないか」との要望だった。たまたま北海道新幹線が開通して、東北が身近になったこともあり、東北の山(北東北)もということになった。そこで、道南の山と東北の山を2:1の割合で書き続けてきた。

 「札幌圏版」とこの「みなみ風」の一番の違いは、地元ゆえに反応が直接聞けることであった。山に興味のない人でも、自分を知っている多くの方々が読んで下さり、いろいろな感想を聞くことができたことがとてもうれしかった。特に多かったのが「とても読みやすくて、内容が多岐にわたって面白い」ということだった。

 2012年から数えると、原稿料をいただきながら、足掛け7年間も書き続けさせていただいたことは、光栄且つ幸せなことであった。どちらも12字×80行だった。書きたいことはたくさんあり、どれを削って、どれを残し、いかに決められた字数の中に収めるかが一番の悩みであった。1行削るのに1時間も掛るなどということもあった。しかし、書き上げたときの満足感の大きさが励みとなり、ここまで続けてこれた。北海道新聞社と読者の皆様にこの場をお借りして、改めて感謝申し上げたい。

 これまでの「どうなん・とうほく山楽紀行」の一覧と掲載記事は下記から読むことができます。

2019年度函館ライフスポーツ納会

2019年04月04日 | スキー・クロカン

 ホテル法華クラブを会場に、函館ライフスポーツの納会が開催された。今年度はまだ夏の事業としての、春と秋の登山会やパークゴルフとゴルフは残っているが、メインのスキーを中心としたメイン行事が終わったこの時期にいつも開催される。昨年は、この時期に四国遍路に出ていたので参加できなかった。参加者は60名。


 懇親会の前に、近藤会長自ら撮影し、IT関係のプロの白川さんが編集した「映像で振り返る2019年」が映写された。


皆勤賞のみなさんと記念品の滑りの分解写真


乾杯の音頭は77歳で1級合格したSaさん


テーブルごとのテーブルスピーチを話す自分


米寿会員の3名。この年でスキーを滑っているのが凄い。自分は生きている自信も可能性もない?

 二次会もあるが、外は雨が降っているので出ないで帰るつもり。現場から中継投稿でした。