ありがとう
令和になって早八ヵ月が経ちました。令和元年は今宵が最後です。
「ふるさとの話」なんてブログに訪問していただき、ありがとうございました。
今日でこのシリーズは終わります。
令和二年の明日からは、また別のシリーズのブログを書いてみます。ぜひ訪問してやっ
て下さい。よろしくお願いします。
本当にありがとうございました。ありがとうございました。
ふるさとの話 十二月・61号
日高町竹貫を訪ねます。神社は鷹貫神社と言います。
「竹貫」って難読地名ですね。
今月は、神社や地名の由来、それに神社の神さまの話を書いてみます。
クイズのヒントも隠れています。
竹貫集落
国府地区には、南の上郷から北の竹貫まで十三集落あります。
竹貫は、JR国府駅裏を西に進んだ山沿いにある、40戸ほどの集落です。
国府地区の難読地名は上石(あげし)かな、それとも竹貫かなというところです。
竹貫を知らない人だと「たけかん」と読むでしょう。
そうは読みません。正しくは「たかぬき」と読むのです。
少し難しい地名の由来を調べます。
社殿への石段に立派な石碑が立っています。「式内・鷹貫神社」と書いてあります。
鷹貫(たかぬき)神社なのです。
集落の背後「天王山」に、午頭天王を祭る午頭城があったそうです。
「午頭」って「うまかしら」って読むのかな、「ごとう」って読むのかな。
午頭城にこんな伝説があります。
午頭城(鷹が城)
城主・真保(さねやす)公が空を舞う鷹を見ます。
家来の早太に「あの鷹を召し捕れ」と命じ、早太一矢を放ち鷹の羽根を貫(ぬ)いて落
とします。
「見事じゃ。不過両羽(あやまたずはね)を縫て落とすとは見事じゃ。
これよりわが城を鷹貫と号し鷹が城としよう」と叫びます。
この伝説、鷹の羽根を貫いたことから社(やしろ)を鷹貫神社とし、集落を竹貫という
地名にした由来ではないかと言われています。
鷹貫神社には御神体の他に七社の神が鎮座しています。
それらは中世末期になって菅原道真公を菅原大明神とし、その他稲荷大明神、午頭天王
等々の神々を勧請・併祀(へいし)して祭られています。
元々、天王山の鷹が城にあった午頭天王も祀られているのです。
御神体
鷹貫神社の御神体の話です。
国府村誌には、神社の祭神は「鷹貫姫命(たかぬきひめのみこと)」と載っています。
日高町史には「鷹野姫命(たかのひめのみこと)」と出ています。
一体このお姫様のような人物は誰でしょうか。
調べてみますと、この姫君は但馬開拓の祖として有名な新羅の国の王子・アメノヒボコ
の子孫なのです。
天日槍(あめのひぼこ)の五代目・葛城之高額比売命(かつらぎのたかぬかひめのみこと)
という人物なのです。
神功皇后の母
話は大阪に飛びます。
アトム電器の本部がある大阪・羽曳野市に応神(おうじん)天皇陵古墳があります。
日本最大体積の古墳です。隣の堺・仁徳天皇陵古墳の仁徳天皇は、応神天皇の息子です。
応神天皇の父が仲哀(ちゅうあい)天皇で、お母さんが神功(じんぐう)皇后なのです。
神功皇后は、日本初の紙幣一円券に肖像とされるほどの人物です。
その神功皇后のお母さんが、葛城高額媛(かずらきのたかぬかひめ)です。
そう、鷹貫神社の祭神として祀られている人物・葛城之高額比売命なのです。
比多訶の娘、次は出石のアメノヒボコから見た子孫の流れです。
日本書紀には、天日槍は多遅麻(但馬)の麻多鳥(またお)と結ばれ、二代多遅摩諸助
(たじまもろすく)を生みます。
諸助の子が三代日楢杵(ひならぎ)、日楢杵の子が四代多遅摩比多訶(たじまひたか)
です。中嶋神社のお菓子の神様・多遅摩毛理(たじまもり)は比多訶の兄です。
比多訶の娘・高額媛が、奈良葛城の豪族・息長宿禰王に嫁ぎ、葛城之高額比売命と名乗
ります。そして生まれたのが息長帯比売命(神功皇后)なのです。
但馬には十四の神社に、天日槍や子孫が祭られています。
鷹貫神社の高額比売命は、いつどうして祭られたか定かでありませんが、地名の「竹貫」
は祭神の高額比売命の「高額(たかぬか)」からきた当て字ではないかという説もありま
す。
(国府村誌や渡邉政義著・鷹貫竹貫の郷を参考に書きました)