落合順平 作品集

現代小説の部屋。

からっ風と、繭の郷の子守唄(45)

2013-08-02 10:23:19 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(45)
「いまどきの消防団には、イスラエルから来たイチローもいる」





 装備を整え、徳次郎の軽トラックに乗って現場へ戻ってきた康平が
合羽のフード部分を外し、防水の帽子を脱ぎ、あらためて攻撃目標となる桑の大木を見上げます。
子供たちの通学時間はすでに過ぎ、静まり返った通学路へアメリカシロヒトリの
白い衣を全身にまとった一ノ瀬の巨木が、大きな影を黒々と落としています。


 動力噴霧機は、主に農薬を安全にかつ有効に散布するために使われる機械です。
使われる農薬も殺虫や殺菌、除草などの目的で使われるために、人に対して
無害なものとは言い切れません。
ほとんど害のないとされている農薬でも悪い条件が重なったりすると、中毒症状がでる
可能性などもあり、最新の注意のもとで作業を進めることが肝要です。



 「いいか。農薬の希釈倍率を、必ず厳守すること。
 ちゃんとした計量用具で測り、基準の範囲の倍率で水と混合をするんだぞ。
 今回のスミチオンの場合は、2000倍が基準となる。
 濃すぎれば他の植物に害を与えることになり、薄すぎれば虫に効かないことになる。
 段取りが肝心だから、しっかりと準備をして攻撃態勢へ入ること。
 援軍が到着するまでは、お前一人だからこころしてかかるように。いいな、康平」



 徳次郎老人の言葉を頭に中で再生させつつ、康平が動噴機の準備に取り掛かります。
荷台へ腰を下ろし道具ひとつひとつの点検を終えてから、タンクへ水を満たします。
決められた量の農薬の検量に、康平がこわごわとしながら取り掛かります。

 
 「おいおい。見るからに腰砕けだな、康平くん。
 試験管を使って理科の実験を始めるわけでもあるまいし、あまり怖がるな。
 第一、手荒に扱ったところで、爆発なんかを起こす代物じゃないぞ、農薬は。
 それにしても、見事に腰が引けているぜ・・・・怖いか、やっぱり。
 スミチオンと名前を聞いただけでも」



 いきなり康平の目の前に現れたのは、同級生の五六です。
くわえタバコのまま、スミチオンで満たされた容器を横取りすると、それを小脇に抱えます。



 「大木を相手に、この小型すぎる動力噴霧器で立ち向かおうなんて、
 小さな一匹のアリがおもちゃの水鉄砲を持って、巨大なアフリカ象へ立ち向かうようなものだ。
 最初から歯が立たない結果なんぞ、やる前から見えている。
 長老からの緊急電話が入ったから、一大事が勃発したかと緊張したが、
 話を聞いたら、康平のアメヒト退治を手伝ってやれという命令だ。

 長老といえば、大八車に手押しポンプを積んで、
 手当たり次第に火を消して回ったという、大昔の消防団の大隊長だ。
 地域消防団の世界においての、歴史上の大先輩ということになる。
 消防の世界において上司と先輩からの命令には、常に絶対服従的な権限がある。
 命令に逆らえば、火事場が大混乱を起こして収集がつかなくなるからな。
 すでに、ポンプ車と2000リットルの容量を積んだタンク車が、
 こちらへ向かって疾走中だ。
 康平。このあたりに、消火栓か防火水槽が設置されているはずだから、
 そいつを探し出して、新兵(新入の消防団員)どもを、誘導してやってくれ」



 それだけを伝えると五六は、スミチオンの容器をかかえたまま軽トラックから離れます。
すでに眼下には、簡易郵便局のT字路を曲がり、さらに、元気すぎるまでにタイヤを
きしませながら坂道を駆け上がろうとしている、1台目の真っ赤な消防車両の姿が見えます。



 消防団は『消防組織法』に基づいて、各市町村に設置をされている消防機関です。
したがって立場は、市町村における非常勤の特別職地方公務員扱いという事になります。
基本的には非常備の消防機関ですが、山岳地帯や離島の一部などの、常備となる
消防本部や消防署がない地域では、常備消防としての役割も担っています。
他の職業に就いている一般市民たちで団員は構成されていて、自治体からは装備および、
年間を通じて、僅な報酬が支給されます(報酬のまったくない団も実在します)
地域における消防団の活動と、その存続は、まったくのボランティア精神で
成り立っている、とさえ言われています。


 近年は女性団員が増加をする反面、男性団員が減る傾向が強くなってきました。
2007年の4月現在、消防団員の総数は89万人余で、消防団の数は全国で2474団を数えます。
消防団は、活動の根拠が自治体による条例で定められているために、自治体によって
活動内容等が異なる場合もあります。


 「防火栓か、防火水槽を探せってか。
 そういえば、子供の頃に見た覚えがあるが。どこだったかなぁ」



 坂道を駆け上がってくる消防車両へ合図の手を振りながら、五六が遠ざかっていきます。
消防団の制服と帽子を着用した同級生の逞しい背中姿を見送りながら、康平が
古い記憶を呼び起こしています。
たしかにどこかで見たはずで、赤茶色に錆びたまま路上にニョキと突き立っていた
古い消火栓の姿が、消防ホースが格納をされた小さな木の箱の様子とセットになって、
康平の脳裏へ懐かしく蘇ってきます。


 火災が発生をした場合、消防車両は消火栓か防火水槽から水をくみ上げ、
消防車両へ注水をしながら、水圧を調整しつつホースへ水を送り消火作業を行います。
防火水そうや消火栓が近い場合はいいのですが、離れている場合には
ホースを何本も連結をして給水を続けます。
長くなると途中へ仮設のポンプを置き、さらに加圧をしていく場合などもあります。
特に山間地や近くに河川や水利を持たない地域では、水道水の各家庭への普及とともに、
細かく設置がすすめられため、消火活動の重要な拠り所とされてきました。


 「あった」



 消火栓をようやく見つた康平が後方を振り返った瞬間、2台目の消防車両が
サイレンをけたたましく鳴らしながら、猛然と坂道を駆け上がってくる姿が目に入りました。
まるで火災現場へ急行するような、本番さながらの勢いで疾走をしてきます。


 「誰だ。サイレンまで鳴らして運転をしてくるのは。
 また新兵の、イスラエルのイチローか!
 あの野郎。訓練だからサイレンは鳴らさなくてもいいと、あれほど言っておいたのに。
 いざとなると舞い上がり過ぎるから、また失敗をやらかしてやがる。
 おい、部長。(消防団における役職名のこと。団長・部長・会計長が団における3役)
 伝達行動が徹底していないぞ。部下の失態は上司の失態だ。
 だが、まぁ、あいつの場合だけは例外か。
 日本語が通じる場合もあるし、まったく理解できない場合もある。
 なにしろ出身がイスラエルだから、日本語と田舎の伝統を理解するまでには、
 まだたっぷり時間がかかることだろう。
 朝鮮から農家へ嫁に来た女と、イスラエルからやって来た婿が消防団にはいるんだぜ。
 うちの分団もずいぶん国際色が豊かになってきたもんだぜ、まったく。
 康平よ。これが俗に言う、時代の流れというやつかな」


 サイレンを鳴らし続けたまま現場へ到着をした、2台目の消防車両の運転席へ、
当の部長が、凄まじい勢いですっ飛んでいきます。



 「お~い、部長。あまり真剣に説教をするな。
 いくら説明をしたところで、日本語の3分1すら理解ができない奴だ。
 怒ったところで、ろくろく意味が通じねぇよ。イスラエルから来たイチローには、な。!
 諦めろ、あきらめろ。あっはっは」





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