落合順平 作品集

現代小説の部屋。

からっ風と、繭の郷の子守唄(65) 

2013-08-24 10:03:03 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(65) 
「人が人を呼ぶ、そう語るのは島村の観光ガイドの老農家」



 養蚕で栄えてきた島村の歴史は、利根川の氾濫との長い闘いの歴史でもあります。
島村は、1385年(元中2年)に、開村されたという記録が残っています。
1661年(寛文1年)。利根川が村の東西を貫流したために、集落が南北に分断をされました。
利根川は、1680年における大洪水での被害をはじめ、村の記録に残っているだけでも
30数回におよぶ氾濫の歴史を、この地で繰り返してきました。
記憶に新しいところでは平成10年にも、利根川による洪水が発生をしています。


 こうしたなか、1800年(寛政12年)に栗原勘平衛と、他の12戸により、
蚕種製造を盛んにするという初めての記述が、島村の歴史の中へ登場をしています。
1822年。今日の島村の繁栄の基礎を築いたと言われる田島弥平が、この地で生まれています。
太平洋戦争が始まった1941年(昭和16年)。有志による『島村蚕種共同施設組合』が結成され、
県内外へ、活発に蚕種が販売されるようになります。
昭和を通じて幾多の繁栄を経験した後、1988年(昭和63年)に、島村蚕種組合が解散します。
島村の蚕種業はこの年で終わりを告げ、島村蚕種組合の跡地の約1haには、
住宅団地が造成されることに決まりました。


 「20数年前に島村の建物たちは、すでにその役割を終えていたのね。
 群馬県の蚕ばかりか日本中の養蚕業を長いあいだにわたって、縁の下から支えてきたんだもの。
 こころの底から『ご苦労さん』と、褒めてあげたいわねぇ・・・・」


 「最近は、そう言ってくれるお客さんがずいぶんと増えてきた。
 官営の富岡製糸場を中心に世界遺産へ登録をしょうという取り組みが
 活発化をしてきたので、その恩恵のおかげじゃろう。
 蚕種で栄えてきた島村も一度見ておきたいと、足を運んできてくれているようだ。
 ありがたいことだ。
 ところであんたかのう。京都から来たという美人の糸とりさんは」


 突然、千尋と康平の背後から、一人の老人が声をかけてきました。
驚いて振り返る康平の脇で、すっかりと恋人気分に浸っていた千尋が、悪戯を見つけられた
子供のように、あわてて康平の腕を離し、顔を真っ赤にしてうつむいてしまいます。



 「別に照れることもないだろう。
 男女が仲良くすることは美しいことじゃ。先ほど田島の奥さんから電話が入ってのう、
 暇が有るなら、これからそちらへ行く若いふたりを案内してやってくれと頼まれた。
 わしは見た通りの年寄りだ。暇ならば持て余すほどにたっぷりとあるわい。
 どれと思って出かけてはきたものの、わしの前を歩いているのはいちゃいちゃの新婚さんだけだ。
 あんた達だろうと思って後ろを着いてきたが、いつまで経ってもキリがなさそうなので、
 つい、わしの方から声をかけてしもうた」


 「もしかして、島村の観光ガイドをなさっているお方ですか?」


 「おう。悪いか。こんな年寄りが島村の観光ガイドなんぞをして。
 手に持っているこの道具は、むかし蚕種を入れるために実際に使っておった道具じゃ。
 あれこれと昔の建物の説明などもしてやるが、俺の話の大半は
 蚕種を作っていた頃の昔話が専門だ。
 わしの案内が必要か、必要でないのか、どちらかはっきりせい。
 熱々の新婚などを見ていると、わしが入る込む隙間もありゃせんわい」


 (いいえ、わたしたちはまだ・・・・)と言いかける千尋を康平が目で止めます。


 「光栄です。実際にこちらで蚕種を作っていた方から話を聞けるなんて、滅多にないことです。
 喜んでガイドをお願いします。教えてください、昔のことを色々と」

 「ほう。旦那の方が聞き分けが良いとみえる。
 じぁ、わしの屋敷へ案内をするから、その道々、ぼちぼちと話でもしていこう。
 悪かったのう。仲の良いところへ突然、邪魔などをして」



 老人から見えないところで、千尋がペロッと長い舌を出しています。
「こら。」と叱る康平へ、「うふっ」とまた、千尋が甘えたように腕をとり寄りかかってきます。
「私たち、今日は新婚旅行の途中です。うふふ」と千尋が言えば、


 「今時の新婚旅行なんぞと言うものは、スクータであちこち巡るのか。
 わしらの若いころは、汽車で、熱海へ新婚旅行に行くというのが大流行りをしおった。
 分からんもんだのう。今時の若い者たちのすることは。あっはっは。
 さて、やぐらが2つ乗っているが母屋が見えてきたであろう。それがわしの屋敷だ」



 案内をされたのは黒塗りの大きな門がそびえ、日本庭園が屋敷内に広がっている建物です。
手入れの行き届いた庭は、かつておおいに流行をした和風庭園風の造りそのもので、
池を中心にして築山がそびえ、三波石で知られる庭石などが随所に配置をされていて、
ところどこに石の灯篭までそびえています。


 「富と財力の象徴として、和風の庭を造ることは昭和という時代の流行でした。
 それにしても、実によく手入れが行き届いていますねぇ。
 たいしたものです。こういう管理の良い庭を見るのは、実に久々です」



 「ほう。その歳で庭がわかるとはたいしたもんじゃ。
 金にまかせて日本庭園などを作ってはみたものの、時とともに樹木は大きく育つし
 やたらとあちこちで、雑草なども生えてくる。
 毎日が草むしりと、木の手入れに追われる羽目になる。
 だがな、こうした繁栄をもたらしてくれたのは、実はわしの力ではなく親父の力だ。
 親父の蚕種の技術は、今でも誇れるものだったと堅く信じておる。
 それほどまでに確かな技術と誇りが、この島村の地には確かに息づいて定着をしておった」



 渋沢と名乗った観光ガイドの老人は、父親である栄吉氏の仕事を受け継ぎ、
稚蚕飼育専門で長年にわたって暮らしてきた、蚕種の農家です。
委託された蚕種を2眠まで育てる仕事をしてきました。
温度調節の管理や桑のやり方など、養蚕をする上で、もっとも難しいとされるのが稚蚕です。
蚕が眠りに入る時機をぴったりと合わせたうえに、蚕を丈夫に育てなければなりません。


  稚蚕の発育が悪ければ出荷した養蚕農家に、多大な影響を及ぼします。
それだけに、仕事は常に慎重にかつ丁寧に行わなければなりません。
稚蚕の仕事を始める前には家の中を全てきれいに磨き上げ、清潔な状態で作業にかかります。



 「うちの蚕でうまくいかなければ、1軒の養蚕農家を駄目にしちゃうこともある。
 夜も眠れないとはよく言ったもので、天候不順のときは夜中でも温度調節に忙しかった。
 自分が寝ていたせいで、蚕が起きてこなかったのでは後で困るからのう。
 最初のころは、蚕種800グラムから面倒をみはじめた。
 だんだんと拡大をしていき、最盛期には3000グラムまでを手掛けた。
 春蚕(はるご)、夏、初秋、晩秋、晩々秋と年に5回。
 島村地区では1番遅くまで、1970年代の半ばまでわしは稚蚕を続けてきた。
 仕事の師匠は、常に親父だった。
 あれこれ教わった訳ではなく、一緒に仕事をしているうちにだんだんと覚えたもんだ。
 分からないことを聞けば、必ず的確な答えが返ってきた。
 病気で体が弱ってからも、聞きに行くとうれしがって丁寧に教えてくれた。
 いろいろとアドバイスもしてくれた。雨が続いた時の桑のくれ方を聞いたら、
 『梅雨っ桑なんか怖がることはない。空気の流れをよくして、防寒紙は外してやれって。
 そうすれば、絶対大丈夫だって』。親父の言うことはいつも正しかった。
 怒鳴られたり、さんざんこき使われたりしたけど、難しい技術もいつの間にか身に付いた。
 これが、親の持っている『ありがたさ』というやつかな」


  親父さんは出荷した先の養蚕農家を見て回り、飼育上のアドバイスもしてきたと言います。
渋沢さん自身もその方法を同じように踏襲し、稚蚕農家の仲間と時機を見ては農家を回ってきました。


 「自分の蚕に最後まで責任を持つ姿を見せたから、農家からも信頼された。
 おやじは『欲をかいちゃ駄目だ。力の8割でやれ。1000グラムできても800グラムで止めろ』
 と常に言い続けてきた。
 言われたことを守ったからこそ、養蚕農家にもいい蚕を届けられんだと思う。
 おやじは、本当に蚕の仕事が好きだったんだ」

 と、懐かしそうに、ガイドの渋沢老人が目をほそめています。




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