出石藩のお家騒動

2018年11月18日 | 但馬の城跡
     日高町石井・晩秋の里には柿づづくなり
       
(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成30年 第13回但馬検定(2級)問題より

本日から、2級の問題になります。
今年9月に実施された但馬検定2級の問題です。昨年の3級に続けて、
今年は2級を受験しました(3級合格者が受験できます)。
おかげさまで、第13回但馬検定2級に合格いたしました。その問題を今日から解いてまいります。
ただし、過去に出題されていて重複するものは除きますから、出題80問のうちの51問となります。
本日の問題、「仙石騒動」についてはちょっと長めの解説となりました。

【4】江戸時代後期、但馬各藩の財政悪化は厳しい状況でし
たが、1835年(天保6)に出石藩で起きた江戸時代の三大お
家騒動のひとつと数えられているのは、次のうちどれでしょ
うか。

(a) 仙石騒動  (b) 伊達騒動  (c) 黒田騒動  (d) 加賀騒動


 答えは、(a)の仙石騒動です。出石藩の仙石騒動につい
ては、「ふるさとの話」で4カ月にわたって記述しました。

ちょっと長くなりますが覗いてみましょう。


ふるさとの話㊸7月号

「出石家老屋敷」を見学しました。仙石騒動の中心人物であ
る仙石左京の屋敷跡に建っているので、「左京屋敷」とも呼
ばれていますと案内です。
今月は、仙石左京や仙石騒動についてのお話です。

クイズのヒントも隠れています。

三大お家騒動

江戸時代に起きた出石藩の仙石騒動は、騒動の続いた期間の
長さ、関わった関係者の多さでは群を抜くものでした。
福岡藩の黒田騒動や仙台藩の伊達騒動、加賀藩の加賀騒動と共
に江戸三大お家騒動として有名ですが 、仙石騒動は明治 の世
になる直前まで続いた、超スパンの騒動だったのです。
      
左京出頭 

今から183年前の天保六年八月のことです。
江戸老中から「左京他十二名、直ぐに出頭せよ」と出石に早飛
脚です。
「左京はたとい病気でも、途中で死んでもかまわぬ。直ちに出
頭せよ」の知らせに、左京らは驚天動地の思いで江戸に向かい
ます。
九月、脇坂安董(やすただ)率いる奉行所役人らの、すさまじ
いばかりの取り調べが続きました。江戸老中としてはなんとし
てでも左京に「恐れ入りました」と罪を認めさせる必要があっ
たのです。
これが百年以上続く出石藩歴代家老間のごたごたを仕切るクラ
イマックスなのです。 

左京獄門・三万石へ減知

十二月、水野忠邦老中が幕府による処罰の言い渡しです。
「出石藩大老・仙石左京を獄門に処す」、続いて死罪、遠島、
追放などの処罰が十四名に言い渡されます。言い渡しと同じ日
に、鈴が森において刑が執行されました。
一国の大老だった仙石左京、獄門となった身は悲しいです。
首は獄門台に置かれて衆目にさらされ、かたわらの「捨て札」
にはお家乗っ取り、横暴政治のあることないことが、延々と罪
状として書き記されています。

さらに出石藩・仙石久利には、五万八千石から三万石へ知行が
減らされます。仙石騒動に対する江戸幕府の裁定です。

仙石家の面々

一介の武士から成り上がった仙石権兵衛秀久(ひでひさ)を祖
とする仙石家は、四代政明の時代に信州上田から出石に入って
います。
この仙石秀久は、ジェットコースター大名と言われるくらいの
破天荒な武将でした。その子孫である仙石家は、藩主の主家も、
分家の家老達もなかなかの曲者揃いだったのです。

出石藩の中でのごたごたが、幕府中枢、時の将軍家斉(いえな
り)をも怒らすことになります(家斉の娘は出石藩先々代藩主
奥方の実家、姫路藩に嫁いでいる。奥方からごたごたが家斉の
耳に)。
江戸老中の面々の利害も絡み合う、難しい土つぼに左京は落ち
たのです。

第二次騒動 

左京断罪で三万石になった出石藩は、財政再建のため再び左京
路線復活の人事を進めます。またもや幕府からのキツイおとが
めの嵐です。

第二次仙石騒動は、明治維新直前まで三〇年近く続きました。
とにかく、出石藩のごたごたは、だらだらと長く、多くの者を
巻き込み、全国的に見ても凄いものでした。

(宿南保著「仙石騒動」や、出石町史を参考に書きました)


ふるさとの話㊹8月号

 7月号で仙石騒動のことを書きました。
仙石騒動のことよく分らんと反響です。なので、3回に分けて
もう少し書いてみます。今月は、仙石家の祖と言われる仙石権
兵衛秀久のお話です。

クイズのヒントも隠れています。

権兵衛餅(もち)の由来

出石・湖月堂の名物、権兵衛餅(もち)の由来が案内パンフレ
ットに書いてあります。
「秀吉の小田原攻めの時、宴席の末座より丸に無字の紋所を描
いた三宝に載せたる、一の献上物を進め来れる者あり。秀吉手
掴みにその物を食って曰く。
これ天下の珍味、藤吉郎の昔慈母大政所の作り給ひしを思い出
すと涙を流して喜ぶ」と。その餅こそ権兵衛餅の由来なりと書
いてあります。
権兵衛餅を献上したのは、仙石権兵衛秀久なのです。その小
田原攻めには勝手に駆けつけ、無字の大旗の下で大武功をうち
立てます。出世のためなら人の心をつかむ術、勇ましい武術に
秀でた人物だったのです。

藤吉郎の家来に 

出石藩・仙石家の祖と言われる仙石秀久とはどんな人物だった
でしょうか。
「気に入った。今日から木下藤吉郎の家来になれ」と信長から
声をかけられたのが秀久十四歳の時です。美濃の士豪・仙石久
盛は、織田信長が美濃に侵攻して来ると、仕えていた斎藤家か
ら織田家へ寝返ります。
仙石家の家督を継いでいた秀久は、斎藤軍との戦いで派手な振
る舞いをします。信長の目にとまり「信長さま~、有難きしあ
わせ。藤吉郎さまに仕えます」と、織田家の家臣に潜り込みま
す。

秀久大出世 

木下藤吉郎から羽柴秀吉と出世すると共に、仙石秀久もぐんぐ
んと出世します。姉川の戦いで浅井勢を相手に大活躍をし、秀
吉が長浜城主になると、近江野洲郡に千石を与えられ出世街道
を進みます。
その後、秀吉中国攻めにも参陣し戦功を挙げ四千石に、さらに
神戸・茶臼山城主、淡路島平定と武勲を立て、洲本城主五万石
に出世します。そして、秀吉四国攻めでは最古参の家臣として
大活躍し、讃岐国十三万石を与えられて高松城に入城します。 

転落し復活する
 
ところが、秀吉九州攻め参陣の時、島津軍の猛攻に合い、秀吉
の命令にも従わず家臣二十名と讃岐に撤退してしまいます。
秀吉から「三国一の臆病者」と激怒され、讃岐国は召し上げら
れ、高野山に蟄居です。大名から只の浪人に転落です。
それから三年後、秀吉小田原攻めの時、美濃の旧臣や浪人衆二
十名程を引き連れ勝手に参陣します。
この時、日の丸の陣羽織に鈴を付けた派手な姿に、「無」の馬
印です。もの凄い武功を立てて秀吉の怒りを解きます。
そして、秀久は信州小諸城主五万石に復帰するのです。

忠政・上田城主へ

その後、関ヶ原の戦いでは次男・仙石秀範が西軍に、秀久と三
男忠政は東軍に与して徳川秀忠を補佐します。豊臣氏から徳川
氏に乗りかえた忠政は大坂夏の陣で勲功著しく、小諸藩から信
州上田城主六万石へ出世します。仙石家はニ代忠政、三代政俊、
四代政明と続きます。

上田から出石へ
 
徳川の世になって百年後の宝永三年(1706)正月、仙石政
明は出石藩領松平氏と入れ替わりを命ぜられ、信州上田から但
馬出石に入部します。政明は出石仙石家初代藩主となったので
す。

ここまでが、仙石権兵衛秀久から政明までの話です。来月は、
出石藩が仙石騒動に向かう話を書いてみます。

(宿南保著「仙石騒動」や、出石町史を参考に書きました)


ふるさとの話㊺9月号

8月号で出石仙石家の祖である仙石秀久のことを書きました。
秀久の子孫は出石に移って藩を治めます。今月は、江戸後期に
起きた三大お家騒動の一つ、出石藩・仙石騒動のお話です。
クイズのヒントも隠れています。

藩内に対立の芽

有名な仙石騒動は天保六年(1835)十二月九日に、騒動の
中心人物・仙石左京が処刑されて頂点を迎えます。ただし、騒
動の兆候は遡ること仙石政明が享保ニ年(1717)に死に、
政房が第五代藩主に就いた時から顕れていました。
政房は、家老職を務める式部(しきぶ)家から主家に養子に入
った人物です。「以後、家政のことは家老に任せず、余が自ら
指揮をとる」と宣言し、強権で主計(かずえ)家を弾圧するこ
ともしばしばあり、藩内の対立が芽生える元になります。

式部家と主計家

藩祖・秀久の長男久忠は失明の身、次男秀範は関ヶ原で西軍に
与し、そのため三男忠政が主家を継ぐことになります。
長男久忠の家系は孫の代になって、兄政治が「式部(しきぶ)
家」を、弟政忠が「主計(かずえ)家」を興し、代々交代で家
老職に就く家となります。第五代藩主政房は、式部家・政治の
長男なのです。
後々、仙石騒動の主役となる仙石左京の式部家と、仙石造酒
(みき)の主計家は、財政政策の進め方で絶えず対立を繰り返
します。

財政再建 

文政ニ年(1819)の頃、出石藩は借金六万両の財政苦境に陥
っていました。財政担当の仙石造酒は、質素倹約を中心に財政改
善を目指すも効果が上がりません。藩主は財政担当を仙石左京に
替えます。
左京は、商業重視による税収増を目指す強引な改革を進め、藩内
外から猛烈な反発です。藩主は又々頭のすげ替え、再び造酒が財
政担当となります。式部家と主計家は、その座を巡って対立ばか
りの明け暮れです。

後継者会議 

九代藩主・政美が急に亡くなります。政美には男子がいません。
前藩主・久道が主催する後継者会議が、江戸の出石藩邸で開かれ
ることになり、国元家老であった左京も勝手方(財政掛)の造酒
も江戸に駆けつけます。
その時、左京は未成年の息子・小太郎を連れて行ったのです。
造酒は、「世継ぎ会議に息子を。もしか小太郎を藩主に推す気か
?」、「左京はお家を乗取るつもりだ」と久道に言上します。
世継ぎは政美の弟・久利(4才)に決まり、訴えた造酒は罷免さ
れ、ほどなく病死します。
造酒派はほとんど処罰され左京派が藩を抑え、厳しい改革路線を
進めます。

幕府内の暗闘 
   
そんな時、藩の中の反左京派の河野、神谷と言う者が、幕閣や仙
石家の分家に左京の数々の悪事の訴状を届けに行動します。悪事
の内容が幕府の耳に入ることとなります。運が悪いことに、幕府
内でも老中間での抗争がありました。
老中・水野忠邦、寺社奉行・脇坂安董(やすただ)が、老中首座・
松平康任(やすとう)を追い落とす恐ろしい企てです。
仙石小太郎には康任の姪を嫁にもらっているのです。多額の賄賂
が動いたという噂です。

江戸幕府の水野忠邦は、松平康任追い落としも兼ねて、仙石左京
の悪事の数々を追及します。これが世に言う、仙石騒動の裁きな
のです。
結果、左京は獄門打ち首、仙石久利の出石藩は5万8千石から3
万石に減封という厳しい結末となりました。ここまでが仙石騒動
の話です。
 
ところが再び出石藩では騒動です。来月は、仙石久利と、その後
の出石藩の話を書いてみます。

(出石町史や資料を参考に書きました)


ふるさとの話㊻十月号

9月号で仙石騒動の話を書きした。天保六年(1835)仙石左
京獄門、出石藩減封のあと明治まで30年余が過ぎて行きます。今
月は最後の藩主仙石久利(ひさとし)の人生を中心に書いてみます。

クイズのヒントも隠れています。

久利4才で家督継ぐ

出石藩最後の藩主は仙石久利です。仙石権兵衛秀久から続く仙石宗
家十代の中で、最も長寿の七十八才を明治三十年に迎えます。久利
はとても波乱に満ちた人生を歩んだ人でもあったのです。

雅次郎(まさじろう・後の久利)四才の時、九代藩主政美(まさよ
し)が二七才の若さで急死します。父である八代藩主久道(ひさみ
ち)の主導で後継会議が開かれた時、政美の弟の中で一番下の、久
道妾腹の子である十一男雅次郎が後継者に選ばれるのです。

出石の儒家である桜井良蔵が「雅次郎久利」と名付けるも、出府途
中に江戸城西の丸に男子が生まれ、政之助と名付けられたことを知
らされ、急遽「道之助久利」に改名する波乱の幕開けだったのです。
また、この時の後継会議に仙石左京の息子小太郎を江戸に連れて
いった行動が、後の仙石騒動につながるのです。

出石藩三万石に半知

隠居の先々代藩主久道に守られて、藩の運営をしていた久利十五才
の時、仙石騒動が起きてしまいます。家老仙石左京の断罪と、出石
藩五万八千石から三万石へ減封です。仙石家が改易(お家取りつぶ
し)にならず半知に収まった理由が悲しいです。

「いやいや、このたびの件は家老どものふつつかから起こったもの
だ」、「道之助(久利)は、まだ若輩で何も分かっていない年ごろ
でござる」、「播磨守(久道)は病気で、もうろくしてしまってい
るし」と口論されて三万石に半知です。屈辱的な裁定に出石藩は沈
んでいきます。

第2次仙石騒動

仙石騒動の後、藩政は左京を獄門に陥(おとしい)れた守旧派の荒
木玄蕃が行うも、藩財政再建はなりません。成人なった若き久利は
玄蕃を解任し、自ら政治を主導します。改革派を登用して藩政改革
を行うのです。仙石左京の改革路線の復活です。

ところが、守旧派の桜井一太郎(良蔵の息子)らが幕閣に訴えます。
桜井良蔵がうごめいた仙石騒動の時の再現です。幕府は、先の騒動
の裁定がないがしろにされたと、出石藩を断罪します。
桜井一太郎と堀新九郎を勘定奉行・家老に送り込んで、幕府の意向
に沿う藩政をするようにさせます。悲しいかな、幕府老中水野忠邦
の天保の改革路線に踏みつぶされる出石藩の悲劇です。

久利最後の挑戦
    
堀新九郎の専横を糾弾する多田弥太郎を九年も入牢させる事件もあ
りました。しかし久利は挑戦します。幕末の動乱で幕府の影響が弱
まったのを見た久利は、養子の政固(まさかた・久利の兄政賢の長
男。病弱で継げなかった兄に報いて、その子を養子に迎えて家督を
譲る)と手を組み新九郎を切腹に追いやります。一太郎の政策を転
換させます。久利四二才の時です。

そして、藩論を尊王派に統一して新政府に恭順します。明治を迎え
る直前になって、やっと幕府のくびきから解放されるのでした。
仙石家は、久秀の慶長の時代より明治までの二百五十年余、ニ度に
わたる長き仙石騒動を乗り越え、出石の地でやっと平和を迎えたの
です。
 
生野義挙に加わった多田弥太郎は、維新眼前にして死すも、一太郎
の息子桜井勉は、気象観測の創始者として活躍し、加藤弘之はじめ
有為な人材を明治の世に出石から多く輩出しました。

(町史や藩の資料を参考に書きました)


『ありこまち 全部』

 ケンちゃんね、ケンちゃんがあんまり聞いたことのない但馬弁て
たくさんあるわね。
聞いたことのない但馬弁の一つだろう、「ありこまち」ってあるの。

「アリの小町」じゃないよ。「ありこまち」なんよ。
なかなか聞かない言葉だね。

但馬弁の「ありこまち」は、「あるだけ全部」っていう言葉なん
だ。「ぜ~ん。み~んな全部」っていう意味なんよ。

「ありこまち」をよ~く表す話し言葉に、
「ケンちゃんケンちゃん、じいちゃんわな、ケンちゃんにええオモ
チャ買っちゃら~と思って、大奮発したんだで。じいちゃんの持っ
てるお金、ありこまち出したわ。高かったで」なんて言う時に、
「ありこまち」は「全部、みんな全部」と言う意味に使います。

だけど、ケンちゃんは「ありこまち」なんて知らんわね。