「ふるさとの話」 平成29年11月号

2019年12月04日 | ふるさとあれこれ
リ~ン「ダイニングキッチンに付いてるエアコン、買い替えようと思います。相談に来て
ちょうだい」とYさんから電話です。

リ~ン「13年にもなります。リビングの液晶テレビが突然映らないの。ダメなら買い替え
ようと思います。見に来てちょうだい」とOさんから電話です。

日高商店会のガラポン抽選券の準備に忙しい時に、次々とご用の電話がありますね。
インフルエンザで店に出られない息子に代わって、バタバタ、バタバタ走ります。

夕刻のことです。
修理の件で来店のメーカーサービスマンと懇談します。

「息子さんインフルでお休みだそう。大変ですね」、
『そうなんです。エアコン工事、この雨模様で出来ないでしょう。溜まってるのですよ依頼
されてる工事が。日暮れの早い雨模様の毎日、焦ります。注文はありがたいですが』と話し
ます。

サービスマンも「いや~、冬は大変ですよ。頼まれたエアコンの修理だって、吹雪の中です
ることだってあるのですよ。但馬の12月は暗くて寒くて雨がよく降って嫌ですね」、

「それにしても、このお店はエアコン工事多いのですね。それにテレビもよく出るそうで。
息子さんのインフルエンザ早く良くなって下さいよ」と励ましの言葉を受けますね。

一人で店の留守番、商談、配達、片付け大変でした。息子の回復祈ります。




ふるさとの話㉞十一月号

浅間トンネルを出石に抜けたところに、勤皇の志士・多田弥太郎の碑が立っています。
今月は、土佐の坂本竜馬にも似た激動の人生を駆け抜けた悲劇の主人公、出石の多田弥太
郎のお話です。
クイズのヒントも隠れています。

養父の北垣国道(くにみち)
今年も出ました。但馬検定によく出てくる人物です。
養父市能座出身の北垣国道(くにみち)と、朝来市佐中出身の原六郎です。

京都府知事として、琵琶湖疏水を完成させた北垣国道も、明治の経済界に君臨した実業家
の原六郎も、但馬が生んだ出世頭としてとても有名です。

北垣晋太郎から北垣国道に、進藤俊三郎から原六郎に、二人とも改名しています。
改名は生野義挙におおいに関係しているのです。

但馬検定には出てこない出石藩出身の多田弥太郎は、吉田松陰の如き海防を説き、坂本竜
馬の如き勤皇の志士として諸藩を駆け巡った人物です。

生野義挙に関わったあと浅間峠での隕命の姿は、斬首の松陰や竜馬の最期以上に痛ましいも
のでした。

出石の多田弥太郎
多田弥太郎は、文政九年(1826)に出石藩城下柳町に生まれています。
弥太郎は幼少の頃より天才の兆し強く、藩校弘道館に学んだあと大阪に出て、藤沢東畡(と
うがい)、古賀侗庵(どうあん)に就いて朱子学を学びます。

さらに、幕府昌平黌(東京大学)で学を深めます。  
主命により帰藩して、若干二十二才で弘道館教授となるのです。
このころ黒船が浦賀に姿を見せ、世情は騒然とします。 

弥太郎は海防を志すようになり、長崎に出向き西洋砲術を学びます。
帰藩し、嘉永二年(1849)のころ、出石城外室の台で藩主久利の御前で洋式大砲(木製)
を試射し、近隣諸藩の有志に名声を博して名を轟かせています。

幽閉九年の間に
弥太郎には萩藩の松陰とよく似た状況が身に降りかかります。
嘉永七年のころ、出石藩で藩政や兵制の問題が勃発し、単身江戸に糾弾の上書を出すのです。
捕えられて出石に逆送され、牢獄に九年間幽閉されます。

その間に「国体一覧」、「海防難議」、「地球小識」、「闢蝦夷策」等を著し、水戸斉昭公
に国防の策を献じ、蝦夷を北海道と改名することや、屯田兵制度や蝦夷地開拓を提言して括
目され広く名が知れ渡ります。

九年後、再び弘道館に迎えられるものの、勤皇の志篤く倒幕への運動に突き進んで行くので
す。

生野義挙

文久三年(1863)十月、倒幕の生野義挙に同志高橋甲太郎らとともに参加するのです。
北垣晋太郎や進藤俊三郎も加わる筈でした。
豊岡藩や出石藩の鎮圧部隊によって、あっという間に敗れてしまいます。

北垣、進藤らは京都から駆けつける途中で鎮圧を聞き、長州方面に逃げ延びます。
その後改名して鳥取藩に隠れ、戊辰戦争を戦い、新政府になってから日の目を見て活躍する
のです。
 
浅間峠
多田弥太郎は敗れるに及び、後日を画して主将沢卿を説き伏せ、高橋甲太郎を従わせて長州
に落ち延びさせたのです。
挙兵の志士の多くは、山口村妙見山麓で自刃してしまいます。
    
弥太郎は逃れて京都に潜みます。
生野義挙参加者への探索厳しい中を、再び因幡や伯耆に倒幕の志士を募るため但馬の地に足
を踏み入れます。
密告により八鹿寄宮の宿で藩吏に捕らわれ、籠に乗せられ出石に護送されます。

途中、浅間峠頂上にさしかかった時、突然藩の兵士に襲われ斬殺されてしまうのです。
時に元治元年(1864)二月二十八日、三十九才の若さで明治維新への導火線となり散りま
した。

生き延びれば、明治の世に活躍したであろう多田弥太郎の死は、あまりにも悔やまれることで
した。
時移り、明治二十四年、明治政府は故人の忠烈の死を悼み、その功を嘉して特旨従四位を贈り、
靖国神社に合祀したのでした。

(多田弥太郎顕彰の碑文や、但馬事典を参考にして書きました)