不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

「ふるさとの話」 令和元年7月号

2019年12月26日 | ふるさとあれこれ


ふるさとの話 7月・56号             

「ポツンと一軒家」というテレビ番組があります。
「金山千軒、阿瀬千軒」と栄えた金山(きんざん)も昭和37年にはポツンと一軒家
になってしまいます。
今月は、日高町三方地区にあった阿瀬金銀山のお話です。
クイズのヒントも隠れています。

阿瀬渓谷の集落
阿瀬渓谷の紅葉がきれいな羽尻地区を訪ねます。
集落には、天まで伸びるような階段の神社があります。金谷(かなや)の若宮神社です。
河畑(かばた)にも萬場(まんば)神社があります。

「立派な神社ですね」と古老に問います。
古老は「羽尻はとても広い区有林があるのです。なので、昔から元気があったのでしょう」
と、その昔は羽尻、河畑、金谷の奥には若林、金山、分尾(わけお)の集落があったと話し
ます。

「いやいや、もっと昔、この奥には阿瀬の金山があってね、とても栄えていたんですよ」と
お話です。

阿瀬金銀山の発見
調べてみますと、繁栄を極めていた金山がありました。し
かし、そのうちにポツンと一軒家になり、そして無人になったという話です。

「金山千軒」のにぎわいから一軒家に、そして廃村へと、まるでウソのようでホントの話が
ありました。

室町時代の最後のころ、永禄5年(1562)に阿瀬谷河畑のクワサゴで銀が発見されます。
河畑銀山と言いました。

それから約30年後の文禄4年(1595)、関白秀次が秀吉から切腹を命じられ、その家
臣堀久太郎と家来200人が、人も入ったこともない阿瀬の奥山に忍んで逃げたそうです。

その時に谷川で光る砂金を見つけたのが阿瀬之奥金山といわれます。
その両方を阿瀬金銀山と称してとても栄えることになるのです。

金山千軒のにぎわい
阿瀬川の広い範囲に良質の鉱物資源が広がり、人一人が入る穴を手掘り作業した鉱坑(横穴)
が無数に開いていました。
鉱夫、堀った金銀鉱石を金谷に運ぶ者、その家族は多数にのぼり、村には市が立つほどのに
ぎわいがあったといわれます。

「金山千軒、阿瀬千軒」と呼ばれた阿瀬金銀山は幕末まで続き、その繁栄は生野銀山と並び称
されたといわれます。

ポツンと一軒家に
幕末に阿瀬金山は廃鉱となり、村に残った者は山仕事や炭焼きで生計をたてます。
若林、金山、分尾と集落は分かれていましたが、金山には十軒が生計を立てて暮らしてい
ました。

それが終戦直後には七軒に減り、時代の流れに逆らうことはできません。一軒減り一軒減り、
とうとう昭和37年には、富山さん宅の一軒6人家族だけポツンと一軒家になってしまいます。

すでに、若林は昭和23年に無人となり、分尾も昭和24年に無人となっていました。
最後の一軒家・富山さんも、昭和38年に山を去ることとなり、完全に阿瀬の山の地は無人とな
ってしまいます。

楽しかった思い出
金山をあとにする時、昔を想った富山さんの手記が、看板として現地に掲げられています。

その中には「七軒みんなが家族のようなもので、助け合って暮らしていました。どの家にも若者
がいました。
遊ぶのも村ぐるみでした」と、七軒が仲良く過ごした楽しい思い出を記し、昭和30年に関電の
発電所を造り電気が点いたこと、昭和32年に出来た三方小学校金山分校で子供らが学んだこと
が書いてあります。

村をあとにする日
最後に「何百年という歴史がある金山から人が一人もいなくなること、これで金山の歴史が終わ
るかと思うと、土橋にペタンとすわり込み、泣くまいと思っても涙が止まりませんでした。

小高いところに金山の墓地が見えます。
もう亡くなった父親や母親の顔、世話になった村の人、葬式を出してあげた人たちの顔が浮かん
できました」と書いてあります。

日高町羽尻地区の奥の山の中、阿瀬の地にはすごい歴史が残っていました。

(ひだか事典や羽尻の人の話、富山さんの看板を参考に書きました)