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癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

山陽道(中国街道)1日目・高麗橋(大阪)~西宮神社<27km>(6時間40分)

2020年11月15日 | 登山・旅行

 これから山陽道(中国街道)の旅となるわけだが、どうも西宮からを西を山陽、または西国街道。大阪から西宮までを中国街道と呼んでいる例が多いので、ここでも西宮までを中国街道と呼んでおくことにしたい。

 ホテルを6時に出て、近くの心斎橋から高麗橋近くの北浜駅まで、地下鉄で移動。乗り換えで手間取って、歩いても違わない時間になった。大都会は嫌いだ。

 しかし、今日は距離が短かったので、13:40にはゴールすることができ、昨日のオーバーワークの分を取り戻した感じ。しかも、昨日までに比べて、見所も少なく、写真の選定で苦労することはなかった。

 なお、省エネブログのために今日からは、これまで詳しく書いてきた宿場の説明は省き、文章やキャブションの中で触れることにする。

高麗橋~尼崎宿

 7:00、昨日の京街道の終点の高麗橋からスタート。西国の道路元標となっているので、中国街道の始点でもある。

 まもなく、ライオン像や塔の立つ重厚な「難波橋」を渡る。

 ビルの谷間や広い道を進み、やがて、茶屋町に入ると、ビルの谷間に地名の由来となる「鶴の茶屋」の石碑が立っている。

 十三(じゅうそう)大橋の左側の歩道へ上がって行くと、
 土手の上に大正9年の道標が立っている(左下)。「東 往来安全 池田 四里 伊丹 二里半」などと彫られている。

 橋を渡ると、土手の左側に「十三の渡し跡」の石碑がたっていた(右下)。

 

 府道10号線の高架下をくぐると、左手に「香具波志神社」がある。
 神社の名前は孝徳天皇の行幸の際、詠んだ歌に由来するとか。中世には楠木正儀(正成の三男)が戦勝を祈願したり、戦国時代には三好長慶が鳥居一基を奉納している。

 神社の前に店開きをしてある果物屋さんに挨拶をし、聞かれたので、歩き旅の話をしたら、ミカンを3個いただいた。四国遍路では、当たり前にあるお接待をここでいただくとは思わなかった。

 やがて、神崎川に架かる神崎橋を渡る。川の向こうは尼崎市となる。

 神崎川を渡って、旧街道の細い道へ入ったら、新しい家ではあるが、旧家とおぼしき立派な家が建っていた。この付近に渡し場があったので、祖先は当時から財をなした家かもしれない。

 土手沿いに南下して、神崎橋の下をくぐって行くと、身代一心地蔵尊」がある。説明板を読むと、新田義貞、楠正成軍と足利尊氏軍とが戦い、正成の軍は神崎の辺りから神出鬼没、一心をこめた戦いにより、圧勝し高氏軍は遂に九州へと逃げ延びる・・・・世にこれを神崎一心の戦いというと書かれていた。

 長洲中通3丁目の「大門川緑地公園」内に、大きな道標立っている。元の位置は当然違うと思うが、文化五年、「左 尼崎 西宮」、「右 尼崎 大坂」などとある。 

 

尼崎宿~西宮神社

 やがて、尼崎市の市街地に入っていく。初めて中国街道についての説明板があった。

 その先で、阪神高速3号線沿いの道となる。面白味のない道だが、この辺りが、尼崎宿の中心地だったという。 今はその面影すら感じられない。

 高速道路沿いの道から離れて、旧街道へと入っていくと、西本町8丁目の右角に大きな「弘化3年の道標が立っている。「左 西ノ宮兵庫」 「右 大坂道」 と彫られている。

 武庫川土手にぶつかる。ここは伝説「雉が坂」の場所である。天正10年、本能寺の変を知り備中から急ぎ引き返す秀吉一行がこのあたりまで来た時、農夫の知らせで川の向うを見ると、あわただしく雉が飛び立つのが見えたため、明智光秀の兵が待ち伏せしていることを知り、道を変えて難を逃れたという言い伝えが残る所。

 説明板によると、左側の坂は現在の坂で、右手へ上る坂が昔はあったようである。

 やがて、琴浦通りを進む。蓬川沿いの紅葉がきれいだったので、カメラに収めた。

 この先で、ネパールカレー屋を見つけたので、昼食にした。やはり、ネパール人が店主だった。久し振りにナンを食べた。

 琴浦通りは、いつの間にか「旧国道」となり、今日のゴールの西宮神社まで続いていた。昔の中国街道がそのまま国道になったのだろう。左奥は甲子園球場である。

 ゴールが近くなり、京都から大阪を通らないで、西宮まで来る西国街道との合流地点たが、標識はなかった。

 13:40、今日のゴール、西宮神社の表大門に到着。

 時間があるので、広い境内の中を見て歩いた。七五三の日らしく、七五三の子供たちと家族で大にぎわいだった。

 この西宮の地名の由来にもなっている西宮神社だが、、古事記、日本書紀に書かれる・・・伊邪那岐、伊邪那美二柱の大神が最初に生み給いしお子は骨のない蛭児であり、吾が子をあわれと思いつつも、葦船に入れて海へ流してしまわれた。その流された蛭児の神が、この地あたりに流れ着き、祀ったのが西宮神社であるという。
 天文3年(1534)の兵火により焼き尽された境内も、慶長9年(1604) から秀頼により拝殿、本殿等全て元に復したと言われています。国宝だった本殿は、先の空襲により焼失してしまったが、昭和36年、ほぼ元通りに復興された。

 大阪からここまでを中国街道といい、明日からは山陽道となる。

 

 ゴールから旧街道を5分ほど戻った所に、今日のホテルリブマックス西宮がある。移動の必要のない立地がうれしい。

 チェックインできる15:00まで近くの公園で時間を潰した。

 普段は高くて泊まらない6485円だが、GoToで4216円になり、やはり地域クーポン券が付いてきた。半額で泊まるようなもの。

 早くゴールしたので、18時過ぎにはブログアップ完了。これから、夕食を食べに出て、早く寝ようと思う。

 歩数計43000歩

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京街道2日目・樟葉駅~56枚方宿~57守口宿~高麗橋(大阪)<35km>(8時間45分) 

2020年11月14日 | 登山・旅行

 今日は天候に恵まれて、予想したよりは距離が長く、時間は掛かったが、京街道のゴールの大阪の高麗橋まで歩くことができた。

 今日のスタート地点の樟葉駅の少し手前から大阪府だったので、昨日は京都府内の歩きで、今日は大阪府内の歩きだった。

 枚方宿と守口宿は、京街道の宿場町としての歴史を大切にし、観光資源として力を入れ、標識等も充実していた。お陰で撮った写真の枚数が多くて、精選するのに多くの時間を要した。

 ホテルを6時前に出て、樟葉駅へ移動。

樟葉駅~枚方宿

 6:40、樟葉駅から旧街道に出て、スタート。

 今日は、印刷した地図も見ないで、ひたすらスマホのGoogleマップの現在地の表示されるルート図を見ながら歩いた。

 赤線が旧街道、青丸が現在地。絶対間違わないはずだが、それでも、目の前の道路に引かれて、間違って進んでしまっては、戻ったりうろうろしたりする。

 

 上の地図の府道13号から旧道に入ったところ。今日の旧道歩きはここからだった。

 このあと、天野川の橋を渡ると、枚方宿へと入っていく。

枚方宿~森口宿

・枚方宿は京都と大阪の中間にあり、 淀川の京都伏見と大阪八軒屋浜とを結ぶ三十石船の寄港地として、また陸上の交通の要衝として重要な位置を占めて繁栄した。

・宿は岡新町村、・岡村、・三矢村、・泥町村の4ヵ村で構成され、東見付から泥町の西見付まで13町17間(1477m)あった。

・現在の枚方市は当時の建物や景観の保存に熱心で昔の宿場の面影が残されている。本陣1 脇本陣2 旅籠67 

 枚方宿東見附跡は、東の入口に当たる。大きな案内板には淀、伏見宿方向へ向う大名行列が「天野川」に差掛かり、見送りに出た宿役人が待受ける光景が描かれている。 ここを右折して、枚方宿に入って行く。

 すぐそばに番屋役人の屋敷が建っている。

 町に入っていくと、枚方宿案内図が設置されていて、ほぞんに力を入れていることが分かる。

 枚方市駅近くに大きな「枚方宿」の看板が立ち、近くに由緒ある旧家が残されている。 

 本陣跡と高札場跡の石碑もあり、カメラに収めたが、間違って消してしまった。

 

 繁華街の真ん中の「左近の辻」~角に文政9年の道標が残されている。正面に「右 大坂みち」、側面に「願主 大阪 和泉屋・・」とあり、「阪」 の文字は江戸時代は一般に「坂」の字が使われて「阪」の時は明治からというので、大変珍しい道標とこのと。辻向かいに「左近辻の道標」があった。

 繁華街から抜けて旧街道然とした道になると、このような旧家が目につく。

 やがて、旧街道は、淀川の堤防の歩きとなる。昔も古い堤防の上に街道が続いていたのだろう。

 土曜日なので、広い河川敷公園に並ぶ多くのグランドでは、少年野球やサッカーで、また、堤防や河川敷の道路はジョギングや自転車の人たちで大にぎわいである。それらを眺めながら快適な歩を進める。

 しばらく進むと、左側に「茨田(まんだ) 堤碑」が建っていた。説明板には「日本書紀に茨田堤の築造は、仁徳天皇十一年とあり、これは河川堤として本邦最初のものである・・・」。築造は難工事で、二ヵ所の「絶間」という場所に人柱を出すことになり、二人が選ばれた。一人は、機転をきかせて助かったという伝説が残っている。

 淀川新橋の下を潜ってしばらく進むと、土手の下「茨田樋之跡の石碑」というのがある。案内板によると、淀川から農業用水、生活用水を引き込んだ水門のようなもので、枚方ら毛馬まで八ヶ所あり、台風などの大水時に堤防が決壊するおそれがあるとして、すべてが廃止され、その跡が残っているのは、ここだけとこのと。

 堤防の道を1時間半も歩いて、ようやく左へ下りていく。6kmはあったろう。

 堤防から下りてからの路が非常に複雑でうろうろすることが多かったが、このような標識が目についた。右は路面の標識である。

 

守口宿~高麗橋(大阪)

57 守口宿(東海道57次)
・守口宿は江戸から57番目の宿場で、秀吉が造った文禄堤の上に造られた。南北約十町(1km)、東西は約1町(109m)の細長い宿である。

・大坂から2里の近距離にあったため旅人の宿泊は少なく、さらに時代が下がるとともに淀川舟運が発展し、交通量は少なくなってしまった。しかし、米・菜種・綿花などの農産物の集散地として重要な機能をはた商業活動は活発だった。

・宿場通りには今でも伝統的は商家なども所々に残されていて、当時の面影をしのぶことができる。また豊臣秀吉が文禄6年(1569)に淀川左岸を修築して作ったいわゆる文禄堤の京街道は、その多くは消滅してしまったが、八島交差点から義天寺まで1kmほどに往時の面影が残っている。本陣1、脇本陣0  旅籠27 

守口宿一里塚跡~ここには、東見附もあったようで、ここが守口宿の実質的な入口となる。

 この難宗寺は、蓮如上人が開創したと伝えられる寺で、角に石碑が4本建っている。「左京 すぐ京」、「すぐ守口街道」などと刻まれている。山門左の3階建ては太鼓楼で時間を知らせる為のもののよう。

守口宿にはあちこちに幟が建っている。京街道より、東海道57次をアピールしている。本陣跡の標識も設置されている。

 難宗寺を右折すると、竜田通りを西に向かう。この通りでは市が開かれ、道幅も15mもあったという。問屋場や本陣があった所で、いわば守口宿の心臓部であったためといわれる。 道の左の駐車場が本陣跡である。

 八島交差点で、カレー屋を見つけて、昼食にした。タルタルチキン南蛮カレー。唐揚げが抜群に美味しかった。

 八島交差点で、すぐ左側の斜めの道に入り、ゆるい坂道を上がって行く。この先が「文禄堤」の上に存在した守口宿の跡が続いている。説明板を読むと、文禄堤は豊臣秀吉が文禄5年(1596)、毛利輝元、小早川隆景などに淀川左岸に堤を築かせたもので、京街道のうち27kmにも及ぶが、八島交差点からこの先の義天寺までの約1kmの間だけ残っている。

 街道は、回りより数段高くなって、左側の「京阪守口駅」の高架よりいくらか低いくらいの不思議な光景となっていた。
 守口宿が「文禄堤」の上に存在することがよく分かる。市街地を抜けて急な坂を下ると、宿の終りとなる。

 あとは、ひたすらゴールの高麗橋を目指して歩を進める。

 森小路京かいどう商店街~街頭の支柱にも「京街頭」と書かれ、その上に「京」の字をモチーフにして、京街道にある商店街をアピールしている。

 守口宿から先の旧街道には、多くの「京街道」標識が設置されている。

 やがて、アーケードの「京橋商店街」が続く。なぜ、大阪なのに京橋なのかと進んで行くと、大阪城の堀の上に架かる街道の橋が「京橋」だった。

 大阪城の堀に架かる京橋の上から高層ビルを望む。右は、陸橋の上から眺めた大阪城。

 大阪城の堀から離れて、広い府道「土佐通り」を進む。

 15:20、京街道(東海道57次)のゴール、「高麗橋」に到着。若い二人連れにシャッターをお願いした。

 江戸時代幕府が管理する公儀橋の中でも格式が高く、高麗橋は常夜燈の付いた風格ある造りとなっている。西詰めには高札場があり、江戸日本場と同じく、西国諸国への「里程元標」となり、石碑建っている。江戸時代はここが京街道の終点となり、明日から歩く中国街道(山陽道)の始点ともなる。

 これで東海道は日本橋から京都三条大橋までの53次と、大名行列が歩いた、大阪までの57次をすべて終了したことになる。

 このあと、心斎橋にあるホテルまでの道順を検索したら、3kmだったが、大して疲れもないので、歩いて向かう。

 16:20、Feel Osaka Yu(カプセルホテル)に到着。対応が素晴らしく、コロナ対策とセキュリティが非常に厳しいホテルだった。しかし、シャワーしかない。どうしても湯船に浸かって疲れを取りたい。そこで、近くの銭湯へ。

 宿泊代が3890円→GoToトラベル割引で2529円。さらに、ここも地域クーポン券1000円が付いた・・・助かる!

 銭湯から帰ったら、17時過ぎになっていた。それから、記憶を頼りに写真の選定。そして、ブログアップ。途中でギブアップし、翌朝に残し、夕食を食べに出た。地域クーポン券のお陰で、少しは贅沢できる。

 この手のホテルは、土曜日は混むはずだが、ガラ空きだった。これもコロナの影響だろう。

 今日の歩数計、56,000歩(ホテルからホテルまで)

 

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京街道1日目・追分~54伏見宿~55淀宿~樟葉駅<32km>(7時間40分)

2020年11月13日 | 登山・旅行

 まずは、2日間の京街道歩きからスタート。56kmあるので、およそ半分の樟葉駅までが、今日の歩きである。

 6:30、今夜も電車で戻って連泊するので、余計な荷物を預けてホテルを出る。無料の朝食は遅いので食べないで出た。

 京都駅からJR東海道線に乗り山科で京阪京津線乗り換えて、追分駅まで移動した。さらに、東海道との追分がある、髭茶屋までやって来た。

山科追分~伏見宿 


 髭茶屋の由来はわからないが、ここは大津市と京都市との境でもある。右へ行くと「東海道 三条大橋へ」。左へ行くと「京街道 大阪」まで。

追分には道標があり、「みきハ京ミち」「ひだりハふしミみち」と彫られている。横に「蓮如上人」と彫られた碑もある。

 ここは、4年前の中山道(東海道との重複部分)の最終日に通っているはずだが、当時の記録を見たら、触れていないので、見落としているようだ。

 このあと、ポカをして、往復2kmも無駄に歩いてしまった。朝食を買いにコンビニに寄ったが、店から出たときに、90度違う道を進んでしまった。

 山科大塚の交差点を過ぎると、民家の前に「ひだりおヽつみち みぎうじみち」と書かれた道標がある。この道は「奈良街道」とも呼ばれているが、狭い道で車が多く渋滞気味。
 右手に、「皇塚」と彫られた石碑がある。この地には,直径20mほどの円墳があり、桓武天皇の墓所という伝承もあり,大塚という地名の由来となったといわれるそうだ。

  しばらく府道歩きが続くが、右手に京街道の旧道分岐があり、右へ進む。 

 旧街道らしい雰囲気を残した家並みが続く。

 再び府道へ出るが、その手前の左手に「桓武大王陵」、右手に「仁明天皇御陵」、などと彫られた石標があった。  

 やがて、由緒ありげな藤森神社に寄ってみた。1800年前に、神功皇后によって創建された皇室ともゆかりの深い古社である。
 鳥居には後水尾天皇の宸筆による扁額があり、参勤交代のとき大名も駕籠から降りて拝礼しなければならなかったという格式があったが、幕末の動乱の時代となり、時代にそぐわないと近藤勇がはずしたという逸話で有名で、現在は架かっていない。

伏見宿~淀宿

54 伏見宿(東海道57次)
・山科追分から分れて、大坂へ向う東海道としての54番目の宿場町であると同時に伏見城の城下町でもあり、さらに淀川の水運の中継地(伏見港)でもあった。

・江戸時代は幕府の直轄地で伏見奉行が支配する大きな町であり、他の宿場町に比して大変大きく、宿場は東は京町通りから、西は高瀬川、北は墨染、南は宇治川に接し、東西1km、南北4.6kmという大きな広さで、人口2万4千人程の大都市であったという。本陣4、脇本陣2軒、旅籠39 

 伏見宿は墨染駅の辺りから始まるらしいが、城下町だったこともあり、右折・左折が多い。ダウンロードして印刷した地図だけではとても歩けたものではない。現在地が分かるスマホのGoogleマップのルート地図を見ながら歩いた。

 伏見区役所を左に見ながら直進すると、前方にアーケード付商店街である。「大手筋商店街」である。今日の歩きの中で、最も人通りが多かった。
 さらに進み、先の交差点で右折して「油掛通」という通を進む

 伏見宿の中心部だった辺りに、黄桜酒造があり、カッパテーマ館もある。

 油掛通を左折すると京橋へ行くが、その手前を左に入った所に寺田屋事件で有名な「寺田屋」がある。再建されているが、現在も営業をしている宿屋である。坂本龍馬の定宿で、おりょうさんとの恋の宿としても知られている。

 宿の右側が公園になっていて、寺田屋事件のことや坂本竜馬とおりょうさんに関わる史跡がある。

 街道に戻ると、京橋に出る。そのたもとに「伏見口の戦い激戦地跡」の碑が立っている。

 伏見宿の中心は、現在の京橋付近だったようで、本陣があったという。橋の下の川は「豪川」というが、宇治川に注ぎ淀川に通じている。淀川の水運は、ら京都、大阪を結び、琵琶湖経由で遠く東海道・北陸ともつながる交通の大動脈であった。 

 

 京橋の上から「伏見みなと公園」を見下ろす。

 伏見みなと公園の「伏見みなと橋」~ここは江戸時代の港ではなく、戦時中の河川輸送の為に造られたものだそうだ。「三十石船」をイメージしたベンチがあり、常夜燈も立ち、橋も架かっている。

 やがて、3kmほどの宇治川堤防の歩きとなる。狭い街道ばかりを歩いてきたので、非常に開放的な歩きを楽しめた。

 やがて土手を下り、京阪本線の踏切を横断して、線路沿いに進む。「京都競馬場」が見えてくる。右手に「史跡 戊辰役東軍西軍激戦之址」と書かれた木標と「戊辰役東軍戦死者慰霊」の石碑があった。 

淀宿~樟葉駅

55 淀宿(東海道57次)
・淀宿は、淀城の城下町であり、伏見宿からわずか1里14町の近い所にあった。

・江戸時代の淀城は、豊臣秀吉が築城して淀君を住まわせた淀城ではなく、伏見城を廃城にして、桂川、宇治川、木津川が合流する三角州に新しく築かれた淀城を指す。

・淀宿はこの新しい淀城の領域にある三つの町と淀小橋でつながった城外の三町で形成されて、水陸交通の要衝として繁栄した。本陣0、脇本陣0 旅籠16 

 12:30、京阪淀駅前に出る。この辺りが淀宿の中心地だったようだ。

 この駅の左方向に淀城公園があるが、余裕がなく、寄らなかった。

 その手前の呑龍という中華料理店で昼食にした。

  淀駅前を通り、再び旧街道然とした古民家が並ぶ道を進む。

 やがて、淀川に架かる昭和2年竣工の御幸橋を渡る。

 

 御幸橋は淀川と木津川の2本に架かっているが、その間の「背割堤」は桜の名所らしい。桜がきれいに紅葉していた。

 木津川に架かる御幸橋を渡り、このあとしばらくは府道が上を走る堤防の根元の歩きが続く。しかし、この道は、旧街道ではなく、河川や堤防の工事なとで分からなくなっているそうだ。

 やがて、再び旧街道の町並みとなる。この辺りは遊郭があった所らしく、古い宿屋とおぼしき建物が並んでいた。

 堤防を越えて河川敷の道を歩くところもあった。

 今日のゴールの樟葉駅近くになったら、突然、これまでになかった「旧京街道」の標石が現れてびっくりする。

 覚悟はしていたが、五街道と違って、全く街道の標識はない。曲がり角が分からないので、現在地の表示されるGoogleマップのルート図が頼りだった。

 15:00、今日のゴールの樟葉(くずは)駅に到着。

 ここから一回乗り換えて、京都駅まで戻り、16:00、昨夜と同じホテルに到着。今日1にちのホテルからホテルまでの歩数は、49,000歩。

 まずは、大きめのバスタブにお湯を入れ、疲れを抜いて、ブログアップ作業に取り組んだ。

 しばらくぶりなので、相変わらず、時間が掛かる。書き終わったら、20:00近くになった。明日からはもっと省エネアップを工夫しなくては・・・。

 

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移動日・函館~大阪(伊丹)空港~京都

2020年11月12日 | 登山・旅行

           ↓ ↓ ↓

 今回の歩き旅のスタートは京都である。その京都までの移動だが、大阪(伊丹)空港まで、ANAのシニアスマート割引(16.260円)を利用するので、今日にならなければ予約ができない・・・幸い、朝5時の段階で空席があり予約ができたので、今日出発することができた。

 歩き旅専用の軽量のリュックとショルダーバック

 田家入口からの空港行きのバスは、ちょうど良いバスがなく、JR五稜郭駅から函館駅まで行き、空港行きの直行バスに乗った。昼食は、おんじきの赤味噌ラーメン。

 13:20発の便に乗る。乗客は8割ほどの混み具合。

 北アルプスの山並み?

 大阪の町並み

 15:10、大阪(伊丹)空港に到着。15:40発のリムジンバスで京都駅まで移動(1380円)。

 京都駅前から5分ほど歩いて、今日の宿のホテルエクセレンス京都駅八条口に到着。じゃらんを通して予約したので、Gotoトラベルで、ただでさえ安い簡単な朝食付で3500円が、2475円といううれしい料金になった。

 さらに、地域クーポン券1000円が付いてきた。これで夕食が食える。実質1470円で泊まったみたいなもの。

 これからの宿はほとんどじゃらんで申し込んであるので、35%割引で、そらに、この地域クーポン券が付いて来ると、凄いお得な旅になりそう。

翌日へ


恵山高原コース維持管理作業ほか

2020年11月11日 | 登山・旅行

 恵山自然休養林管理運営協議会主催の「恵山登山コース維持管理作業」に、多くの山仲間と共に参加してきた。

 当初の計画では、高原コース全体と権現堂コースの山頂付近の予定だった。しかし、昨夜からの積雪で、火口原駐車場までの車道が閉鎖になったので、高原コース全体に絞った作業となった。高原コースは、5年前の同じ日に再開削して以来の整備作業である。

 主な作業は草(笹)刈りで、あとは見出し杭設置とテープ付けである。自分は草刈り機を持参して参加した。

 4台の草刈り機を2台ずつ、残りのメンバーを2班に分けて、刈られた草や笹の除去作業、テープ付け、杭の設置等に取り組んだ。1班は、駐車場まで先に登って、下りながら作業をし、2班は、下から登りながら作業をした。自分は2班の草刈りである。

 9:20スタート、12:15 1班と2班合流(作業終了)。13:10下山、13:30解散。

朝は函館市街地は晴れていたが、恵山地区だけは降雪状態で、恵山も真っ白になっていた。

スタート前の記念写真(自分は前列右)~17名の参加。

 先に1班がスタート

雪の降る中を登る2班

2班の草刈り作業風景と快適になった登山道~この辺りから晴れて来た。

1班と2班の先頭の草刈りマンが合流(右が自分)

1班と2班の先頭の草刈りマンの握手で開通式~これで本日の作業は終了。

下山風景

 カエデの名残紅葉~ほかの木はすべて葉が落ちていた。

※過去記事2社の新聞にも掲載された2015年11月11日の高原コース再整備作業(クリック!)

 

ピーナツカボチャ丸ごとグラタン

数日前にいただいた、初めて目にした珍しい形のピーナツカボチャ・・・形と色が名前の由来のようだ。

スープにすれば美味しいらしいが、半分は、妻がネットのレシピを参考に作ってくれた。


「京街道・山陽道」歩き旅の計画

2020年11月10日 | 登山・旅行

今日は今季一番の寒気に見舞われ、冬将軍到来の1日となった。

 旧街道歩き旅はこれまでに、中山道、東海道、奥州街道、日光街道、甲州街道の五街道のほかに伊勢街道も歩いている。特に奥州街道は、奥州奥道中も含めた三厩~日本橋間を歩いている。

 あと山陽道を歩けば、本州の三厩から下関まで繋がり、旧街道歩きで本州縦断となるので、今回の計画となった。新型コロナの感染が急増中である。密を避け、自己防衛に努めながらの旅になるが・・・。

 「山陽道」は通常、西宮~下関間の51次をいう。これまでの東海道と繋ぐためには、京都追分~大坂への「京街道」か、京都~西宮への大坂を通らない「西国街道」のどちらかを歩かなければならない。

 どちらにするか、悩んだが、東海道の延長として道中奉行の管轄下に置かれ、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の4つの宿場が設けられ、「東海道57次と呼ばれることもある「京街道」を歩くことにした。

◎京街道(東海道57次)

  「京街道」とは、大坂から京都へ向かう街道の総称であるが、今回歩くことにした街道は東海道53次目の大津宿の先、追分(髭茶屋)から伏見、枚方などを経て大阪市内の高麗橋までの道をいう。

 徳川家康は大名が京都で公家と接触するのを禁止したため、大名行列は髭茶屋で京へ向う東海道と分れ、京を通らずに大坂へ向うことになった。

 この間は東海道の延長として道中奉行の管轄下に置かれ、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の4つの宿場が設けられた。このため4宿を足して「東海道57次」と呼ばれることもある。元々文禄3年(1594年)に伏見城築造に着手した豊臣秀吉が淀川左岸に築いた「文禄堤」(堤防道)が起源である。追分から高麗橋間は、全長約56km。

山陽道(中国街道)

 旧山陽道は西宮から下関まで、全長約550㎞の長距離街道で、51次(46の宿場町と間(あい)の宿5宿)があったとされる。

 江戸時代の五街道には含まれていないものの、山陽道の歴史は非常に古く、古代の7道の中ではもっともメジャーな街道であった。それは、京都と大宰府を結ぶ重要な道でもあり、大陸文化流入の道でもあった。

 今回は、大阪から下関へ向うので、「中国街道(路)」と呼ばなければいけないのだが、大阪以西は山陽の言葉が定着し、中国路の名称はあまり一般的ではないと思われるので、「山陽道(中国街道)」の名称を用いることにした。

 幕府の公文書では九州門司市の大里が終点のように書いてあるので、下関から関門海峡(渡船か関門人道)を渡って大里まで行ってみたいとも思っている。

◎計画と準備

 これまでの五街道歩き旅は、奥州奥道中(三厩~白河)以外は、ガイドブックが多く発刊されていたが、今回の山陽道のガイドブックやガイドマップは発刊されていない。しかし、ネット上には多くの詳しい記録が掲載されている。
 
 その中から、googleマイマップに街道を落した添付地図が掲載されていて、スマホでも見られ、現在地も表示される『街道歩き旅・com』「京街道歩き旅」「山陽(中国)街道を歩いてみました」に全面的にお世話になることにした。

 ・実質歩行距離の計測と自分の現在地を知るために、GPSも持参する。
 ・装備は、これまで通り、登山用具やランニング用具で間に合わせる。
 (サロモントレッキングシューズ、スポーツタイツ2本、ハーフパンツ2本、冬用コンプレッションシャツ2枚、Tシャツ2枚、登山ズボン1本、長袖シャツ1枚、下着パンツ4枚、五本指ランニングソックス3足、薄いウインドーブレーカー、インナーダウン、雨具上下、折り畳み傘ほか)
 ・日が短いので、1日30㎞平均で計画を立ててみた。
 ・これまで通り、できるだけ安い宿を探して、素泊まりを中心に、食費も抑えてケチケチ旅行に徹するつもり。
 ・基本的に1日の食費を2000円程度に抑え、宿代を含めて6000円程度になるようにしたい。
 
 計画を組んでみたが、ずっと山陽本線や国道2号に沿った都市部を繋ぐ街道なので、安い宿を探すことには苦労しないで済みそうである。さらに、じゃらんで予約できる宿は、GoToトラベルの対象になり、35%割引になるので、非常に助かる。
 
 ただ、これまでもそうだったが、都市部の旧街道歩きは、交差点での右折や左折が多く、それを見極めるのに苦労しそうな感じである。
 また途中には有名な観光名所もあるので、新型コロナの感染状況をふまえながら、街道から外れても寄ってみたい。特に、しまなみ海道(尾道~今治・70km)は、1日の予定を組んで、往きはレンタサイクルで、帰りはバスで往復したいと考えている。

◎京街道・山陽道歩き旅計画案(移動日・予備日含めて23日の予定)

 明後日(12日)の伊丹空港行きの空席があり、シニア割引が取れれば、出発する予定である。毎日の旅日記を、これまでと同じように、スマホからこのブログにアップし続けますので、お付き合いのほどよろしくお願いいたします。

11/12(木) 移動日(函館~伊丹空港~京都)

<京街道> 56km

11/13(金) 追分~54伏見宿~55淀宿~樟葉駅<28km>

11/14(土)  樟葉駅~56枚方宿~57守口宿~高麗橋(大阪) <28km>

<山陽道> 489km

11/15(日) 高麗橋(大阪)~①尼崎宿~西宮神社<24km>

11/16(月) ②西宮宿~③兵庫宿~須磨<24km>※以下、「宿」を省略

11/17(火) 須磨~④明石~⑤加古川<32km> 

11/18(水) 加古川~⑥御着~⑦姫路~⑧鵤<28km>

11/19(木) 鵤~⑨正条~⑩片嶋~⑪有年~⑫三石<31km>

11/20(金) 三石~⑬片上~⑭藤井~⑮岡山<30km>

11/21(土) 岡山~⑯板倉~⑰川辺~清音<29km>

11/22(日) 清音~⑱矢掛~⑲七日市~⑳髙谷~御領<34㎞>

11/23(月) 御領~㉑神辺~㉒今津~㉓尾道<29㎞>

11/24(火)※しまなみ海道(尾道~今治)往復(行き・レンタサイクル、帰り・バス)

11/25(水) 尾道~㉔三原~㉕本郷~<24㎞>

11/26(木) 本郷~㉖西條<28㎞>

11/27(金) 西條~㉗海田~㉘広島<32km>

11/28(土) 広島~㉙廿日市~㉚玖波<31km>

11/29(日) 玖波~㉛関戸~㉜御庄(岩国)~㉝玖河本郷~㉞高森<29km>

11/30(月) 高森~㉟今市~㊱呼坂~㊲久保市~㊳花岡~㊴徳山~㊵富田~㊶福川<35㎞>

12/1(火) 福川~㊷富海~㊸宮市~㊹小郡<32㎞>

12/2(水) 小郡~㊺山中~㊻船木~㊼厚狭<28㎞>

12/3(木) 厚狭~㊽吉田~㊾小月~㊿長府~51下関宿<31㎞>

12/4(金) 予備日

12/5(土) 移動日


アメリカ大統領選挙に想う

2020年11月09日 | 日常生活・つぶやき

 ここ10日間以上にわたって、TVのワイドショーでは、アメリカ大統領選挙を取り扱っている。日本の首相を決めるときよりも、ずっと関心を寄せている感じで、盛り上がっている。

 国を2分する大接戦ということもあるが、これだけ盛り上がるのは、自国のリーダーの選挙に国民一人一人が投票できるというシステムだからであろう。わが国では考えられない羨ましい制度である。

 結果は、バイデン氏が勝利を確実にしているが、トランプ氏はそれを認めようとしないで、ゴタゴタ言っていて、今後の成り行きが注目されている。日本人的な発想からしたら、潔く負けを認めようとしない態度はとても受け入れらることはできないし、見苦しい感さえある。

 個人的には、あまりにも個性的で、攻撃的な発言が多く、物議を醸してきたトランプ大統領は好きになれなかったが、あの個性が、熱狂的な支持者を生んできたというのも、アメリカという国ならではであろう。

 今後、バイデン大統領になって、分断が進んできたアメリカという国をどのようにまとめて行くのか興味津々である。トランプ大統領の言っていた「偉大な国・アメリカ」よりも、バイデン氏の言っている「尊敬される国・アメリカ」を期待したい。また、女性初の副大統領となるハリス氏もなかなか魅力的な方である。次期大統領候補として、今後の活躍を大いに期待したいところである。

 日本と比べて羨ましいのは、大統領選挙に国民が参加できることもあるが、選挙のたびに政権交代の可能な拮抗した2大政党の存在である。日本もこうだったら、現在の自民党政府のような横暴な政権運営はできないだろうし、もっと洗練された政治が展開されるのではないかと思われる。

 あと、凄いと思うのは、バイデン氏とトランプ氏の年齢である。ご両人とも、自分とほぼ同じ年齢である。この年齢で、一国のリーダーを務めようとするエネルギーには頭の下がる思いである・・・。いくつかあった公職等から一切身を引いて、毎日、好き放題に遊び呆けて、ボケを心配して暮らしている自分がちょっと恥ずかしい・・・。


拙稿『五街道全踏破・歩き旅を振り返る』& 函館公園の名残紅葉ほか

2020年11月08日 | 日常生活・つぶやき

 投稿依頼を受けて執筆した拙稿が掲載された、退職組織の機関紙『鼎流』No.74が届いた。

 スキャナーで取り込んで読めるようにしたので、興味のある方はご一読いただければ幸いである。

 

◎函館公園の名残紅葉ほか

函館公園は、北西の季節風を函館山が防いでくれるせいか、遅くまで紅葉が残っている。

 

 

ベイエリアのツタの紅葉


『追跡 間宮林蔵探検ルート』出版記念 相原秀起さんトークショー

2020年11月07日 | イベント鑑賞・参加

 このたび、北海道新聞社小樽支社長の相原秀起氏は、北海道大学出版会より『追跡 間宮林蔵探検ルート ― サハリン・アムール・択捉島へ』を出版されている。この出版を記念し、函館蔦屋書店でミニ講演が開催されたので、拝聴しに行ってきた。

 相原氏は、私の北海道新聞への『ほっかいどう山楽紀行』と『どうなん・とうほく山楽紀行』の連載で、本社時代と函館報道部長時代に、非常にお世話になった方である。先月も函館中央図書館で開催された、函館文化会主催の第4回郷土の歴史講座「函館・空の事件簿~全日空ハイジャック事件から見えたもの~」を拝聴したばかりである。

 会場は、私も「北海道の山」と「四国遍路」の2回の講演会を依頼された2階の映像ホールである。

 間宮林蔵は、函館にも縁のある江戸時代後期の探検家である。伊能忠敬に測量技術を習い、当時の蝦夷地や樺太を測量し、また、間宮海峡を発見して、地図にその名を残している。

 『追跡 間宮林蔵探検ルート ― サハリン・アムール・択捉島へ』は、間宮林蔵の探検ルートを主とした、著者による足掛け約20年間の現地取材をまとめたルポルタージュである。心身ともに苦しく、現在でも容易でないというこの旅路での間宮林蔵の功績の背景には、先住民の協力や交流もあったという。林蔵の測量技術の師である伊能忠敬から信頼を寄せられていただろうとの記述もある。

 3年前にも、函館中央図書館で、氏の『間宮林蔵の道を行く』という演題の講演を拝聴している。その時の内容とダブルところが多かった。

 講演の内容は、200年後に、氏が林蔵の足跡を追いかけて現地を調査し、間宮林蔵が間宮海峡を発見するに至った経緯や、その後海峡を越えてアムール川の交易地まで行き、当時の北海道や樺太と、中国(清王朝)との活気あふれる交易と人々の様子を伝えたこと、林蔵が残した記録や地図、描いたスケッチなどをもとに、大陸への上陸地点を探し出したこと、現在の海峡の様子やアムール川や謎の交易地デレンの場所の特定やそこまでの街道の発見など、歴史的な遺産や痕跡などを探った取材の様子とその裏話が中心だった。

 今回初耳だったのは、間宮林蔵は、現在の上川町のアイヌ集落でアイヌの女性と結ばれて女の子が生まれている。それを突き止めたのは、松浦武四郎だという。その子孫は今でも上川在住で、間見谷姓を名乗っているという。氏は、今の6代目の方にもお会いしているという。

 著書も購入してきたので、これから、今日の講演を思い出しながら、じっくりと読ませていただく。


イチョウの黄葉

2020年11月06日 | 花・紅葉だより

 街中の紅葉もピークを過ぎ、今は、イチョウの黄葉がピークを迎えている。

 この黄葉の特徴は、個々の木の色づきの美しさが、場所によっても、年によっても、違わないことだそうだ。例えば、「あそこのイチョウは色づきが良い」とか「あそこのイチョウは色づきが良くない」と、場所によって、色づきの美しさが見比べられることはない。また、「今年のイチョウの色づきは美しい」とか「今年はイチョウの色づきが良くない」などと、年による色づきの美しさの違いもない。

 その理由は、「葉っぱが黄葉するために、秋に黄色い色素がわざわざ作られるのではなく、すでに作られていたものが目立ってくる」だけとのこと。夏に、葉っぱが緑色のときに、黄色い色素がすでに作られているのだそうだ。

 ただ、今回、見て歩いていると、場所によって、その木によって、黄葉になるタイミングにはズレがあるようだ。

◎教育大駐車場

 

◎亀田八幡宮

実が生っている

実も落ちている

 

◎教育大通り

 

◎函館八幡宮

右のイチョウの巨木は、まだ黄葉前だった。


タイヤ交換は1000円で・・・ & プリンター買い替えほか

2020年11月05日 | 日常生活・つぶやき

 タイヤ交換1000円で有名な「カーサービス 黒の兄弟」が、今年になって、近くの国道5号線沿いに五稜郭駅通り店をオープンさせた。

 これまでは大縄町の本店でお世話になっていたが、今年からこちらにお世話になることにした。一昨年までは、タイヤ交換だけで1000円だったが、現在は、1000円でやってもらえるのは、専用アプリをダウンロードしてくれたお客様だけで、それ以外は、2200円である。

 今回は、夏の内にamazonで購入しておいたスタッドレスタイヤを組み替えてもらって、オイル交換もお願いした。

 数日前に、タイヤを持ちこんで組み替えをしてもらっておいて、今日がタイヤ交換の日だった。本店の店長もとても感じの良い方だったが、こちらの方も、若いのにとても感じの良い方だった。

 タイヤ組み換え料(16インチまで)は、タイヤ持ち込みで1本1500円×4+消費税(6600円)、廃タイヤ処分料は1本400円×4(1600円)、タイヤ交換(1000円)、オイル交換は4Lで3100円だった。

 amazonで購入しておいたスタッドレスタイヤ(これまでと同じGOODYEAR  ICENAVI  215/65R16 98Q)は、新品4本セットで41,003円(送料無料)だった。これに、組み換え料と廃タイヤ処分料をプラスして、タイヤ交換もしてもらって、49,200円で済んだ。

 前回は、ジェームスで前年の売れ残りのタイヤを買って、組み替えて、交換してもらったが、諸経費込みで6万円強だったので、1万円以上お得だった計算になる。来年は夏タイヤも購入しなければならないので、またamazonで購入し、この黒の兄弟で組み替えと交換を頼むつもりだ。

 

◎プリンター買い替え

 amazonで見つけて購入した「旧モデルエプソンインクジェット複合ColorioPX-047」の中古品

↑ ↑ ↑

 これまで7年使用して故障した「エプソンインクジェット複合ColorioPX-045A」

 これまで7年使用してきたたプリンターがついに故障した。当時のエプソンで一番安い6,280円のものだったので、修理代の方が高くつく。新調しようと前の機種を購入した、近くのコジマ電器へ行った。買いだめしたインクあるので、それが使える機種を探した。

 ところが、これまで使っていたインクが使える安い6,000円代の機種はあったが、スキャナーもコピー機能も付いていない。しかも、在庫がなく、すでに旧モデルになっていて、なかなか入荷しないという。ほかの家電量販店を回ってみたが、見当たらなかった。最近のプリンターは、インクがボトルタイプになっているものが多く、凄く高くなっている。

 そこで、ネットで調べてみたら、これまで使っていた同じ「ColorioPX-045A」は、すでに旧モデルで、希少価値なのか、新品で24,000円以上に跳ね上がっていた。これまでの機種が進化して、Wifi接続ができ、スマホからも印刷できる「ColorioPX-047A」があることが分かった。これもすでに旧モデルで、新品なら28,000円もする。しかし、Amazonで中古品の7,380円のものが見つかった。これには、スキャナーもコピー機能も付いているので、それを注文した。

 それが、今日届いた。いつものことながら、接続等で多少手こずったが、何とか使えるようになった。

 

◎北海道の新型コロナ感染者、ついに100人超え・・・函館も4人!

 夕方のニュースで、北海道の新型コロナ感染者がついに100人を超えて、119人とい最多人数を記録した。

 そのうち、札幌は93人で、函館も一気に4人となった・・・いずれも、これまでの最多記録・・・ヤバイ!ヤバイ!


そうべつ滝遊歩道の紅葉と新山沼ほか

2020年11月04日 | 花・紅葉だより

 昨日の昭和新山学習登山会の帰りに、「そうべつ滝遊歩道の紅葉がきれいだったよ」と聞いて、久しぶりに寄ってみた。

 このそうべつ滝は、洞爺湖からの唯一の自然流出口で、湖畔から約70mの所にあり、約18mの高さがある。アイヌ語で「ソウ」は滝、「ペツ」は川という意味で、壮瞥町の地名の由来にもなっている。

 壮瞥町史には、『往時は道南一の壮観な滝として知られ、高さ18メートル、幅7.3メートルの断崖から、 145個(1個は1秒時1尺―約30糎立方尺の水=1秒時間に30立方センチメートル―流下)の水量が直下する滝で、 ごうごうたる音響を発し、飛沫は霧となって高く吹き上げ、旧滝の坂道路(現在の道路より約10数メートル上) を通る人々から、下から雨が降るところとして知られ、足を止めてその壮観を鑑賞したものであった。』と、その勇壮さが記されている。

 

◎新山沼

新山沼展望公園から見下ろす新山沼の一部

 この新山沼(しんざんぬま)は、昭和新山の形成によって壮瞥川が堰き止められて誕生している。 ここも以前に寄ったことはあるが、昭和新山登山の後だけに、新たな気持ちで再訪してみた。湖畔には横綱北の湖記念館や壮瞥町営温泉がある。

 

◎「湧別原野オホーツククロカンスキー大会」も中止決定

 来年2月28日に予定されていた、国内最長の80kmを滑走する「湧別原野オホーツククロスカントリースキー大会」も新型コロナのせいで、中止が決まった。湧別や北見の知人からもメール等で連絡をいただいた。

 この大会は、自分にとっての2月の4週連続のクロカンスキーレースの最後を締めくくるメインイベントで、一番楽しみにしている大会である。今年は、雪不足で中止になり、これで2年連続の中止となる。すでに、「恵庭クロカン」も中止を決めている・・・この調子なら、来シーズンのクロカンレースはすべて中止になることだろう・・・残念至極!

 

◎函館も初雪到来

 妻が仕事に出た9時過ぎに「雪が降っている」というので、外を覗いたら、あられ交じりの雪が降っていた。しかし、ネットを見たら、夜明け前に、函館も含めた全道各地ですでに初雪が観測されていたようだ。函館は、平年より6日遅く、昨季より3日早い観測らしい。

 今日は1日中、ストーブを点け放しにして過ごした。いよいよ冬到来である。冬支度の1つでもある、タイヤ交換も明日に予約をしてある。


昭和新山登山学習会

2020年11月03日 | 登山・旅行

この山の成長を記録し続けた三松正夫氏の銅像の建つ地点から溶岩ドームを見上げる

 「有珠山周辺地域ジオパーク友の会」主催の「昭和新山登山学習会」に参加。この昭和新山(398m)は、国の特別天然記念物に指定されている上に、私有地でもあり、現在は立入禁止となっている。登るためには、この友の会の会員になって、年1回のこの登山学習会に参加するしか方法はない。

 実は、大学1年生(昭和37年)の夏、研究室の洞爺湖キャンプの時に頂上まで登っている。すでに60年近く経過しているが、ぜひもう一度登っておきたいと、この友の会に加入していた。

 今年は、春に計画されたが、新型コロナの影響で夏に延期された。ところが、今度は熊出没のために、さらに延期されて、今日の実施となった。

 5:30に家を出て、集合場所の昭和新山パークサービスセンター駐車場を目指した。幸い、天気予報が良い方に変わって、素晴らしい天気に恵まれた。

 9:00前には受付を済ませ、9:15~諸注意・説明終了後入山。参加者は60名ほどの大所帯なので、先発隊と後発隊の2班に分かれて出発した。自分は先発隊だった。中に何度も参加されている北斗市のYoさんもいたので、一緒に行動した。

 コースは、9:15駐車場~銅像~入山ゲート~サンゴ岩麓森林界~屋根山~<左廻りコース>~ガレ場トラバース~崩落土砂堆積区域~屋根山左展望所~ドーム北東麓ガレ場トラバース~亀岩~溶岩ドーム登攀~10:40頂上手前~10:50亀岩【昼食】

 ~11:30下山開始~コブ山東陵~屋根山~<右回りコース>~グレン谷~後山 潜在ドーム~珊瑚岩下~ゲート~駐車場12:45

「麦圃生山」(麦畑に生まれた山の意)

サンゴ岩下の屋根山分岐からドーム下を左廻りに進む

赤い溶岩ドームの西面を見ながら

北側へ回り込んで、奥に見える、頂上へ繋がる北東尾根を登る

亀岩から壮瞥町市街地を見下ろす。奥の山は、左から徳舜瞥岳~ホロホロ山~オロフレ山。

亀岩~生成期より定点地熱観測ポイント。昭和20年初頭は900℃もあり、夜には伊達市から赤く見えたそうだ。

亀岩のアップ~亀の甲羅のような模様になっている

戻って昼食場所となる亀岩から空身で山頂を目指す。

ドームの斜面越しに洞爺湖と羊蹄山を眺める

有珠山を眺める

山頂ドームを見上げる。山頂は、亀裂が入っていて、現在は登れないので、この上へ少し登って戻った。

溶岩に交じって、火山には似つかわしくない川原石が散在する。これは、長流川の堆積物が、隆起して持ち上げられたもの。

戻る少し下で、洞爺湖をバックに先発隊の記念写真。(自分は右下)

洞爺湖をバックの自分(Yoさん提供)

亀岩での昼食タイムの所へ登ってきた後発隊が合流して賑やかになった。

東側から山頂ドームを見上げる

南側から見上げる溶岩ドーム

眼下のカラマツ林の黄葉を見下ろす

60年前はどこから取り付いたかは不明だが、山頂までの北東尾根は当時より崩壊と浸食が進み、険しくなっていた感じである。

帰りに60年前とほぼ同じアングルから撮影した昭和新山

昭和37年(1962年)8月3日の昭和新山と登頂記念写真

(左端の紅顔の美少年?が自分)

 この時は、今日登った北東尾根を登っているが、決まった登山道はなく、「やけど注意」「有毒ガス注意」などと書かれた立て札があちこちに立っていて、それを避けながら登った記憶がある。確か10人くらいでトライしたはずだが、頂上に到達できたのは、このシャッターを押してくれた人を含めて、多分5人だけだったようだ。 

 今日聞いたところによると、立ち入り禁止になったのは、昭和54年からだそうだ。国の方から管理者責任を求められるようになったからとのこと。


リビングを冬仕様に・・・

2020年11月02日 | 日常生活・つぶやき

 北海道は、11月に入ると、冬到来の感が強くなる。 

 明日から寒くなりそうなので、ストーブをいつ点けても良いように、リビングを冬仕様に模様替えをし、ストーブの試運転をした。

 なお、リビングと続いているダイニングと洗面化粧台・洗濯スペース(合計約22畳)も、このストーブだけで十分間に合っている。

 下の画像は、夏仕様である。

 要するにストーブの両側のソファを撤去し、正面側のソファをずらして、そこに寝転べる座椅子を置いただけである。

夏仕様

 

冬仕様のもう一つは、ベランダ窓の下からの冷気を遮断するパネルを設置。

 

ここ10日間程、朝の内だけ燃やしていたポータブルストーブ。これは春までお蔵入り。

 

◎道内で過去最多となる96人の新型コロナウイルスの感染が確認

 道内では、本日、96人の新型コロナウイルスの感染が確認され、1日の感染者数としては過去最多となった。

このうち札幌市の感染者は83人で、こちらも1日の感染者数としては過去最多となっている。


どうなる?北海道の新型コロナ & 全日本学生駅伝

2020年11月01日 | 日常生活・つぶやき

 昨日の道内の新型コロナ感染者数が、これまで最多の81人となり、2日連続の記録更新となった。

 一時、ものすごい勢いで増えていた東京を初めとする他都府県は落ち着いてきているのに、北海道のここ10日間程の記録更新を続ける増加傾向はどうしたものだろう?

 北海道と言っても、そのほとんどは札幌だが、最近は札幌圏を中心に他地域にも広がっている・・・やはり、札幌から広がっているようだ。感染経路不明者が多くなっているのも気がかりである。幸い、函館や渡島地方は、札幌から離れているせいか、今のところは、この増加現象の影響は受けていないが、いずれは?と思うとゾッとする。

 「ススキノの接客を伴う飲食店」という文言を良く目にするが、この種の飲食店だけを規制できないものだろうか?そうでないと、懸命に感染予防に留意して営業しているススキノの他の飲食店が気の毒である。

 北海道は警戒ステージ2へと移行してはいるが、これといった緊迫感のある対策や規制は出されていない。結局は道民一人一人が今以上に気を付けよ!ということなのだろう・・・。これから空気が乾燥して寒くなる北海道なので、益々心配である。

 個人的なことでは、来るシーズンのクロカンスキー大会が心配である。昨シーズンは、雪不足で軒並み中止となった。今シーズンも、「恵庭クロカン」はすでに新型コロナの影響で中止を決めている。このまま収まらなければ、右倣えをする大会も出てきそうだ。2シーズン連続中止なんてことは、ぜひ避けてほしいものである。

 また、スキー講習会や研修会を企画する人たちも頭を悩ませているようで、その相談も来ている。

 

◎第52回全日本大学駅伝大会

 天気が悪いので、朝からTV放映されていた「第52回全日本大学駅伝大会」をずっと視聴した。不思議にマラソン大会や駅大会は、ずっと見続けられるものである。

 新型コロナの影響で10月に予定されていた「出雲全日本大学選抜駅伝」が中止となり、今大会が「箱根駅伝」を含めた今季の「大学3大駅伝」の初戦となった。

 3強と言われた東海大学、青山学院大学、駒澤大学は、1~2区では10位以下という面白い出だしとなった。7区の段階では、1直線に6、7校が見えていて、3強だけでなく、どこが優勝するか分からないという面白い大会だった。

 7区で、青山がトップに立ち、それを東海と駒澤が追う展開となり、8区のアンカー勝負となった。途中まではこの3強が並んでいたが、青山が落ち、連覇を狙う東海と駒澤が並走し、最後の1kmで、後ろに付いていた駒澤がスパートを掛け、逃げ切って優勝した。

 駒澤は、一時は17位まで落ちて、最後の1km以外は、どの区間でも一度もトップに立つこともなく優勝し、それも大会新記録という珍しい現象となった。

 応援していた青山学院は、結果的に区間上位選手と下位選手が入れ替わり立ち替わりといった凸凹のレースで、最後は、明治にも抜かれて、結局は4位で終わってしまった。

 北海道からは札幌学院大学が出場していたが、途中でタスキを繋げず、繰り上げスタートとなって、25チーム中25位で終わった。また、国立大学で2校だけ出場していた東北大学と信州大学もタスキを繋げず、それぞれ、20位と23位だった。

 この大会を視たことによって、正月に必ず視る「箱根駅伝」で活躍しそうな選手の目星がついたことは収穫だった。また、今年は1年生が豊作の年で、8区間で区間賞が3人、そのうち、2人が区間新記録を樹立していた。今後の活躍が楽しみである。