「ふるさとの話」 平成30年10月号

2019年12月16日 | ふるさとあれこれ
走る車のラジオから「今年もあと二週間になりましたね」と声が流れてきます。
日々、淡々とご用をすませに走っている身でも、こんな声を聴きますとちょっと年の瀬の
気ぜわしさを感じます。

「じいちゃん、じいちゃん。今日ミオちゃん5歳になったんよ」と孫娘の声が弾みます。
夕刻、近所の女の子が「ミオちゃん誕生日おめでとう」と、お手紙とプレゼントを持って
きてくれました。ミオちゃんの誕生日です。

『早いものだね丸5年経ったね。ミオちゃんが生まれた日も、今日と同じに晴れてたね』
と、お祝いのフルーツを囲うみんなに話します。
『六日後の、母さんに抱かれたミオちゃん迎えた日もよく晴れてたね。その日から陽が長
くなる一陽来復の冬至の日だったね』と話します。

あと六日です。
今年もあと六日で、一陽来復の明るい朝がやってきます。

真っ暗闇夜から、明るい陽が射す冬至の朝がやってきます。




ふるさとの話㊻十月号

9月号で仙石騒動の話を書きした。
天保六年(1835)仙石左京獄門、出石藩減封のあと明治まで30年余が過ぎて
行きます。
今月は最後の藩主仙石久利(ひさとし)の人生を中心に書いてみます。
クイズのヒントも隠れています。

久利4才で家督継ぐ
出石藩最後の藩主は仙石久利です。
仙石権兵衛秀久から続く仙石宗家十代の中で、最も長寿の七十八才を明治三十年に
迎えます。
久利はとても波乱に満ちた人生を歩んだ人でもあったのです。

雅次郎(まさじろう・後の久利)四才の時、九代藩主政美(まさよし)が二七才の
若さで急死します。
父である八代藩主久道(ひさみち)の主導で後継会議が開かれた時、政美の弟の中で
一番下の、久道妾腹の子である十一男雅次郎が後継者に選ばれるのです。

出石の儒家である桜井良蔵が「雅次郎久利」と名付けるも、出府途中に江戸城西の丸
に男子が生まれ、政之助と名付けられたことを知らされ、急遽「道之助久利」に改名
する波乱の幕開けだったのです。

また、この時の後継会議に仙石左京の息子小太郎を江戸に連れていった行動が、後の
仙石騒動につながるのです。

出石藩三万石に半知

隠居の先々代藩主久道に守られて、藩の運営をしていた久利十五才の時、仙石騒動が
起きてしまいます。

家老仙石左京の断罪と、出石藩五万八千石から三万石へ減封です。仙石家が改易(お
家取りつぶし)にならず半知に収まった理由が悲しいです。
「いやいや、このたびの件は家老どものふつつかから起こったものだ」、「道之助
(久利)は、まだ若輩で何も分かっていない年ごろでござる」、「播磨守(久道)は
病気で、もうろくしてしまっているし」と口論されて三万石に半知です。

屈辱的な裁定に出石藩は沈んでいきます。

第2次仙石騒動
仙石騒動の後、藩政は左京を獄門に陥(おとしい)れた守旧派の荒木玄蕃が行うも、
藩財政再建はなりません。
成人なった若き久利は玄蕃を解任し、自ら政治を主導します。改革派を登用して藩政
改革を行うのです。仙石左京の改革路線の復活です。

ところが、守旧派の桜井一太郎(良蔵の息子)らが幕閣に訴えます。桜井良蔵がうご
めいた仙石騒動の時の再現です。

幕府は、先の騒動の裁定がないがしろにされたと、出石藩を断罪します。
桜井一太郎と堀新九郎を勘定奉行・家老に送り込んで、幕府の意向に沿う藩政をする
ようにさせます。

悲しいかな、幕府老中水野忠邦の天保の改革路線に踏みつぶされる出石藩の悲劇です。

久利最後の挑戦
堀新九郎の専横を糾弾する多田弥太郎を九年も入牢させる事件もありました。
しかし久利は挑戦します。
幕末の動乱で幕府の影響が弱まったのを見た久利は、養子の政固(まさかた・久利の
兄政賢の長男。病弱で継げなかった兄に報いて、その子を養子に迎えて家督を譲る)と
手を組み新九郎を切腹に追いやります。一太郎の政策を転換させます。

久利四二才の時です。
そして、藩論を尊王派に統一して新政府に恭順します。明治を迎える直前になって、や
っと幕府のくびきから解放されるのでした。

仙石家は、久秀の慶長の時代より明治までの二百五十年余、ニ度にわたる長き仙石騒動
を乗り越え、出石の地でやっと平和を迎えたのです。
 
生野義挙に加わった多田弥太郎は、維新眼前にして死すも、一太郎の息子桜井勉は、気
象観測の創始者として活躍し、加藤弘之はじめ有為な人材を明治の世に出石から多く輩
出しました。

(町史や藩の資料を参考に書きました)