「うちの孫息子は春から市の職員として勤めています。豊岡に帰ってきてくれて物凄く嬉
しいのです。東京に就職してしまうところを何とか豊岡になって、これくらい嬉しいこと
ありませんよ」と、Iさんちのじいちゃんはニコニコ笑顔で話します。
エアコン工事が完了して、リモコンの使い方説明しながら話します。
学校を卒業して、そのまま都会で就職してしまう若者がほとんどです。地方の人口は減る
ばかりです。
近所のKさんちだって凄いです。
「東京生まれで東京育ちのはずです。お父さんがふるさと離れて東京でお仕事だったのです。
そのKさんちの孫息子さんは、豊岡市に就職されたんだって。もう亡くなったおじいちゃん
おばあちゃんの住んでたふるさとの実家に帰ってきんさって」と聞きました。
「お父さんの実家がある豊岡市で働きたいと、強く希望されて卒業して豊岡市の職員に採用
されたんだって」と聞きました。
なんと素晴らしいことですか。いくらでも都会で就職先はあったでしょうに、豊岡市でぜひ
とも仕事がしたいと、父ちゃんじいちゃんのふるさとで仕事がしたいと、なんと素晴らしい
心がけでしょうか。
地方は、どんどん人口が減ってしまいます。
地方は、若者を一生懸命育てて東京へ供給するような役割です。
そんなこの頃、Iさん、Kさんちの孫息子さんはなんと嬉しいことですか。
他人事ながら、涙が出るほど嬉しいですね。

ふるさとの話㊷6月号
道の駅・但馬のまほろばで見ました。
『祖父を訪ねて遠く壱岐の島へ渡った、心諒尼(しんりょうに)の心温まる物語』の案内
です。
今月は和田山町に伝わる心諒尼のお話です。
クイズのヒントも隠れています。
小山弥兵衛は遠島に
小山次郎佐衛門の三女として生まれた可愛い娘は、七歳の時父に訊ねます。
「どうして、じいちゃんの位牌には戒名が書いてないの?」。「じいちゃんはね、ずっと
昔に代官さんに捕まって、島流しになったの」、「遠い九州の壱岐の島にいるんだよ。戒
名は書けないの。訪ねて行くこともご法度なんよ」と話します。
小山家は、朝来郡東河庄(とがのしょう)野村(現在の和田山町野村)に住んでいました。
二百八十年も昔、元文三年(1738)に百姓一揆が起き、首謀者の一人として小山弥兵
衛は遠島に罰せられたのです。
弥兵衛三十五歳の時、八歳の息子次郎佐衛門や家族を残して長崎・壱岐島に流罪となりま
した。
弥兵衛を訪ねて
「父ちゃん。じいちゃんに会いたい」、「いや駄目だ無理だ。ご法度だ」と父と娘は言い
合います。
僧になれば自由に旅ができると、おじいさんに会いたい一心から幼くして出家し、全鏡
(ぜんきょう)と名乗ります。
九歳から十年間、矢名瀬(やなせ)のお寺で修行いたします。
十九歳の春、住職に「祖父を訪ねて壱岐の島に渡りたい一念で尼になりました。
祖父にいくばくかの孝養(こうよう)がしたい」と打ち明けます。
住職は女の身では危ないと、男装の褌(ふんどし)を袴(はかま)に裁縫して「托鉢の道中
くれぐれも気をつけて」と送り出します。
山陰道から九州への苦労の旅路の末、全鏡の祖父を思う孝心に感激した福岡・安国寺住職の
助けも借り、壱岐の島に上陸します。
孫娘と初対面
「じいちゃ~ん。じいちゃ~ん。会いに来ました。会いたかったです。会いに来ました~」と
祖父と孫娘の初対面です。
なつかしい東河の家族のこと、ふるさと但馬の様子を話す孫娘の言葉に、弥兵衛は涙で震えま
す。
十九才で但馬を出た全鏡は二十四歳に、弥兵衛は壱岐に流されてから、気も狂わんばかりの望
郷の日々が五十一年も経っていました。
全鏡は、寛政四年(1792)に弥兵衛が亡くなるまでの三年余り、身の回りの世話をします。
教養豊かな弥兵衛は、島の子供たちに砂浜で読み書きを教え、自ら荒地を切り開いて植林に努
め壱岐の発展に貢献しました。
島の人々の温かい感謝の声に見送られて、全鏡は弥兵衛の遺骨を抱えてふるさと東河の里に戻
ります。
心諒尼の生涯
ふるさとに庵を開き法名も心諒と改め、祖父の菩提を弔(とむら)いつつ、弟子を育て村の子
女の教育を注ぐこと五十余年、天保十四年(1843)至誠一貫の生涯を七十九歳にして閉じま
した。
弥兵衛が育てたクスノキの苗を持ち帰り、今も東河の里で年輪を刻んでいます。
ずっと時代は下って昭和三十三年、壱岐の島で弥兵衛の墓を発見し、新聞全国版の広告で子孫
探しが始まりました。
壱岐島芦辺町と和田山町との縁が繋がったのです。
それ以来、長崎県壱岐市と兵庫県朝来市は友好都市を提携し、とても深い交流をすることにな
ったのです。
和田山町の野村には、こんな心温まる祖父孝行の話が伝わっていました。
(道の駅の案内パンフレットや、野村の歴史資料を参考に書きました)
しいのです。東京に就職してしまうところを何とか豊岡になって、これくらい嬉しいこと
ありませんよ」と、Iさんちのじいちゃんはニコニコ笑顔で話します。
エアコン工事が完了して、リモコンの使い方説明しながら話します。
学校を卒業して、そのまま都会で就職してしまう若者がほとんどです。地方の人口は減る
ばかりです。
近所のKさんちだって凄いです。
「東京生まれで東京育ちのはずです。お父さんがふるさと離れて東京でお仕事だったのです。
そのKさんちの孫息子さんは、豊岡市に就職されたんだって。もう亡くなったおじいちゃん
おばあちゃんの住んでたふるさとの実家に帰ってきんさって」と聞きました。
「お父さんの実家がある豊岡市で働きたいと、強く希望されて卒業して豊岡市の職員に採用
されたんだって」と聞きました。
なんと素晴らしいことですか。いくらでも都会で就職先はあったでしょうに、豊岡市でぜひ
とも仕事がしたいと、父ちゃんじいちゃんのふるさとで仕事がしたいと、なんと素晴らしい
心がけでしょうか。
地方は、どんどん人口が減ってしまいます。
地方は、若者を一生懸命育てて東京へ供給するような役割です。
そんなこの頃、Iさん、Kさんちの孫息子さんはなんと嬉しいことですか。
他人事ながら、涙が出るほど嬉しいですね。

ふるさとの話㊷6月号
道の駅・但馬のまほろばで見ました。
『祖父を訪ねて遠く壱岐の島へ渡った、心諒尼(しんりょうに)の心温まる物語』の案内
です。
今月は和田山町に伝わる心諒尼のお話です。
クイズのヒントも隠れています。
小山弥兵衛は遠島に
小山次郎佐衛門の三女として生まれた可愛い娘は、七歳の時父に訊ねます。
「どうして、じいちゃんの位牌には戒名が書いてないの?」。「じいちゃんはね、ずっと
昔に代官さんに捕まって、島流しになったの」、「遠い九州の壱岐の島にいるんだよ。戒
名は書けないの。訪ねて行くこともご法度なんよ」と話します。
小山家は、朝来郡東河庄(とがのしょう)野村(現在の和田山町野村)に住んでいました。
二百八十年も昔、元文三年(1738)に百姓一揆が起き、首謀者の一人として小山弥兵
衛は遠島に罰せられたのです。
弥兵衛三十五歳の時、八歳の息子次郎佐衛門や家族を残して長崎・壱岐島に流罪となりま
した。
弥兵衛を訪ねて
「父ちゃん。じいちゃんに会いたい」、「いや駄目だ無理だ。ご法度だ」と父と娘は言い
合います。
僧になれば自由に旅ができると、おじいさんに会いたい一心から幼くして出家し、全鏡
(ぜんきょう)と名乗ります。
九歳から十年間、矢名瀬(やなせ)のお寺で修行いたします。
十九歳の春、住職に「祖父を訪ねて壱岐の島に渡りたい一念で尼になりました。
祖父にいくばくかの孝養(こうよう)がしたい」と打ち明けます。
住職は女の身では危ないと、男装の褌(ふんどし)を袴(はかま)に裁縫して「托鉢の道中
くれぐれも気をつけて」と送り出します。
山陰道から九州への苦労の旅路の末、全鏡の祖父を思う孝心に感激した福岡・安国寺住職の
助けも借り、壱岐の島に上陸します。
孫娘と初対面
「じいちゃ~ん。じいちゃ~ん。会いに来ました。会いたかったです。会いに来ました~」と
祖父と孫娘の初対面です。
なつかしい東河の家族のこと、ふるさと但馬の様子を話す孫娘の言葉に、弥兵衛は涙で震えま
す。
十九才で但馬を出た全鏡は二十四歳に、弥兵衛は壱岐に流されてから、気も狂わんばかりの望
郷の日々が五十一年も経っていました。
全鏡は、寛政四年(1792)に弥兵衛が亡くなるまでの三年余り、身の回りの世話をします。
教養豊かな弥兵衛は、島の子供たちに砂浜で読み書きを教え、自ら荒地を切り開いて植林に努
め壱岐の発展に貢献しました。
島の人々の温かい感謝の声に見送られて、全鏡は弥兵衛の遺骨を抱えてふるさと東河の里に戻
ります。
心諒尼の生涯
ふるさとに庵を開き法名も心諒と改め、祖父の菩提を弔(とむら)いつつ、弟子を育て村の子
女の教育を注ぐこと五十余年、天保十四年(1843)至誠一貫の生涯を七十九歳にして閉じま
した。
弥兵衛が育てたクスノキの苗を持ち帰り、今も東河の里で年輪を刻んでいます。
ずっと時代は下って昭和三十三年、壱岐の島で弥兵衛の墓を発見し、新聞全国版の広告で子孫
探しが始まりました。
壱岐島芦辺町と和田山町との縁が繋がったのです。
それ以来、長崎県壱岐市と兵庫県朝来市は友好都市を提携し、とても深い交流をすることにな
ったのです。
和田山町の野村には、こんな心温まる祖父孝行の話が伝わっていました。
(道の駅の案内パンフレットや、野村の歴史資料を参考に書きました)