9月に受けた、但馬検定の81問目はこうでした。
地名で間違った読み方はどれか?
1.豊岡市日高町水上(むながい)、
2.養父市岩崎(いわさい)、
3.朝来市和田山町土田(はんだ)、
4.香美町村岡区池ケ平(いけがなる)です。
迷いましたね。
ものすごく勉強したつもりだったのですが、2番に〇をしてしまいます。不正解です。
正解は、1番の豊岡市日高町水上(むながい)だったのです。
日高町水上は、「みのかみ」と読むのです。
「むながい」は、豊岡市出石町水上(むながい)なのです。
但馬の難読地名のベスト5に入るでしょう。出石町の水上は「むながい」と読むのです。
但馬の難読地名を勉強する者にとって、(水上)⇒(むながい)と頭にたたきつけて覚
えていますから、問題に出ますと日高町を見る前に「むながい」正しいと勘違いしてし
まうのです。
2月号の「ふるさとの話」をどうしようかと考えます。
そうだ、出石町水上(むながい)にある越智(おち)神社のことを書こうかと思います。
水上地区の家と家の間の細い道を抜けると、ポツンと社が建ってます。
河野瀬兵衛(こうのせいべえ)を祀る神社です。
一介の武士を神として祀る神社は、とても珍しいのです。
それも、仙石騒動で処刑された一役人です。
最後には獄門になった仙石左京に貶められて、無念の死を遂げた人物です。
何故でしょうか?。何故に神社に祀られるようになったのでしょうか?。
その場所が、何故に水上(むながい)なのか不思議です。
2月号の「ふるさとの話」は、河野瀬兵衛を祀る越智神社の由来を書こうと思います。
ふるさとの話㊼十一月号
9月の但馬検定で但馬の地名の問題が出ました。
「田結」、「九鹿」、「多子」、「土生」の正しい読み方を問うものです。難読地名の問題です。
今月は、ふるさと但馬の読み方が難しい地名の話です。
クイズのヒントも隠れています。
ふるさとの地名
地名ってなぜそう決まったのか分かりません。その地域の立地からでしょうか、何か伝説
的な由来があってのことでしょうか。
どう読むのかわからない不思議な地名もあります。難読地名と言うものです。
私たちが住む「但馬」からがそうです。
但馬に縁のない人からすれば、どう見たって「たん・うま」と書いた「但馬」を「たじま」
なんて読めません。
「養父(やぶ)」だって「八鹿(ようか)」だって同じです。但馬はのっけから難読地名の
宝庫です。
テキストブックの地名から、但馬の旧1市18町の各町一つ選んだ難読地名を取り上げてみます。
さてどう読むか挑戦してみて下さい。
但馬の難読地名
豊岡市田結( )
津居山湾の東の端、ワカメが有名。
城崎町楽々浦( )
但馬で一、ニを争う難しい読み名。笹や芦や蒲が生えていたから付いた地名。
竹野町椒( )
山椒がよく採れる。小さい実と言う意味で付いた地名。
日高町祢布( )
祢(禰)は鈴、布は紐のこと。 但馬国分寺で紐に使う布を織っていたことから付いた地名。
出石町水上( )
最高に難読な地名。日高町には(水上みのかみ)があります。
但東町虫生( )
安牟加神社の大古踊り(ささばやしが有名です。
八鹿町九鹿( )
日枝神社のざんざか踊りが有名。やぶ医者の語源の地でもあります。
養父町建屋( )
楯を作る屋敷、「楯の屋」があったので付いた地名。
大屋町若杉( )
一夜にして三本の若い杉が生長した奇跡から付いた地名。
関宮町外野( )
八木川上流にある村。聖谷に高野聖七人が祀られている。
和田山町加都( )
川の流れに沿い広がる土地を意味する川津から付いた地名。
山東町一品( )
皇子一品親王が在住されたことから付いた地名。
朝来町田路( )
但馬太田文に田道荘と記録。田道が田路に言い換えられた。
生野町上生野( )
上生野(かみいくの)が変化した。
香住町土生( )
昔、埴輪(はにわ)を作る土師が住んでいたので付いた地名。
村岡町燿山( )
湯舟川中流、香山戸臣命を祀る。香山から加賀山、燿山に変化した。
美方町神水( )
矢田川上流の山間部。難読地名の祖岡(けびおか)村と山争いあり。
浜坂町辺地( )
久斗川の中流にあり、昔の日置部(へきべ」郷から付いた地名。
温泉町多子( )
照来川上流、江戸期は多子村(おおいこむら)と称した。
読み方の答え
分かりましたか、難しいですね。
答は順に、(たい)(ささうら)(はじかみ)(にょう)(むながい)(むしゅう)
(くろく)(たきのや)(わかす)(との)(かつ)(いっぽう)(とうじ)
(こうじくの)(はぶ)(かかやま)(かんずい)(へっち)(おいご)なのです。
(日本地名大辞典を参考に書きました)
走る車のラジオから「今年もあと二週間になりましたね」と声が流れてきます。
日々、淡々とご用をすませに走っている身でも、こんな声を聴きますとちょっと年の瀬の
気ぜわしさを感じます。
「じいちゃん、じいちゃん。今日ミオちゃん5歳になったんよ」と孫娘の声が弾みます。
夕刻、近所の女の子が「ミオちゃん誕生日おめでとう」と、お手紙とプレゼントを持って
きてくれました。ミオちゃんの誕生日です。
『早いものだね丸5年経ったね。ミオちゃんが生まれた日も、今日と同じに晴れてたね』
と、お祝いのフルーツを囲うみんなに話します。
『六日後の、母さんに抱かれたミオちゃん迎えた日もよく晴れてたね。その日から陽が長
くなる一陽来復の冬至の日だったね』と話します。
あと六日です。
今年もあと六日で、一陽来復の明るい朝がやってきます。
真っ暗闇夜から、明るい陽が射す冬至の朝がやってきます。
ふるさとの話㊻十月号
9月号で仙石騒動の話を書きした。
天保六年(1835)仙石左京獄門、出石藩減封のあと明治まで30年余が過ぎて
行きます。
今月は最後の藩主仙石久利(ひさとし)の人生を中心に書いてみます。
クイズのヒントも隠れています。
久利4才で家督継ぐ
出石藩最後の藩主は仙石久利です。
仙石権兵衛秀久から続く仙石宗家十代の中で、最も長寿の七十八才を明治三十年に
迎えます。
久利はとても波乱に満ちた人生を歩んだ人でもあったのです。
雅次郎(まさじろう・後の久利)四才の時、九代藩主政美(まさよし)が二七才の
若さで急死します。
父である八代藩主久道(ひさみち)の主導で後継会議が開かれた時、政美の弟の中で
一番下の、久道妾腹の子である十一男雅次郎が後継者に選ばれるのです。
出石の儒家である桜井良蔵が「雅次郎久利」と名付けるも、出府途中に江戸城西の丸
に男子が生まれ、政之助と名付けられたことを知らされ、急遽「道之助久利」に改名
する波乱の幕開けだったのです。
また、この時の後継会議に仙石左京の息子小太郎を江戸に連れていった行動が、後の
仙石騒動につながるのです。
出石藩三万石に半知
隠居の先々代藩主久道に守られて、藩の運営をしていた久利十五才の時、仙石騒動が
起きてしまいます。
家老仙石左京の断罪と、出石藩五万八千石から三万石へ減封です。仙石家が改易(お
家取りつぶし)にならず半知に収まった理由が悲しいです。
「いやいや、このたびの件は家老どものふつつかから起こったものだ」、「道之助
(久利)は、まだ若輩で何も分かっていない年ごろでござる」、「播磨守(久道)は
病気で、もうろくしてしまっているし」と口論されて三万石に半知です。
屈辱的な裁定に出石藩は沈んでいきます。
第2次仙石騒動
仙石騒動の後、藩政は左京を獄門に陥(おとしい)れた守旧派の荒木玄蕃が行うも、
藩財政再建はなりません。
成人なった若き久利は玄蕃を解任し、自ら政治を主導します。改革派を登用して藩政
改革を行うのです。仙石左京の改革路線の復活です。
ところが、守旧派の桜井一太郎(良蔵の息子)らが幕閣に訴えます。桜井良蔵がうご
めいた仙石騒動の時の再現です。
幕府は、先の騒動の裁定がないがしろにされたと、出石藩を断罪します。
桜井一太郎と堀新九郎を勘定奉行・家老に送り込んで、幕府の意向に沿う藩政をする
ようにさせます。
悲しいかな、幕府老中水野忠邦の天保の改革路線に踏みつぶされる出石藩の悲劇です。
久利最後の挑戦
堀新九郎の専横を糾弾する多田弥太郎を九年も入牢させる事件もありました。
しかし久利は挑戦します。
幕末の動乱で幕府の影響が弱まったのを見た久利は、養子の政固(まさかた・久利の
兄政賢の長男。病弱で継げなかった兄に報いて、その子を養子に迎えて家督を譲る)と
手を組み新九郎を切腹に追いやります。一太郎の政策を転換させます。
久利四二才の時です。
そして、藩論を尊王派に統一して新政府に恭順します。明治を迎える直前になって、や
っと幕府のくびきから解放されるのでした。
仙石家は、久秀の慶長の時代より明治までの二百五十年余、ニ度にわたる長き仙石騒動
を乗り越え、出石の地でやっと平和を迎えたのです。
生野義挙に加わった多田弥太郎は、維新眼前にして死すも、一太郎の息子桜井勉は、気
象観測の創始者として活躍し、加藤弘之はじめ有為な人材を明治の世に出石から多く輩
出しました。
(町史や藩の資料を参考に書きました)
日々の仕事の合間では、なかなか時間が取れなくて書けません。
今日は日曜日です。散髪屋さんも定休日で行けません。
そうだ、今日こそ机に座って「ふるさとの話」を書こうと取り組みました。
温めていた、八々山人(はちはちさんじん)の話です。
ふるさと国府には、世界の冒険家植村直己さんの実家があります。その同じ集落に江戸
時代の測量家・赤木八々山人(あかぎはちはちさんじん)という人物がいたのです。
但馬の国の精巧な地図を著した、但馬の伊能忠敬といわれる人物です。
午前中かけて、八々山人の人物記を書き上げました。
午後は一気にクロスワードパズルを作成します。
ふるさとの話の清書と、パズルのヒントも考え完成します。
今日はなかなか手間がかかり、一日キッチリ原稿作りに終わります。
ふるさとの話㊺9月号
8月号で出石仙石家の祖である仙石秀久のことを書きました。秀久の子孫は出石に移って
藩を治めます。
今月は、江戸後期に起きた三大お家騒動の一つ、出石藩・仙石騒動のお話です。
クイズのヒントも隠れています。
藩内に対立の芽
有名な仙石騒動は天保六年(1835)十二月九日に、騒動の中心人物・仙石左京が処刑
されて頂点を迎えます。
ただし、騒動の兆候は遡ること仙石政明が享保ニ年(1717)に死に、政房が第五代藩
主に就いた時から顕れていました。
政房は、家老職を務める式部(しきぶ)家から主家に養子に入った人物です。「
以後、家政のことは家老に任せず、余が自ら指揮をとる」と宣言し、強権で主計(かずえ)
家を弾圧することもしばしばあり、藩内の対立が芽生える元になります。
式部家と主計家
藩祖・秀久の長男久忠は失明の身、次男秀範は関ヶ原で西軍に与し、そのため三男忠政が
主家を継ぐことになります。
長男久忠の家系は孫の代になって、兄政治が「式部(しきぶ)家」を、弟政忠が「主計(か
ずえ)家」を興し、代々交代で家老職に就く家となります。
第五代藩主政房は、式部家・政治の長男なのです。
後々、仙石騒動の主役となる仙石左京の式部家と、仙石造酒(みき)の主計家は、財政政策
の進め方で絶えず対立を繰り返します。
財政再建
文政ニ年(1819)の頃、出石藩は借金六万両の財政苦境に陥っていました。財政担当の
仙石造酒は、質素倹約を中心に財政改善を目指すも効果が上がりません。
藩主は財政担当を仙石左京に替えます。
左京は、商業重視による税収増を目指す強引な改革を進め、藩内外から猛烈な反発です。
藩主は又々頭のすげ替え、再び造酒が財政担当となります。式部家と主計家は、その座を巡
って対立ばかりの明け暮れです。
後継者会議
九代藩主・政美が急に亡くなります。政美には男子がいません。
前藩主・久道が主催する後継者会議が、江戸の出石藩邸で開かれることになり、国元家老で
あった左京も勝手方(財政掛)の造酒も江戸に駆けつけます。
その時、左京は未成年の息子・小太郎を連れて行ったのです。
造酒は、「世継ぎ会議に息子を。もしか小太郎を藩主に推す気か?」、「左京はお家を乗っ
取るつもりだ」と久道に言上します。
世継ぎは政美の弟・久利(4才)に決まり、訴えた造酒は罷免され、ほどなく病死します。
造酒派はほとんど処罰され左京派が藩を抑え、厳しい改革路線を進めます。
幕府内の暗闘
そんな時、藩の中の反左京派の河野、神谷と言う者が、幕閣や仙石家の分家に左京の数々の
悪事の訴状を届けに行動します。
悪事の内容が幕府の耳に入ることとなります。
運が悪いことに、幕府内でも老中間での抗争がありました。老中・水野忠邦、寺社奉行・脇
坂安董(やすただ)が、老中首座・松平康任(やすとう)を追い落とす恐ろしい企てです。
仙石小太郎には康任の姪を嫁にもらっているのです。多額の賄賂が動いたという噂です。
江戸幕府の水野忠邦は、松平康任追い落としも兼ねて、仙石左京の悪事の数々を追及します。
これが世に言う、仙石騒動の裁きなのです。
結果、左京は獄門打ち首、仙石久利の出石藩は5万8千石から3万石に減封という厳しい結
末となりました。
ここまでが仙石騒動の話です。ところが再び出石藩では騒動です。
来月は、仙石久利と、その後の出石藩の話を書いてみます。
(出石町史や資料を参考に書きました)
今夜は、区の「福祉ネットワーク会議」に出席します。
民生委員や、区の三役、老人会長、消防部長が集まって、区内の独居老人や高齢者家族に
ついての見廻り相談話します。
「もう高齢で免許返納したいの。事故なんか起こさないうちに」と、ひとり暮らしのAさ
んがおっしゃってると話し合います。
「でも、買い物だけが困るの。車がなくてはスーパーにも行けないし。何か良い方法ない
かしら」と、買い物難民になる心配をされるのです。
移動販売車も、何軒かの利用者が集まらなければ週一度でも来てくれません。
コープの宅配カタログ注文は、品物見ての買い物できないので満足できません。
買い物タクシーも、高くて乗れません。車を手放すと、たちまち買い物難民になる田舎です。
会議のメンバーは何とかならんかと思案をします。
町の電気屋の出番です。
こんなに不自由になってしまう世帯が増えるのです。
買い物も、買い物以外のすべてに困ります。
面倒見の良い町の電気屋さんが、一緒に思案し考えますね。
ふるさとの話㊹8月号
7月号で仙石騒動のことを書きました。仙石騒動のことよく分らんと反響です。
なので、3回に分けてもう少し書いてみます。
今月は、仙石家の祖と言われる仙石権兵衛秀久のお話です。
クイズのヒントも隠れています。
権兵衛餅(もち)の由来
出石・湖月堂の名物、権兵衛餅(もち)の由来が案内パンフレットに書いてあります。
「秀吉の小田原攻めの時、宴席の末座より丸に無字の紋所を描いた三宝に載せたる、一
の献上物を進め来れる者あり。
秀吉手掴みにその物を食って曰く。これ天下の珍味、藤吉郎の昔慈母大政所の作り給ひ
しを思い出すと涙を流して喜ぶ」と。
その餅こそ権兵衛餅の由来なりと書いてあります。
権兵衛餅を献上したのは仙石権兵衛秀久なのです。
その小田原攻めには勝手に駆けつけ、無字の大旗の下で大武功をうち立てます。
出世のためなら人の心をつかむ術、勇ましい武術に秀でた人物だったのです。
藤吉郎の家来に
出石藩・仙石家の祖と言われる仙石秀久とはどんな人物だったでしょうか。
「気に入った。今日から木下藤吉郎の家来になれ」と信長から声をかけられたのが秀久
十四歳の時です。
美濃の士豪・仙石久盛は、織田信長が美濃に侵攻して来ると、仕えていた斎藤家から織
田家へ寝返ります。仙石家の家督を継いでいた秀久は、斎藤軍との戦いで派手な振る舞
いをします。
信長の目にとまり「信長さま~、有難きしあわせ。藤吉郎さまに仕えます」と、織田家
の家臣に潜り込みます。
秀久大出世
木下藤吉郎から羽柴秀吉と出世すると共に、仙石秀久もぐんぐんと出世します。
姉川の戦いで浅井勢を相手に大活躍をし、秀吉が長浜城主になると、近江野洲郡に千石
を与えられ出世街道を進みます。
その後、秀吉中国攻めにも参陣し戦功を挙げ四千石に、さらに神戸・茶臼山城主、淡路
島平定と武勲を立て、洲本城主五万石に出世します。
そして、秀吉四国攻めでは最古参の家臣として大活躍し、讃岐国十三万石を与えられて
高松城に入城します。
転落し復活する
ところが、秀吉九州攻め参陣の時、島津軍の猛攻に合い、秀吉の命令にも従わず家臣二十
名と讃岐に撤退してしまいます。
秀吉から「三国一の臆病者」と激怒され、讃岐国は召し上げられ、高野山に蟄居です。
大名から只の浪人に転落です。
それから三年後、秀吉小田原攻めの時、美濃の旧臣や浪人衆二十名程を引き連れ勝手に参
陣します。
この時、日の丸の陣羽織に鈴を付けた派手な姿に、「無」の馬印です。もの凄い武功を立
てて秀吉の怒りを解きます。
そして、秀久は信州小諸城主五万石に復帰するのです。
忠政・上田城主へ
その後、関ヶ原の戦いでは次男・仙石秀範が西軍に、秀久と三男忠政は東軍に与して徳川
秀忠を補佐します。
豊臣氏から徳川氏に乗りかえた忠政は大坂夏の陣で勲功著しく、小諸藩から信州上田城主
六万石へ出世します。
仙石家はニ代忠政、三代政俊、四代政明と続きます。
上田から出石へ
徳川の世になって百年後の宝永三年(1706)正月、仙石政明は出石藩領松平氏と入れ
替わりを命ぜられ、信州上田から但馬出石に入部します。
政明は出石仙石家初代藩主となったのです。
ここまでが、仙石権兵衛秀久から政明までの話です。来月は、出石藩が仙石騒動に向かう
話を書いてみます。
(宿南保著「仙石騒動」や、出石町史を参考に書きました)
お店の名前って不思議なものがあります。
今日、アンテナ工事に伺ったお店です。
工事代をいただきながら聞きました。
『このお店のお名前、 ”みかんの家〟 って言いますね。ラーメン屋さんが ”みかん
の家〟 ってどうしてなんですか』とお店のご主人に尋ねます。
「ああ、みかんは犬の名前なの。うちで飼ってた犬はみかんと呼んでたの。みかんのお
母さんは ”リンゴ〟って言うの。リンゴから生まれた犬がみかんなの」と説明されます。
面白いですね。
「それそれ、入り口のマットの柄も犬の足あと(🐾)描いてるでしょ。犬の名前を店の名
にしたの。よく聞かれるんよ」と話します。
なんとも不思議な店名ですね。
ふるさとの話㊸7月号
「出石家老屋敷」を見学しました。
仙石騒動の中心人物である仙石左京の屋敷跡に建っているので、「左京屋敷」とも呼ばれ
ていますと案内です。
今月は、仙石左京や仙石騒動についてのお話です。
クイズのヒントも隠れています。
三大お家騒動
江戸時代に起きた出石藩の仙石騒動は、騒動の続いた期間の長さ、関わった関係者の多さ
では群を抜くものでした。
福岡藩の黒田騒動や仙台藩の伊達騒動、加賀藩の加賀騒動と共に江戸三大お家騒動として
有名ですが、仙石騒動は明治の世になる直前まで続いた、超スパンの騒動だったのです。
左京出頭
今から183年前の天保六年八月のことです。
江戸老中から「左京他十二名、直ぐに出頭せよ」と出石に早飛脚です。
「左京はたとい病気でも、途中で死んでもかまわぬ。直ちに出頭せよ」の知らせに、左京ら
は驚天動地の思いで江戸に向かいます。
九月、脇坂安董(やすただ)率いる奉行所役人らの、すさまじいばかりの取り調べが続きま
した。
江戸老中としてはなんとしてでも左京に「恐れ入りました」と罪を認めさせる必要があった
のです。
これが百年以上続く出石藩歴代家老間のごたごたを仕切るクライマックスなのです。
左京獄門・三万石へ減知
十二月、水野忠邦老中が幕府による処罰の言い渡しです。
「出石藩大老・仙石左京を獄門に処す」、続いて死罪、遠島、追放などの処罰が十四名に言
い渡されます。
言い渡しと同じ日に、鈴が森において刑が執行されました。
一国の大老だった仙石左京、獄門となった身は悲しいです。首は獄門台に置かれて衆目にさ
らされ、かたわらの「捨て札」にはお家乗っ取り、横暴政治のあることないことが、延々と
罪状として書き記されています。
さらに出石藩・仙石久利には、五万八千石から三万石へ知行が減らされます。
仙石騒動に対する江戸幕府の裁定です。
仙石家の面々
一介の武士から成り上がった仙石権兵衛秀久(ひでひさ)を祖とする仙石家は、四代政明の時
代に信州上田から出石に入っています。
この仙石秀久は、ジェットコースター大名と言われるくらいの破天荒な武将でした。
その子孫である仙石家は、藩主の主家も、分家の家老達もなかなかの曲者揃いだったのです。
出石藩の中でのごたごたが、幕府中枢、時の将軍家斉(いえなり)をも怒らすことになります
(家斉の娘は出石藩先々代藩主奥方の実家、姫路藩に嫁いでいる。奥方からごたごたが家斉の
耳に)。
江戸老中の面々の利害も絡み合う、難しい土つぼに左京は落ちたのです。
第二次騒動
左京断罪で三万石になった出石藩は、財政再建のため再び左京路線復活の人事を進めます。
またもや幕府からのキツイおとがめの嵐です。
第二次仙石騒動は、明治維新直前まで三〇年近く続きました。とにかく、出石藩のごたごたは、
だらだらと長く、多くの者を巻き込み、全国的に見ても凄いものでした。
(宿南保著「仙石騒動」や、出石町史を参考に書きました)
「うちの孫息子は春から市の職員として勤めています。豊岡に帰ってきてくれて物凄く嬉
しいのです。東京に就職してしまうところを何とか豊岡になって、これくらい嬉しいこと
ありませんよ」と、Iさんちのじいちゃんはニコニコ笑顔で話します。
エアコン工事が完了して、リモコンの使い方説明しながら話します。
学校を卒業して、そのまま都会で就職してしまう若者がほとんどです。地方の人口は減る
ばかりです。
近所のKさんちだって凄いです。
「東京生まれで東京育ちのはずです。お父さんがふるさと離れて東京でお仕事だったのです。
そのKさんちの孫息子さんは、豊岡市に就職されたんだって。もう亡くなったおじいちゃん
おばあちゃんの住んでたふるさとの実家に帰ってきんさって」と聞きました。
「お父さんの実家がある豊岡市で働きたいと、強く希望されて卒業して豊岡市の職員に採用
されたんだって」と聞きました。
なんと素晴らしいことですか。いくらでも都会で就職先はあったでしょうに、豊岡市でぜひ
とも仕事がしたいと、父ちゃんじいちゃんのふるさとで仕事がしたいと、なんと素晴らしい
心がけでしょうか。
地方は、どんどん人口が減ってしまいます。
地方は、若者を一生懸命育てて東京へ供給するような役割です。
そんなこの頃、Iさん、Kさんちの孫息子さんはなんと嬉しいことですか。
他人事ながら、涙が出るほど嬉しいですね。
ふるさとの話㊷6月号
道の駅・但馬のまほろばで見ました。
『祖父を訪ねて遠く壱岐の島へ渡った、心諒尼(しんりょうに)の心温まる物語』の案内
です。
今月は和田山町に伝わる心諒尼のお話です。
クイズのヒントも隠れています。
小山弥兵衛は遠島に
小山次郎佐衛門の三女として生まれた可愛い娘は、七歳の時父に訊ねます。
「どうして、じいちゃんの位牌には戒名が書いてないの?」。「じいちゃんはね、ずっと
昔に代官さんに捕まって、島流しになったの」、「遠い九州の壱岐の島にいるんだよ。戒
名は書けないの。訪ねて行くこともご法度なんよ」と話します。
小山家は、朝来郡東河庄(とがのしょう)野村(現在の和田山町野村)に住んでいました。
二百八十年も昔、元文三年(1738)に百姓一揆が起き、首謀者の一人として小山弥兵
衛は遠島に罰せられたのです。
弥兵衛三十五歳の時、八歳の息子次郎佐衛門や家族を残して長崎・壱岐島に流罪となりま
した。
弥兵衛を訪ねて
「父ちゃん。じいちゃんに会いたい」、「いや駄目だ無理だ。ご法度だ」と父と娘は言い
合います。
僧になれば自由に旅ができると、おじいさんに会いたい一心から幼くして出家し、全鏡
(ぜんきょう)と名乗ります。
九歳から十年間、矢名瀬(やなせ)のお寺で修行いたします。
十九歳の春、住職に「祖父を訪ねて壱岐の島に渡りたい一念で尼になりました。
祖父にいくばくかの孝養(こうよう)がしたい」と打ち明けます。
住職は女の身では危ないと、男装の褌(ふんどし)を袴(はかま)に裁縫して「托鉢の道中
くれぐれも気をつけて」と送り出します。
山陰道から九州への苦労の旅路の末、全鏡の祖父を思う孝心に感激した福岡・安国寺住職の
助けも借り、壱岐の島に上陸します。
孫娘と初対面
「じいちゃ~ん。じいちゃ~ん。会いに来ました。会いたかったです。会いに来ました~」と
祖父と孫娘の初対面です。
なつかしい東河の家族のこと、ふるさと但馬の様子を話す孫娘の言葉に、弥兵衛は涙で震えま
す。
十九才で但馬を出た全鏡は二十四歳に、弥兵衛は壱岐に流されてから、気も狂わんばかりの望
郷の日々が五十一年も経っていました。
全鏡は、寛政四年(1792)に弥兵衛が亡くなるまでの三年余り、身の回りの世話をします。
教養豊かな弥兵衛は、島の子供たちに砂浜で読み書きを教え、自ら荒地を切り開いて植林に努
め壱岐の発展に貢献しました。
島の人々の温かい感謝の声に見送られて、全鏡は弥兵衛の遺骨を抱えてふるさと東河の里に戻
ります。
心諒尼の生涯
ふるさとに庵を開き法名も心諒と改め、祖父の菩提を弔(とむら)いつつ、弟子を育て村の子
女の教育を注ぐこと五十余年、天保十四年(1843)至誠一貫の生涯を七十九歳にして閉じま
した。
弥兵衛が育てたクスノキの苗を持ち帰り、今も東河の里で年輪を刻んでいます。
ずっと時代は下って昭和三十三年、壱岐の島で弥兵衛の墓を発見し、新聞全国版の広告で子孫
探しが始まりました。
壱岐島芦辺町と和田山町との縁が繋がったのです。
それ以来、長崎県壱岐市と兵庫県朝来市は友好都市を提携し、とても深い交流をすることにな
ったのです。
和田山町の野村には、こんな心温まる祖父孝行の話が伝わっていました。
(道の駅の案内パンフレットや、野村の歴史資料を参考に書きました)
「アトムさんアトムさん、ありがとう。ガラポン抽選で当たったのよ、ペアチケット券が
当たったのよ」とUさんちの奥さんは大喜びです。
ひだか商人まつりの福引抽選の賞品に、劇場オープン入場券を付けちゃったのです。
来年3月末にオープン予定の江原河畔劇場のチケットです。
平田オリザさんが主宰する劇団「青年団」(東京都)が、日高の町に拠点を移してやって来
るのです。
国内外で活躍する劇作家の平田オリザさんが、豊岡市を世界的演劇祭の開催できる町にしよ
うと夢ふくらむその一歩です。
Uさんちの奥さんは「ペアチケットが何のこっちゃ分からんけれど、特賞出ましたよ~と、
カランカランと鐘鳴らされたんよ」と嬉しさ爆発した笑顔です。
アトムのうまいもの市の箱もそっちのけで、嬉しさ笑顔の奥さんでした。
ふるさとの話㊶5月号
「各界の一番が魂震えたスゴイ日本人がいた・・。大戦直前たった一人戦争を止めようと
した男がいた」というテレビ番組で斎藤隆夫の話を取り上げていました。
今月は、歴史学者・磯田道史の魂も震えたという斎藤隆夫と但馬の人たちの話です。
クイズのヒントも隠れています。
政治家・斎藤隆夫
出石町中村に「斎藤隆夫記念館・静思堂」の道路標識があります。
但馬の人ならだれでもよく知っている大正・昭和の政治家で、憲政の神様と言われた「斎
藤隆夫」の出身地です。
斎藤隆夫は東京に出た際、実業界の大物、朝来市出身の原六郎の援助で学校(現早稲田大
学法学部)に入学し学びます。
後々の政界にあっても原六郎亡きあと、その娘婿の実業家原邦造に支援を受け続けます。
政治の中に利益誘導と云うものを一切持ち込まない主義の斎藤と言う代議士を原は支援し
ます。
ともかく、見返りを見込めない斎藤に肩入れし続ける但馬の大先輩に助けられるのです。
反軍演説で除名
歴史学者・磯田が若き学生の頃、露天商から500円で買った色紙を見て感動した話です。
色紙は斎藤隆夫のものでした。
斎藤は国会で支那事変処理に関する質問演説をします。のちの世にいう有名な「反軍演説」
です。
痛烈に軍部を批判したことが斎藤の議員除名へとつながります。
軍に対する恐怖の中でも、勇敢にも除名決議に反対票を入れた議員は7票です。同郷福知
山の芦田均もその一人です。もちろん、大政翼賛会の流れの中で次回選挙では非推薦候補
となり、芦田、斎藤以外は落選します。
但馬の選挙民は斎藤をトップ当選させるのです。
斎藤の色紙
除名通知が届いた夜に斎藤はひとり部屋で色紙に漢詩を書きます。
吾言即是万人声
毀誉褒貶委世評
請看百年青史上
正邪曲直自分明
弁論は国民の声を代弁したものであり、正しかったことはいずれ歴史が証明するだろう。
正邪曲直はおのずと明らかになるだろうと書き記しました。
この色紙を見た磯田は魂が震え、斎藤を議会に送ることに賭けた但馬の人たちの存在に涙が
出るほどに感動したと言います。
また、斎藤隆夫という人物がいたから日本人を信じることができる。斎藤隆夫を翼賛選挙で
トップ当選させた投票者がいたから日本人を信じることができると言います。
地元兵庫5区への尊敬の言葉です。
但馬の斎藤宗
斎藤を語る本は何冊か出ています。
その中の一冊「草柳大蔵著・斎藤隆夫かく戦えり」に、地元での斎藤の支持者を斎藤宗の人々
と表現しています。
斎藤隆夫を国会に送り出す剛毅な但馬人気質を述べています。
彼らは普通選挙法案の賛成演説に、2・26事件後の粛軍演説に感動して斎藤の政治活動を支
援する但馬の斎藤宗に加わった若者たちです。
但馬の人々
斎藤隆夫は良くも悪くも全く地元に利益をもたらさなかった政治家でした。
その当時も今でも非常に珍しい代議士だと言われます。
選挙区からの、ただ一度だけの出石鉄道廃線の陳情の際も「わしゃ国会議員じゃからのう」と
あまりいい顔をしなかったといいます。
氏のおかげで出来たものは何一つないのに終生トップ当選させた但馬の人々は、国にとって真
に大切な国会議員を選ぶという誇りがあったのです。
磯田の言う「魂震える話」は、但馬のみんなに向けられた讃辞だったのです。
最近、斎藤隆夫を取り上げるこんな番組が、NHKや民放で続きます。
(斎藤記念館の資料や、斎藤を語る書籍を参考に書きました)
昨日に続いて、今日はとても暖かな良い天気でした。
こんないい天気の時はエアコン工事を済ませたいのですが、エアコン以外も用事があり過
ぎです。
何ヵ所からの注文をお受けしているパソコンの配達・設定に、息子は時間を取られます。
それ以外にも、洗濯機やテレビの配達も迫ります。細かい用事も溢れます。
約束の予定を組み込んだとおりに、捌かなければなりません。
昨日のエアコン2台工事と、明日からの3連日のエアコン工事の谷間の今日、溜まった用事
を済ませます。
ものすごくポカポカ陽気です。
リ~ン「20年近く経ってる冷蔵庫がこわれたわ~。今度は背の低い冷蔵庫にするから相談
に来て~」とUさんちの奥さんから電話です。
『はい、三菱の330㍑のこの冷蔵庫にしましょ。背も167cmで上の段の一番奥まで奥
さん届きますよ』と特選品カタログに丸して相談します。
「電気屋さん。うちの主人この夏に畑で熱中症で倒れたんよ。今ヤケドの治療で入院なの」
と話します。
『えらいことですね。あれだけ防災無線で言ってたのに。用心深いご主人が畑でですか」と、
まるで真夏時のような会話です。
「Uさんのご主人えらい酷いことだったんだね。心配するね」、「ご注文ありがたいことな
んだけれど、エアコン工事のすき間にこれ以上用事を詰めたら、こっちの体が無理になりそ
うだわ。ありがたいことなんだけれど」と息子は心配いたします。
ふるさとの話㊵4月号
3年前の「ふるさとの話」に松岡のばば焼きのことを書きました。
今月は、お妃さまの生んだ赤児の運命、雅成親王のその後について、但馬の里に言い伝え
られた話を書いてみます。
クイズのヒントも隠れています。
ばば焼
四月十四日の夕刻には松岡の河川敷で、御柱祭り(おとうまつり)という「ばば焼き」の
火祭りがあります。
雅成親王に会うため但馬の地にやって来た身重のお妃さまが、王子を生み残して円山川に
身を投げられた話です。ウソを言った老婆を懲らしめるために、松の木(おとうまつ)に
火をつけお祭りする行事です。
若宮さん
お妃さまはりっぱな長い髪のお方でしたから、身投げなさった時、その黒髪が川いっぱい
に広がり一里(約4キロ)の川下まで続きました。
また、悔しさでじだんだを踏まれた足跡が今も川岸の岩に残っています。
松岡の十二所神社は、お妃の幸姫(萩の局)にちなんで「若宮神社」とも呼ばれていまし
た。
髪がとても美しかった幸姫にあやかって、女性が病気をすると髪を切り、神前にお供えし
て願をかけるため近隣から多くの人がやって来ました。
若上臈(わかじょうろう)稲荷
幸姫さまの櫛が豊岡市の光行寺横の川岸に流れ着きました。櫛は御神体として幸の神とし
て祀られています。
さらに、城崎小学校の裏山には「若上臈稲荷」と言う祠(ほこら)が祀られています。
上臈(じょうろう)とは、身分の高い女の人のことで、城崎の川岸に流れ着いた身分の高
い上臈の遺体が、松岡で入水したお妃と云う話です。
上郷の山崎三郎右衛門
上郷の百姓山崎三郎右衛門には子供がいません。
大岡寺の薬師仏に願をかけて祈っていると霊感に接します。急ぎ、大岡山より帰路の途中
赤児の泣き声を聞きます。
松岡の河原の石の上に寝かされている、高貴な産衣をまとい守袋を携えた赤児です。
薬師仏からの授かりものと大事に育てます。お妃の王子です。
一時、高屋の本井氏に養育され、後に光妙寺の円空について得度出家し浄円というお坊さ
んになりました。
光妙寺は大岡寺の末寺で、後に豊岡市内に移り浄円が一世となって光行寺と改号します。
光行寺の苗字は「若宮」と伝えられています。
(もう一つの説は、高屋に配流になった雅成親王と本井奥家の娘との間に生まれた若宮と
も伝えられています)
高屋での雅成親王
日和山の沖見の松のたもとで、遠く海の先隠岐の島へ流された御父・後鳥羽上皇を偲ばれ
たと言われます。
また、妙見山の名草神社には御鳥羽上皇から拝領された雅成親王愛用の刀が社宝として残
されています。
雅成親王が大岡寺の薬師
仏に瘡痂(かさぶた)を治してもらった逸話。八代のカサノフタ峠もとても有名なお話で
す。
雅成親王は高屋の地に流され約三十年、時には京の都に帰ることもあったようですが、天
皇の座の噂も立ち直ぐに高屋に戻されます。
親王は灰色の日々を送られ、五十七歳で生涯を終えられました。現在の高屋に、黒木御所
跡と墓所(写真)が残っています。
最後に、和歌に通じていた雅成親王の、但馬配流後の御歌ニ首です。
あしひきの山の白雪きえぬらし
てる日にまさる谷川の水
うちきらし雪は降りきぬたかまとの
山の桜に風や吹くらむ
(国府ものがたり、但馬歴史を参考に書きました)
松下幸之助の書「実践経営哲学」を読みました。
「知ってもらう」と題した一文を読みました。
【・・・・・・「真実をありのままに知ってもらうということが、長い目で見ていちばん大切なこ
とである。そのように世間は正しいと考え、その正しい世間に受け入れられるように仕事
をしていくことを心がけていくところに、事業発展の道があるのである」】
と書いてありました。
世間の目はあざむけないと説いています。
今日はとても嬉しいことがありました。
お客さまからお褒めの言葉をいただきました。きっと心が通じたのでしょう。
明日もまた同じようなお褒めの言葉があるかもしれません。
真実の姿を知ってもらうことほど大切なことはありません。
ありがたいことです。
感謝の気持ちがあふれます。
ふるさとの話㊴3月号
豊岡・豊田町で見かけました。壁の「元禄十五年・豊岡城下絵図」(左の写真)です。
城下の町並みに沿って、安楽寺から小田井に向かって円山川が描かれています。向う岸は
立野村です。
今月は円山川の昔の姿と、河川改修の歴史をたどってみます。
クイズのヒントも隠れています。
アメノヒボコ
円山大橋から下流を眺めると、両岸の堤防がまっすぐとした立派な大川です。
豊岡城下絵図に描かれた円山川は、昔どんな流れだったのでしょうか?。どんな改修工事
で今の姿になったのでしょうか?。
現在の姿からは想像できませんが、昔の円山川の流れを調べてみました。
6千年くらい前、氷河がとけた海水で豊岡盆地は入り江でした。
出石、国府まで細長く伸びた、古豊岡湾でした。さらに、周囲から流れ込んだ土砂が湾に
積り、泥の沼となり黄沼前海(きぬさきのうみ)と呼ばれていました。
2千年ほど昔、アメノヒボコが「瀬戸と津居山の間にある岩山を切り開こう」と国づくり
の工事をします。
泥水が引いた豊岡盆地に、円山川や出石川が流れるようになりました。
納屋の船着き場
中郷あたりから河口までの勾配は極めてゆるやかで、そのため川の流れはもの凄い形に蛇
行します。
江戸時代の円山川は、西芝から納屋の近くに蛇行して進みます。
このころ、湯嶋(城崎温泉)へ行き来する川舟の船着き場がありました。船や荷をしまう
建物があったことから、納屋という地名になったと言われます。
八代川を合流し、大きくカーブして東に進み、伏・今森に流れ込みます。
そこで西にカーブを描いて出石川を合流しながら、九日市へ向かいます(写真の点線。下
の写真に流れの痕跡)。
円山川と出石川に挟まれていたので、八社宮(はさみ)の地名になりました。
大磯の大曲
出石川もグニャグニャと蛇行して流れ、流域は絶えず洪水に悩まされる歴史です。
清冷寺周辺には、出石藩が大保恵(おおぼえ)堤防を築き洪水に備えました。
八社宮から九日市に向かった円山川は、現在の八条ポンプ場あたりから京口橋まで北上し、
そこから東に折れて大磯神社の東の先で大きく蛇行します。
大磯の大曲(おおぞのおおまがり)と言われました(上左写真の点線)。
蛇行した流れは、豊岡市体育館の敷地あたりを通り、安楽寺から北に進んで、豊岡城下の町
並みを小田井の方に流れました。
現在は廃川になっている市民会館あたりは、道路の部分も水面で、向う岸の立野まで広がる
大川でした。
六地蔵と堀川
さらに、小田井より下流には、半島のように突き出た六地蔵地区がありました。六方川も合
流し洪水の難所です。
慶長年間に、豊岡藩が半島の付け根を切り開き、そこを掘り下げて水路にしました。堀川の
名の由来です。
円山川改修工事
今森や大磯の大蛇行や、島になっていた六地蔵を取り除いて真っすぐに新しい川を造る工事
が、大正九年から始まります。
新田村、立野村、三江村をつらぬく大きな新川です。現在の円山川の姿に生まれ変わりまし
た。
大昔は沼地であり大洪水に悩まされてきた出石川、円山川は、立派な大川に生まれ変わった
のです。
(円山川の歴史や改修工事の記録資料を参考に書きました)
私たちチェーンの「経営の神髄」を調べていまして気付きます。
石田梅岩が言うところの「聖人の道は一理渾然(いちりこんぜん)」の一理渾然と通ずる
ところがありますね。
「一理渾然」とは梅岩が講義に使った言葉で、論語から転用して「聖人の心には一つの道
理があまねくゆきわたっている」ということです。
私たちチェーンの経営思想には、一つの道理があまねくゆきわたっているを感じます。
朱子がおこした論語集註には「聖人之心、渾然一理(こんぜんいちり)」という件がでてい
ます。
梅岩は渾然と一理を入れ替えて一理渾然と講義をしているのです。
出典となった論語里仁第四の十五には、
「子曰、参乎、吾道一以貫之。曾子曰、唯。子出。門人問曰、何謂也。曾子曰、夫子之道、
忠恕而已矣。」とでてまいります。
吾道一以貫之(吾が道は一に以って之を貫く:わたしの生き方には、ただ一つのものが貫
いている)からきています。
夫子之道、忠恕而已矣(先生の道は、忠恕そのものです)と、曾子は問うた門人に答えて
いるのです。
忠恕(ちゅうじょ)とは、自らに誠実・正直にして、他人には誠実・配慮に思いやるさま
のことです。
私たちの経営の神髄は、一理渾然を貫く心で進められています。
ふるさとの話㊳2月号
ウオークラリーで立ち寄った、土居の長見寺で見た石碑からのクイズです。
「土居出身の上田広甫(うえだこうほ)は、華道未生流何代目家元だったでしょうか?」。
今月は、現在も続く華道未生流(みしょうりゅう)の基礎を作った上田広甫のお話です。
クイズのヒントも隠れています。
土居にやって来た一甫
今から二百十三年前のことです。
文化二年(1805)のある日、但馬国土居村の大庄屋・上田九左衛門の家を訪ねてきた
人物がいました。
挿花の修行で江戸より山陽、九州、山陰を遍歴放浪していた田沼某という浪士です。
九左衛門はこころよく迎え入れ、挿花を田沼某から学びます。
上田家に逗留することニ年の間、近隣の者に挿花を教えたり、三方村芝の谷岡喜助宅にも
出張教授をします。
この田沼某こそ、未生流の流祖・未生斎一甫(いっぽ)宗匠だったのです。
九左衛門の家には、牛飼いの仕事をしている遠縁の若者がいました。
同じ土居村の屋号鍋屋九助の長男安蔵(安太郎)です。
九助の家は非常に貧しかったため、安蔵は幼くして九左衛門の家に牧童として雇われてい
ました。
田沼某が上田家にやって来たのは、安蔵十四才の時です。
安蔵、花法の才能
安蔵は仕事の暇を盗んで、宗匠について挿花を習得します。
安蔵は天才的な草花、木枝へのセンスが備わっていました。
すでに雅号を無角斎道甫と名乗っていた九左衛門に命じられて、花材料を山から採って来る
ように言われた安蔵は、沢山な花材、木枝が全部花法にかなった、一つとして無駄枝が無い
採集をしてきます。
宗匠は安蔵の才能を見抜き、材料の採集は安蔵の受け持ちとなり、さらに正式に花の稽古も
上田の主人同様許されます。
田沼某(流祖・未生斎一甫)が土居村を去る際、宗匠には後継者が無かったので「安蔵を養
子にしたい」と頼みます。
駄目だと断る実父九助を説き伏せ、長見寺住職や九左衛門の仲立ちで、修行の門弟として預
かるということで、安蔵を伴って大阪に同行します。
出立に当たって「九左衛門は安蔵の精進を心より祈り、安蔵は天地神明に誓って九左衛門の
その恩に報いん」と誓ったそうです。
その安蔵こそ、未生斎一甫の後継者として華道未生流の基礎を築いた、二代目上田未生斎広
甫(こうほ)なのです。
未生流の発展
田沼某は、浪華(大阪)の斎藤町に居を構えて未生流家元の門標を掲げ、未生斎一甫を名乗
ります。
安蔵は宗匠について大阪に出ると益々挿花の術を探求して一家流をなすとともに、神教、儒
教、仏教の神儒仏三道を勉学し、さらに天文易学、和歌俳諧を好み、花道に関する著述を多
く残します。
安蔵はその後、初代の名号を継いで未生斎広甫と名乗り、大阪淡路町で多くの門弟にその術
を教えます。
やがて、広甫は挿花の大家として名をなし、故郷土居村の上田九佐衛門に請うて、上田姓を
名乗り上田正行と称します。
文政年間、光格天皇の御代に京都嵯峨御所の花務職として仕官し、法眼の称号を許され、新
たに上田周防法眼と称します。
未生斎広甫は生涯、挿花の術を研究精進して、天地人の理(ことわり)を探求し未生の一流
を世間に広め、未生流の布教については歴代の中でも功績最も顕著であったと伝えられてい
ます。
長見寺境内に建つ石碑には、「第ニ代未生斎 上田廣甫法眼碑」と記されています。
そんな素晴らしい国府出身の二代家元、上田広甫を慕って、今も華道の関係者が多く訪れて
いるのです。
(国府村史人物編や、長見寺碑文と但馬辞典を参考に書きました)
『はい、今月のアトムのうまいもの市は高級ハムの詰め合わせです』とOさんへ手渡しま
す。
「わ~、こんなんしてもらってわるいわ~。アトムさんて気前ええね~」と言って、満面
笑顔で受け取られます。
続けて、「アトムさん、今日のガラポン抽選会でどん兵衛が当たったんよ。どん兵衛大箱
大当たりなんよ」とこれまた嬉しそうに笑顔です。
次のSさんちでは「まあ~、カニよりよかった。高級ハムありがとう」と受け取りながら
「当たったんよ当たりました。どん兵衛大箱に缶ビール半ダースでした。今回のガラポン
は大当たりだったわ」と嬉しそうに報告です。
行くとこ行くとこ、どこのお家も大喜びです。
歳末大売り出しのガラポン抽選会へは、50世帯ほどのお家に券を渡します。
券を渡すお家は、だいたいアトムのうまいもの市か店からのお買い上げ記念品が付いてます。
そうです。ダブルで感謝の品を届けるようなものなのです。
どちらもウン万円と予算を使います。使い過ぎぐらいの感謝の気持ちです。
これだけ使えば大喜びは当たり前です。ちょっとやり過ぎの感じです。
ふっと振り返って考えてみますと、当店本当に商品良く売れますが、使う感謝の気持ちも
も半端じゃありません。
ちょっと考え直さにゃきゃ~ならないところに来ています。
ふるさとの話㊲1月号
明けましておめでとうございます。
今月のふるさとの話は、日高に伝わる民話です。金の茶釜を探しているうちに、村が火
事になったというお話しです。
クイズのヒントも隠れています。
阿瀬金山の古峠
むかしむかし、三方村阿瀬金山の山奥に古峠という所があり、そこに大きな池があった。
その池の周りにはカキツバタがたくさん植えられており、毎年時期になるとたいへんき
れいな花が咲き乱れていた。
その頃、峠の麓に小さな村があり、その村の百姓の人たちが四、五人連なって池のふち
を通って、この古峠に牛のえさの草を刈りに通っていた。
金の茶釜
ある日のこと、その池の向かいで、年の頃は十七、八、髪はカラスのぬれば色、色は白
くて目パッチリおちょぼ口と、たいへん美しいお姫さんが、これまた立派な目も輝く金
の茶釜を、こしょこしょと洗っていた。
そこに草刈りの人たちが通りかかり、ふと立ち止まり「ありゃ、金の茶釜でねえか。お
姫さんも美しいがあの茶釜もたいへん立派なものでねえか。お前、もしどちらでも一つ
やるといったら、どちらを取る。俺なら金の茶釜を取るな。銭にしたら大した銭になる
だろうな」などとひそひそ話をしていた。
ところが、そのひそひそ話が聞こえたのか、お姫さんはビックリしたのか、その金の茶
釜をば~んと池にほうり投げて、走り去るようにどこかへ姿を消してしまった。
村中総出で
さあ大変、草刈の人達は急いで村に帰り、そのことを村人たちにふれ回った。
そこでお姫さんにはたいへん悪いけれど、池の水をかい出して金の茶釜を拾おうではな
いかと相談がまとまり、あくる朝、早くからお父お母はもちろん、子供、じいばあ等村
中総出で木桶などを持って池に登ってきた。
さっそく水をかい出しにかかった。
夕方近くになると、池の水もだんだん少なくなって、もう一息という所になった時、一
人の男がふとわが村の方を見たところ、村の方からモクモクと煙が上がっている。
「ありゃ、村が火事でね~か」と叫んだ。
みんな村の方を見て「そうだ、うちの村が火事だ」と叫び一目散にわが村に帰った。
村が火事だ~
ところが、村はどうにもなっていない。「何だ。ウソだったのか。池の水はもう少しだ。
ようし、もう一がんばりだ。金の茶釜はすぐに出てくるぞ。もう一日がんばろう」といい、
またあくる朝、池に登ってきた。
また一生懸命水をかい出しにかかった。
今日は昨日の仕事も重なって疲れが出て一服をしていた。一人の男がふと村の方を見ると、
今度は煙どころか火の手が上がっている。「今度は本当だ」と叫びながら、一目散に村に
帰ってきた。
家はどうにもなっていない。「まただまされたのか。ようし、あしたはどうしても金の茶
釜を拾ってやるぞ」といって、又三日目の朝池に登ってきた。
やはり池水はいっぱいになっていた。
竜ガ池
村の人達は、「ようし、今日はわが村の方を振りむくな。一生懸命水をかい出せ。」とい
いながら、どんどん水をかい出した。
夕方近くになって池の水もだんだんと減り、もう一息という所になってきた。
すると一天我にかき曇り、ものすごい稲光と共に大粒の雨が降り出し、みるみるうちに池
の水は一杯になり、その池の中から大きな竜が、あの金の茶釜を口にくわえて天高く舞い
上がり、姿を消してしまった。
村の人達は唖然とするばかり。びしょ濡れになってとぼとぼと村に帰ってきた。
村の家は一軒もなく、焼け野原となっていた。
その後、その池を誰いうとなく、竜ケ池というようになったそうな。今でもカキツツバタが
少し残っている。
(日高老人クラブの民話集から拝借して書きました)
寒さがぐんと身に応える季節になりました。
雨も毎日のように降り続きます。
今朝は真っ暗な闇間に土砂降りです。
さすが、朝のウオーキングもドアを開けて足を出す気が失せました。
こんな毎日では、エアコン工事の進捗に焦りが出ます。
明日こそは少々の雨でも敢行します。
土曜日指定の工事です。
テントを張ってでも、合羽を着てでも、どんなことをしてでもやらねばなりません。
ふるさと但馬のこの季節、実に天気がすぐれませんね。
ふるさとの話㊱十二月号
明治18年(1885)8月14日、日本特許第1号が堀田瑞松(ほったずいしょう)
に与えられました。
それを記念して8月14日は「専売特許の日」と呼ばれています。
今月は、豊岡市城南町出身の発明家であり彫刻界の大家でもあった堀田瑞松のお話です。
クイズのヒントも隠れています。
安楽寺の生家跡
「本誌は、往古より大正六年に至る豊岡町の事蹟を記述する」と書いた本を図書館で探
しました。
その中に「堀田瑞松(ほったずいしょう)の生家は昭和三十年春取り払われ、安楽寺門
前の小苑となっている」と記されていました。
いろいろ調べるため、城南町の安楽寺を訪ねます。
奥さんの案内で「この辺りだったそうよ。堀田さんちの建物(写真)があったのは」と、
山門すぐの境内を教えてもらいます。
「なんでも鑑定団に見てもらったら、すごい宝物だと言われるわ。堀田瑞松の作品が」と
言われます。
寺の宝物殿に保管されている、瑞松作の彫刻が施された茶合(茶道の道具)を見せてもら
います。瑞松にまつわる、貴重な本と写真集も見ました。
明治の彫刻師として第一人者であり、日本の特許第1号としてとても有名な、発明家・堀
田瑞松の生家があった安楽寺での取材でした。
塗師の家に生まれる
堀田瑞松は、天保8年(1837)に現在の豊岡市城南町で生まれています。名は貞、幼
名は菊太郎です。
初めは寸松と号していましたが、献上した紫檀の作品に叡感された孝明天皇が、「瑞」の
一字を使うようにと仰せられ、号を寸松改め瑞松を名乗ります。
堀田家は、代々豊岡に在って刀の鞘(さや)の塗師(ぬりし)を業として、傍ら小細工に
も及び、菊太郎は父と一緒に家業に就いていました。
安政5年、父の死後二十二才の時単身京都に出ます。
京でも父祖の業の塗師も営みながら、感ずる所あって彫刻及び唐木細工の技を磨きます。
また、高名な先生にについて儒学、書道、南画を学びます。
堀田菊太郎は独自の技法で、鉄刀を以て自在に書画を彫刻する術を創始します。
鉄筆一刀彫の名手となるのです。
水晶玉の台座
号を寸松と名乗る彼の彫刻・鉄筆の妙技は、遂に天聴に達し、慶応元年、天皇より水晶宝珠
壇坐(水晶玉の台座)彫刻の命を拝受します。
鴨川洪水の波涛の飛沫(しぶき)を台座に見事に表現する彫刻は、孝明天皇に絶賛されるこ
とになり、瑞松の号を賜り、帯刀を許され、皇室への出入もいたします。
明治維新の後も、芸術家としての瑞松の名声はますます高まり、彫刻界の大家としてその地
位は確立し、明治天皇の御用具類にも瑞松の作品は多くありました。
孝明天皇に献上した紫檀の台座作成のエピソードは、文部省教科書・高等小学読本に偉人伝
として掲載されるほどです。
発明家として
芸術家の域を超え、発明家としての才能も大いに発揮し、「漆器蠟塗蒔絵」という漆蒔絵を
発明して輸出に貢献します。
やがて東京に移り住み、塗料の開発に没頭します。
それまでの塗料では、船舶に錆止めと共に半年に一度、付着した貝殻や海藻の取り除きが必
要でした。
幼い時から塗師として慣れ親しんだ漆(うるし)に着目し、漆を主成分とし、生姜(しょう
が)や柿渋等も混合した塗料を開発します。
やがて防鉄錆、防貝藻に優れた堀田錆止塗料を発明するのです。
時は明治十八年(1885)の4月18日に「専売特許条例」が公布されます。
ちょうど完成した漆の塗料を、7月1日に出願します(茶の製法その他、七件の申請があっ
た)。
8月14日付けで特許第1号として付与されたのが、「堀田錆止塗料及び其の塗法」です。
その後、渡米して3年間の研究、米国特許も取得するという、70歳を超えての活躍でした。
明治の彫刻工芸の第一人者、それに我国専売特許第1号という栄誉に輝く堀田瑞松。
そんなとても有名な人物が、豊岡の生まれだったのです。
(但馬事典や安楽寺での取材を参考に書きました)
お客さまへトースターを配達します。
ガラポン抽選券の封筒詰めを、一心不乱で手伝っていたケンちゃんも一緒です。
学級はインフルで閉鎖です。
今日から外出OKとなったケンちゃんも車で一緒です。
車の中で待っているケンちゃんに向かって、
「今日は配達ありがとう。可愛いわね~。ケンちゃんはいつもお手伝いするだってね。
感心感心」と、Tさんちの奥さんは褒めて見送りしてくれますね。
帰り道、駅前の小さな商店に立ち寄ります。
手伝いの駄賃に駄菓子のご褒美です。
「ケンちゃんケンちゃん。ケンちゃんの食べられるのってきなこ棒かな」、
「どれでも一個10円だよ。今日の駄賃は20円分ですか。だったら、おばちゃんもケン
ちゃんに、ご褒美のおまけあげちゃおうかな」と、
人気者のケンちゃんには、おまけを三つもくれますね。
ふるさとの話㉟売り出し号
キツネに化かされた。タヌキに化かされたって話、昔からありますね。
今月は、民話として日高町に伝わる、キツネの話です。
クイズのヒントも隠れています。
道に迷った話
山の中に、キツネやタヌキ狩りに出かけた猟師の玄さんは、ひと仕事を終えて一軒家のわ
が家めがけて、夜道を急ぎます。
吹雪の中、途中道に迷ったのか、行けども行けどもたどり着きません。
右折しても家が見えません。
おかしいなと、もう一度右折しても見えません。ぐるぐるぐるぐる歩き続けます。
「あんたどうしたん。さっきから家のまわりをぐるぐるどうしたの。こんな晴れて暖った
かいのに、寒そうにしてどうしたん」と、玄関で待っていた奥さんが声をかけます。
キツネに化かされていたのです。
温泉に入った話
「ああいい湯だ、こんな帰りの道ばたに温泉があるなんて」と、玄さんはいい気分です。
「もしもし、そこのお方。桑畑のそばの肥溜(こえだめ)でどうしたんですか」と、通り
すがりの巡査さんに注意されます。
キツネに化かされて肥溜に入ってしまった玄さんでした。
牛の尻をのぞく話
「どうしたんですか昼間っぱらから。何をそんな牛のお尻をのぞいて、ニヤニヤしてるん
ですか」と、またまた巡査さんに注意です。
「いや~、戸の隙間から灯りが見えたの。そっとのぞくと若い女の子が」と、玄さんは頭
をかきます。
牛小屋の前で、玄さんはキツネに化かされたのです。
全国には、キツネに化かされたこんな話が尽きません。
次の話は、ふるさとの奈佐路と羽尻に伝わる民話です。
奈佐路の上下さんとキツネ
昔、但馬から京の都に荷物を運ぶ人を、上下(じょうげ)さんといいました。
七美(ひつみ)上下さんが頼まれた荷物をかついで、奈佐路の大谷越を越えて藤井の大目
の池の処にやってくると、キツネが岩の上で昼寝をしていました。
びっくりさせてやろうと、杖でコツンと岩の上をたたくと、キツネは驚いて池の中にドボ
ンと落ちてしまいました。
上下さんは荷物を都の荷主さんに届け、今度は都から預かった返り荷をかついで、出石か
ら高生の長い田んぼ道をテクテクと帰って来ると、にわかに日が暮れて暗くなってしまい
ます。
灯りが見えるので、その家に泊めてくれと頼むと、取り込みがあるがよかったらどうぞと
いうことで、無理に泊めてもらいました。
後ずさりすると
夕食をすませ、いろりの火にあたって火の明かりで見ると、人が一人、着物をかぶせて寝
ています。
どうも死人のようだ。主人は「明日のことで用事がありますので」と言って、外に出て行
ってしまいます。
気味が悪いと思っていると、死んでいる人がピクリと上下さんの方へ動いて近づいて来た。
上下さんは後ずさりします。
すると、またピクリと動いた。上下さんはまた後ずさりしながら、板の間からポンと土間
に飛び下りてしまいます。
そこは池の中、ドボンと落ちてしまったのです。
気がつくと大目の池の中だった。空には太陽がキラキラと輝いている。
上下さんはキツネに化かされ、見事に先の仕返しをされたのでした。
羽尻・丈山のお松狐伝説
昔、あしん谷とかまん谷にお松狐という、いたずら好きの狐が住んでいて、よく村人を化
かしていたそうな。
ある若者がこの狐に化かされ、狐つきになったそうな。
若者は四つんばいになり、ぴょ~んと飛び回るようになってしまったそうな。
村人は相談して狐狩りをした。
「あ~しんだ~にのき~つねも~。か~まんだ~にのき~つねも~。さ~たのおみやにぼ~
いこめ」ド~ン、ジャラ~ンと鳴り物入りで狐狩りをした。
しかし、たいして効き目がなかった。
そこで徳兵衛さんと勘助さんが、丈山にお地蔵さんをたてて頼んだところ、狐は悪さをし
なくなったそうな。めでたしめでたし。
(日高老人会の民話集から拝借しました)
リ~ン「ダイニングキッチンに付いてるエアコン、買い替えようと思います。相談に来て
ちょうだい」とYさんから電話です。
リ~ン「13年にもなります。リビングの液晶テレビが突然映らないの。ダメなら買い替え
ようと思います。見に来てちょうだい」とOさんから電話です。
日高商店会のガラポン抽選券の準備に忙しい時に、次々とご用の電話がありますね。
インフルエンザで店に出られない息子に代わって、バタバタ、バタバタ走ります。
夕刻のことです。
修理の件で来店のメーカーサービスマンと懇談します。
「息子さんインフルでお休みだそう。大変ですね」、
『そうなんです。エアコン工事、この雨模様で出来ないでしょう。溜まってるのですよ依頼
されてる工事が。日暮れの早い雨模様の毎日、焦ります。注文はありがたいですが』と話し
ます。
サービスマンも「いや~、冬は大変ですよ。頼まれたエアコンの修理だって、吹雪の中です
ることだってあるのですよ。但馬の12月は暗くて寒くて雨がよく降って嫌ですね」、
「それにしても、このお店はエアコン工事多いのですね。それにテレビもよく出るそうで。
息子さんのインフルエンザ早く良くなって下さいよ」と励ましの言葉を受けますね。
一人で店の留守番、商談、配達、片付け大変でした。息子の回復祈ります。
ふるさとの話㉞十一月号
浅間トンネルを出石に抜けたところに、勤皇の志士・多田弥太郎の碑が立っています。
今月は、土佐の坂本竜馬にも似た激動の人生を駆け抜けた悲劇の主人公、出石の多田弥太
郎のお話です。
クイズのヒントも隠れています。
養父の北垣国道(くにみち)
今年も出ました。但馬検定によく出てくる人物です。
養父市能座出身の北垣国道(くにみち)と、朝来市佐中出身の原六郎です。
京都府知事として、琵琶湖疏水を完成させた北垣国道も、明治の経済界に君臨した実業家
の原六郎も、但馬が生んだ出世頭としてとても有名です。
北垣晋太郎から北垣国道に、進藤俊三郎から原六郎に、二人とも改名しています。
改名は生野義挙におおいに関係しているのです。
但馬検定には出てこない出石藩出身の多田弥太郎は、吉田松陰の如き海防を説き、坂本竜
馬の如き勤皇の志士として諸藩を駆け巡った人物です。
生野義挙に関わったあと浅間峠での隕命の姿は、斬首の松陰や竜馬の最期以上に痛ましいも
のでした。
出石の多田弥太郎
多田弥太郎は、文政九年(1826)に出石藩城下柳町に生まれています。
弥太郎は幼少の頃より天才の兆し強く、藩校弘道館に学んだあと大阪に出て、藤沢東畡(と
うがい)、古賀侗庵(どうあん)に就いて朱子学を学びます。
さらに、幕府昌平黌(東京大学)で学を深めます。
主命により帰藩して、若干二十二才で弘道館教授となるのです。
このころ黒船が浦賀に姿を見せ、世情は騒然とします。
弥太郎は海防を志すようになり、長崎に出向き西洋砲術を学びます。
帰藩し、嘉永二年(1849)のころ、出石城外室の台で藩主久利の御前で洋式大砲(木製)
を試射し、近隣諸藩の有志に名声を博して名を轟かせています。
幽閉九年の間に
弥太郎には萩藩の松陰とよく似た状況が身に降りかかります。
嘉永七年のころ、出石藩で藩政や兵制の問題が勃発し、単身江戸に糾弾の上書を出すのです。
捕えられて出石に逆送され、牢獄に九年間幽閉されます。
その間に「国体一覧」、「海防難議」、「地球小識」、「闢蝦夷策」等を著し、水戸斉昭公
に国防の策を献じ、蝦夷を北海道と改名することや、屯田兵制度や蝦夷地開拓を提言して括
目され広く名が知れ渡ります。
九年後、再び弘道館に迎えられるものの、勤皇の志篤く倒幕への運動に突き進んで行くので
す。
生野義挙
文久三年(1863)十月、倒幕の生野義挙に同志高橋甲太郎らとともに参加するのです。
北垣晋太郎や進藤俊三郎も加わる筈でした。
豊岡藩や出石藩の鎮圧部隊によって、あっという間に敗れてしまいます。
北垣、進藤らは京都から駆けつける途中で鎮圧を聞き、長州方面に逃げ延びます。
その後改名して鳥取藩に隠れ、戊辰戦争を戦い、新政府になってから日の目を見て活躍する
のです。
浅間峠
多田弥太郎は敗れるに及び、後日を画して主将沢卿を説き伏せ、高橋甲太郎を従わせて長州
に落ち延びさせたのです。
挙兵の志士の多くは、山口村妙見山麓で自刃してしまいます。
弥太郎は逃れて京都に潜みます。
生野義挙参加者への探索厳しい中を、再び因幡や伯耆に倒幕の志士を募るため但馬の地に足
を踏み入れます。
密告により八鹿寄宮の宿で藩吏に捕らわれ、籠に乗せられ出石に護送されます。
途中、浅間峠頂上にさしかかった時、突然藩の兵士に襲われ斬殺されてしまうのです。
時に元治元年(1864)二月二十八日、三十九才の若さで明治維新への導火線となり散りま
した。
生き延びれば、明治の世に活躍したであろう多田弥太郎の死は、あまりにも悔やまれることで
した。
時移り、明治二十四年、明治政府は故人の忠烈の死を悼み、その功を嘉して特旨従四位を贈り、
靖国神社に合祀したのでした。
(多田弥太郎顕彰の碑文や、但馬事典を参考にして書きました)
壁には上に11月、下に12月と二ヵ月分のカレンダーを掛けてます。
二ヵ月分の予定が書き込めるから便利です。
おっと12月になってます。
上のカレンダーは一枚めくって12月にします。下のカレンダーはもうお終いです。
2020年の新しいカレンダーを掛けます。掛ける前に、ペラペラとめくって気付きます。
2月23日(日)天皇誕生日と、令和になって初めての天皇誕生日の祝日です。早速月曜
日は振替休日となってます。
7月24日(金)スポーツの日となってます。
体育の日がスポーツの日に名前が変わって、今年に限り東京オリンピックの開会式に合
わせて7月24日だって。
さらに、海の日も前日の7月23日(木)に今年だけは移動するんだって(本当は7月第3
月曜日で7月20日)。
さらにさらに、山の日は8月10日(月)に持ってきて、閉会式の翌日が祝日なのです。
(本当の山の日は8月11日)。オリンピックに合わせて、コロコロ勝手に変えてしまい
ます。
10月をめくっても、元々の体育の日はありません。
12月はもちろん、平成の天皇誕生日だった23日の祝日はありません。2月23日に令和の
天皇誕生日があるから当たり前です。
今年2019年は、退位の日、即位の日、即位礼正殿の儀の行われる日と、とにかく祝日の
多いい一年でした。
来年は、7月のオリンピックのころに祝日集める一年ですね。
ふるさとの話㉝十月号
日本の標準時は、東経135度の子午線と決められています。
その子午線は、ふるさと豊岡を通過しています。今月は子午線の話と、美しい絵柄のマン
ホールの紹介です。
クイズのヒントも隠れています。
日本標準時子午線
兵庫県は日本標準時の東経135度子午線が、県内を南から北へ串刺しのように走ってい
るところです。
子午線のちょうど真上に太陽が来た時を正午と決めています。
英国のグリニッジ天文台を経度0度とします。地球を東向き(右向き)に、15度づつタ
テ線を引いたものを東経と言います。
15度は時間にすると1時間、9本目の時差9時間の線が東経135度なのです。
東経135度の9本目の線から、さらに東に3本線を引きます。そこは太平洋上の東経180
度なのです。
英国から西向き(左向き)に、12本のタテ線を引いた西経180度とピタッと交わって、
日付変更線となるわけです。
東経135度、 大切な日本の標準時は、東経135度の子午線と決められました。
それは明治19年のことです。
日本は島国ですが、東西にとても広い国です。
西の端の与那国島が8本目の東経120度に近く、東の端の択捉島が10本目の東経150
度でした。
ちょうど日本の真ん中が、9本目の東経のタテ線である東経135度だったのです。
大切な標準時子午線がちょうど兵庫県を通ることになったのです。
但東町の子午線の塔
豊岡市但東町中山の、国道482号線沿いに東経135度の標識があります。
子午線観音像まで一緒に立っています。
子午線は、明石市の子午線天文台からずっとずっと北上しますと、夜久野町の国道9号線を
横切り、山を越えて、但東町の卵かけごはんで有名な「但熊」に至ります。
「但熊」のそばにももちろん、「子午線通過地点栗尾ふるさと135度」の看板があります。
そして、山をひと山北上しますと、但東町中山の子午線の塔に至ります。
この子午線塔には、「東経135度、北緯35度30分」とも表示しています。
地球の北半球に鉢巻きの線を引けば北緯です。そのキリのいい北緯35度が、ちょうど西脇
市にあるのです。
東経135度と北緯35度の交差する、日本の中心に当たることから「日本のへそ公園」が
あるのです。
そのへその次にキリのいい、北緯35度30分の地点が但東町の子午線塔なのです。
そんな但東町のウリは「子午線の通る町」としてアピールしています。
マンホールのデザイン
今月のふるさとの話のおまけの話題は、豊岡市のマンホールの紹介です。
豊岡市には、市章や町のマークを描いた地味なマンホールもあります。
でも、町によっては、町をアピールする図柄のマンホールがあります。
そのひとつが、子午線の通過する町をデザインした但東町のマンホールです。
日本地図と、東経135度北緯35度30分とデザインされています。
出石町のマンホールもきれいなデザインです。
出石の辰鼓楼と、町の花テッセンが描かれています。
城崎町のマンホールは、大谿川にかかる弓形橋といわれる太鼓橋と、桜の図柄です。
竹野町のマンホールは北前船が描かれています。
そして日高町のマンホールは、何種類かの図柄があります。
地味な町章だけのものと、神鍋高原のウサギと雪の結晶を描いたもの、十戸の滝と桜を描いたも
の、阿瀬渓谷のヤマメと紅葉を描いたもの等多彩です。
地面を見て歩くと面白いです。
(豊岡市の各地を訪ねて書きました)