「ふるさとの話」 平成30年9月号

2019年12月15日 | ふるさとあれこれ
日々の仕事の合間では、なかなか時間が取れなくて書けません。
今日は日曜日です。散髪屋さんも定休日で行けません。

そうだ、今日こそ机に座って「ふるさとの話」を書こうと取り組みました。
温めていた、八々山人(はちはちさんじん)の話です。

ふるさと国府には、世界の冒険家植村直己さんの実家があります。その同じ集落に江戸
時代の測量家・赤木八々山人(あかぎはちはちさんじん)という人物がいたのです。

但馬の国の精巧な地図を著した、但馬の伊能忠敬といわれる人物です。

午前中かけて、八々山人の人物記を書き上げました。
午後は一気にクロスワードパズルを作成します。

ふるさとの話の清書と、パズルのヒントも考え完成します。
今日はなかなか手間がかかり、一日キッチリ原稿作りに終わります。




ふるさとの話㊺9月号

8月号で出石仙石家の祖である仙石秀久のことを書きました。秀久の子孫は出石に移って
藩を治めます。
今月は、江戸後期に起きた三大お家騒動の一つ、出石藩・仙石騒動のお話です。
クイズのヒントも隠れています。

藩内に対立の芽
有名な仙石騒動は天保六年(1835)十二月九日に、騒動の中心人物・仙石左京が処刑
されて頂点を迎えます。
ただし、騒動の兆候は遡ること仙石政明が享保ニ年(1717)に死に、政房が第五代藩
主に就いた時から顕れていました。

政房は、家老職を務める式部(しきぶ)家から主家に養子に入った人物です。「
以後、家政のことは家老に任せず、余が自ら指揮をとる」と宣言し、強権で主計(かずえ)
家を弾圧することもしばしばあり、藩内の対立が芽生える元になります。

式部家と主計家
藩祖・秀久の長男久忠は失明の身、次男秀範は関ヶ原で西軍に与し、そのため三男忠政が
主家を継ぐことになります。
長男久忠の家系は孫の代になって、兄政治が「式部(しきぶ)家」を、弟政忠が「主計(か
ずえ)家」を興し、代々交代で家老職に就く家となります。

第五代藩主政房は、式部家・政治の長男なのです。
後々、仙石騒動の主役となる仙石左京の式部家と、仙石造酒(みき)の主計家は、財政政策
の進め方で絶えず対立を繰り返します。

財政再建
文政ニ年(1819)の頃、出石藩は借金六万両の財政苦境に陥っていました。財政担当の
仙石造酒は、質素倹約を中心に財政改善を目指すも効果が上がりません。
藩主は財政担当を仙石左京に替えます。

左京は、商業重視による税収増を目指す強引な改革を進め、藩内外から猛烈な反発です。
藩主は又々頭のすげ替え、再び造酒が財政担当となります。式部家と主計家は、その座を巡
って対立ばかりの明け暮れです。

後継者会議
九代藩主・政美が急に亡くなります。政美には男子がいません。
前藩主・久道が主催する後継者会議が、江戸の出石藩邸で開かれることになり、国元家老で
あった左京も勝手方(財政掛)の造酒も江戸に駆けつけます。

その時、左京は未成年の息子・小太郎を連れて行ったのです。
造酒は、「世継ぎ会議に息子を。もしか小太郎を藩主に推す気か?」、「左京はお家を乗っ
取るつもりだ」と久道に言上します。

世継ぎは政美の弟・久利(4才)に決まり、訴えた造酒は罷免され、ほどなく病死します。
造酒派はほとんど処罰され左京派が藩を抑え、厳しい改革路線を進めます。

幕府内の暗闘
そんな時、藩の中の反左京派の河野、神谷と言う者が、幕閣や仙石家の分家に左京の数々の
悪事の訴状を届けに行動します。

悪事の内容が幕府の耳に入ることとなります。
運が悪いことに、幕府内でも老中間での抗争がありました。老中・水野忠邦、寺社奉行・脇
坂安董(やすただ)が、老中首座・松平康任(やすとう)を追い落とす恐ろしい企てです。

仙石小太郎には康任の姪を嫁にもらっているのです。多額の賄賂が動いたという噂です。

江戸幕府の水野忠邦は、松平康任追い落としも兼ねて、仙石左京の悪事の数々を追及します。
これが世に言う、仙石騒動の裁きなのです。

結果、左京は獄門打ち首、仙石久利の出石藩は5万8千石から3万石に減封という厳しい結
末となりました。

ここまでが仙石騒動の話です。ところが再び出石藩では騒動です。
来月は、仙石久利と、その後の出石藩の話を書いてみます。

(出石町史や資料を参考に書きました)