落合順平 作品集

現代小説の部屋。

からっ風と、繭の郷の子守唄(44)

2013-08-01 12:22:16 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(44)
「カイコの話はさておいて、いよいよ、アメリカシロヒトリとの全面戦争」




 「さて、子供たちも学校へ到着をした頃だ。
 それではそろそろとお前さんの、アメヒト退治の準備と行こうか。
 わしのトラックに動噴装置は乗せてあるから、それはいいとして、問題は使う農薬だ。
 トレボン乳剤は人や動物に対して毒性が低いとされ、使いやすい殺虫剤だ。
 公園などで、薬剤の安全性がとくに求められる場所では、比較的よく使用されている殺虫剤だ。
 もちろん害虫に対しては優れた殺虫力を発揮する。
 緑果樹の大敵とされているアメリカシロヒトリにも、良く効くとされているが
 やはり、現実的には効果が薄いようだ」

 
 「人には安全で、虫には良く効くはずの殺虫剤が、効果を発揮しない?
 徳爺さん。それはまたどう言う意味ですか」



 「敵も免疫力をあげて、常に進化をするということだ。
 ゆえに農薬や殺虫剤は、より効果を求めるために強力化をして劇薬へと変わりゆく。
 有機リン系で危険とされるMEP(フェニトロチオン)がいまだに使われている根拠がここにある。
 殺虫剤の中で最も生産量が多いし、用途も広い。
 ただし毒性が高いために、使用を誤れば様々な中毒症状を起こす。
 実際に、ダニ退治のために家屋内に散布して重い中毒にかかった例や、
 水田に空中散布した際に、散布地周辺の住民たちが中毒症状にかかったという例などもある」


 「徳さん。専門的すぎて、俺にはよくわかりません。
 MEP(フェニトロチオン)とは、どんな農薬なのですか」



 「スミチオンのことじゃ。一般的言えば。
 こいつの一日あたりの摂取許容量は、体重1kgあたりで0.005mg。
 摂取した場合には、倦怠感や頭痛、吐き気、多量発汗、視力の減衰、縮瞳など
 有機リン剤に共通するいくつも中毒症状が出る。
 過去には千葉県で、フェニトロチオン複合剤の散布直後に水田に入った農夫が
 死亡した事例や、茨城県で住宅のダニ駆除にフェニトロチオン製剤を使用したところ
 一家全員に中毒症状が生じ、5歳の女児が死亡したという事例もある。
 可燃性(引火点157℃)で、燃焼により窒素酸化物やリン酸化物・硫黄酸化物を含む
 有毒ガスなども生じる。なんとも危険な農薬だ、こいつは」


 「ご老人。それでは散布する者も、
 まったくの命懸けという作業を意味しています!
 たかがアメヒトごときに、命をかけるつもりなどはありません。俺には」



 「おや。お前さんは京都から来た千尋ちゃんに、それほどまでに嫌われたいのか?
 大切な一ノ瀬をこれほどまで荒廃をさせてと、嘆いていた千尋ちゃんが愛おしくはないのか?
 お前も冷たい男のよぅ。・・・・そんなことだから、30を過ぎても未だに嫁が来んのだ」


 「ご老体。お言葉ですが、それは大きなお世話です。
 第一俺はまだ、その千尋とかいう女の子に行き合ってもいないし、素性も一切知りません。
 お袋に言われたからアメヒトを退治するだけで、嫁の話などもこの件には関係ないし、
 一切、関連がありません」



 「ほう、なるほどな。
 という事はお前はまだ、嫁に行ってしまったというとなり村の美和子とかいう女に、
 たっぷりと未練などを持ち続けているというわけか。
 ううむ、確かに世間ではよくあることだ。そういうことならば無理はあるまい。
 美人だが、千尋がお前さんへ入り込む余地などは、全く無いようだ・・・・
 そうか。この話はなかったと思って、残念だが、早めに諦めるしかなさそうだ」


 「徳さん。なにやら背後に、秘密めいた話などが含まれている気配が漂っています。
 どうやら俺の知らないところで、密談などが仕組まれているようですね。
 なにやら意図的なものさえ感じます。
 今朝のお袋の偶然を装った口ぶりといい、都合よく背後へ登場をした徳さんといい、
 悪意は感じませんが、作為的な匂いをプンプンと感じます・・・・」


 
 「そうか、そこまで読まれていたのでは、しかたあるまい。
 お袋さんの千佳と千尋はもう2年余りの付き合いで、お互いにもうすっかりの顔見知りだ。
 この間も、あの桑の大木の下で、なにやら仲良さそうに小一時間も話し込んでおった。
 時々、畑で採れた野菜なども、千尋には持たせて帰しているようだ。
 まるで昔からの、仲の良い親娘のような姿などにも見える。
 だからといって、この一件は別じゃ。
 どうせ手に余るから、その時はひとつよろしく塩梅をお願いしますと言われたが、
 別に、お前の見合いを手伝う意図などは、俺には無い。
 勘ぐっても無駄じゃ。もうこれ以上は口車に乗って白状をせんぞ。あっはっはぁ」


 
 (見合い話まで絡んでいる、桑の木のアメヒト退治だってぇ・・・・)
それにしてもトントン拍子に、ものの見事にうまく乗せられたもんだと康平が苦笑をしています。
だが、それとは別に現実問題としてのアメヒトの退治が、康平の目前に迫っています。
そろそろ腹をくくり、劇薬をつかっての害虫退治の覚悟をきめなければなりません。
『沈黙の春』で想定的に垣間見た、滴り落ちるほどの農薬の雨の様子が、思わず康平の背中へ
戦慄にも似た冷たい衝動を走らせ、思わずの身震いさえも起こします。



 「まずは、肌の露出部分を最小限におさえること。
 かならず長袖の上着を着用して、手首や首などにも隙間を作らないようにする。
 農薬用マスク、目を保護するためのメガネ、手袋は軍手の上にもう一枚ビニールの手袋、
 防水加工のある帽子と、長ぐつを着用すれば完璧だ。
 なお、最後に大きめのビニール合羽を着れば、長期戦にも耐えられるだろう。
 なにせ、滝のような農薬の散布になる。
 なにしろ敵は、頭上10mに生息をする数万匹を超えるアメリカシロヒトリだ。
 多勢に無勢。ちょっとした持久戦模様は必至であろう。
 なに。わしにも心当たりがあるから、すぐに援軍などの手配をしておこう。
 ゆえにお前は後のことは一切気にせずに、まずは先制攻撃で
 単独にてあの大木へ襲いかかるが良い。
 だが、くれぐれも言っておくが、まちがっても風下へ立つでないぞ。
 自ら消毒薬の餌食になっていたのでは、当初の目的はおろか、例の見合い話まで
 あっというまに、ご破算になりかねん。
 まずは、健闘を祈る。
 さぁ行くがいい。若き戦士よ、いざ戦場へ。いや・・・・
 害虫の退治だから、この場合は、洗浄が正解か、うわっはっはっは」



 気持ち良さそうに高笑いをする徳次郎を残して、
完全武装と化した康平が、200リットルの消毒薬を積載した軽トラックを発進させます。
首筋へ巻かれたタオルにはすでにびっしりと汗が吸い込まれ、顔面から次々と滴り落ちる汗は
気温の上昇と高まってくる緊張感のために、収まる気配などは一向にありません。