からっ風と、繭の郷の子守唄(57)
「肥沃な大地をもたらした利根川と、島村の大型養蚕農家群」
記録にはっきりしている明治以降の繭の生産量は、長野県に次いで全国2位。
群馬県は昭和29年以降、一貫して全国1位の繭の生産量を誇っています。
また、生糸の生産量も全国1位です。平成18年現在で、全国の繭生産量の45%。
生糸生産量の50%を群馬県産が占めています。
日本の養蚕業は、江戸時代に諸藩が殖産事業として興隆を促進したことから
明治時代においてその隆盛期を迎えました。
良質の生糸を大量に輸出したことでもよく知られています。
明治時代における養蚕業と絹糸は、外貨獲得のための重要産業として重視をされ、
我が国における近代化(富国強兵政策)の礎を築きました。
日露戦争で使われた軍艦をはじめとする多くの近代兵器は、絹糸の輸出により獲得をした
外貨によって購入をされたといっても過言でありません。
良質な生糸の大量生産を可能としたのは、幕末期における
先人たちによる数々の画期的養蚕技術の確立と、それに付随する幾多の発明です。
当時の農家にとって養蚕は貴重な現金収入源であり、農家ではカイコのことを「お蚕様」と
接頭辞を付けて呼称したほど、大切にしてきました。
しかしどんなに大切に蚕を飼育しても、病気が発生すれば作柄は悪化をします。
せっかく掃き立てても桑が霜でやられると、蚕を捨てなければならない結果にもなります。
養蚕技術が未熟だった時代には、常に安定した繭の収量が期待できたわけではありません。
それゆえに人々は、ことあるごとに神に祈りを捧げてきました。
「オカイコ」に身上(しんしょう)かけて、農家が必死に取り組む仕事である以上、
願いにもまた、切実なものが多かったようです。
蚕室や神棚に貼られた数多くの養蚕守護の御札が、そうした願いぶりを象徴しています。
元日になると初絵売りが、縁起の良い絵柄を持って農家を回ります。
その中に必ずあったのが「絹笠明神初絵」という絵柄です。
これを買い神棚の下などに貼り付けておくと、その年は、必ず蚕が当たると信じられてきました。
また正月15日の『小正月』に飾られる『マユ玉飾り』も、その名称からも明らかなように、
カイコのマユを模したもので、豊蚕を願う行事のひとつと言われています。
県内のあちこちにある寺社の縁日には、境内で蚕具市が開かれてきました。
そこで買い求めた道具を使うとカイコが当たると言われ、また春蚕(年間を通じ最初に育てられる蚕)
の掃き立て前には、こうした寺社などから養蚕守護の御札が発行されました。
受けた御札は、必ず神棚や蚕室に貼っておきます。
水はけの良い中程度の山間地が多い上州が、全国でも有数の養蚕県となりえたのは、
何代も続いた養蚕農家に支えられ、さらには風土に合った良質の桑が育ったからに他なりません。
養蚕とは、実に不思議な仕事です。
古い記録によれば、天平勝宝4年(西暦752年)に、
群馬から朝廷へ「あしぎぬ」と呼ばれる最初の織物が献納されています。
「あしぎぬ」は、現在でも正倉院の御物として大切に保存されています。
群馬は「仁田山絹」(桐生で織られた絹織物)や「日野絹」(現在の藤岡市)の産地として
歴史書にもその名をとどめ、古くから絹の産地として全国に知られています。
群馬の蚕糸業は、文献に明記されているだけでも1200年以上の歴史があるとされています。
長い年月にわたり、農家の重要な仕事のひとつとして、カイコが後世へ伝えられてきました。
先人達により営々と積み上げられてきた技術と知恵が伝承をされ、さらに改良をみながら、
今日へとつながる、(明治から昭和にかけて大隆盛を極めた)群馬の養蚕業と、
絹で知られる繊維産業の文化を生み出しました。
約束通り、前橋駅へ定刻の午前8時ちょうどに到着をした康平は、
駅前広場へ置かれた男女の裸像の前で、お尻のあたりをそわそわとなにやら必死になって
隠そうとしている、千尋の姿を見つけ出します。
少し手前でスクーターを停めた康平が、いつまでも不自然な動作を続けている
千尋の様子を、ヘルメット越しに見守っています。
千尋は体型がそのままに見えている、パンツの
くっきりとしたラインが気に入らないのか、無駄に試行錯誤を繰り返しています。
お尻の様子が明確に出ているラインが気に入らない様子です。
千尋が着用しているのは、伸縮自在で動きやすく楽にはけるというニットの素材で、
某社がこの春から発売を始めたばかりという、レギンスパンツです。
締付け感がなく、フィットするためにシルエットがきれいで、脚のラインも演出するという
歌い文句で若い女性たちからは圧倒的な支持を集めている、某社が売り出した
最新の人気モデルです。
やがて試行錯誤の末、腰全体へスカーフを巻き終えた千尋が、ホッとしたような
顔をみせながら、なぜか康平がいる方向を振り返ります。
康平と目が会った瞬間、『きゃっ』と叫ぶ千尋の小さな悲鳴が、何故か
ここまではっきりと聞こえてきました。
「ずっと見ていらしたの?。もしかして。
いやだわ。恥ずかしいったらありゃしない。照れてしまいます・・・・
自分なりに、身体のラインに自信があったのに、履いてみたらまったく別物なんですもの。
もう若くは無いのだと、つくづくと実感をしてしまいました」
「もしかしたら、パンツなどを履くのは初めてですか?」
「いつもスカートばかりです。
糸取りの作業をしているときは、体型が隠れてしまう作務衣です。
今日のためにと決意をして、初めてのパンツを買いに行ったのですが、
店頭でマネキンが履いているパンツが、何故か一目ですっかりと気に入ってしまい、
後先も考えず、衝動的に買い求めてしまいました。
だってぇ。とても魅惑的というか、感心するほど綺麗な脚のラインなのよ、見た瞬間に。
でも、現実的にはとても駄目ですねぇ。
自分自身をまったく自覚をしていない人間は、救いようがありません」
「ベリーショートの髪型と良くマッチしてます。
若く見えすぎて、別の人かなと、思わず勘違いをしてしまいました」
応える代わりに、後部座席から千尋がコツンと康平のヘルメットを叩いています。
前橋駅前を出発した康平のスーパースクーターは、県庁から市街地を東へ向かって伸びる
国道50号を少しだけ走ってから、群馬県内を斜めにどこまでも横切っていく
国道17号線のバイパスへ入ります。
17号線は群馬と埼玉の県境で、東日本最大の大河、利根川を超えます。
「大田の焼きそばでしょ。それから伊勢崎の焼きまんじゅう。
対岸の妻沼町には、ジャンボサイズのお稲荷さんの名物も有るそうです。
島村の下調べをしているうちに、いつの間にか、食べ物の検索ばかりになってしまいました。
駄目ですねぇ、根っからの食いしん坊は。うふふ」
食べる楽しみはすべて後回しにして、まずは境町島村に今でも残っている巨大な
養蚕農家群をこの目で見たいという千尋のリクエストに応え、康平が県内を一気に南下します。
乗車の直後から後部座席の千尋は落ち着かぬまま、自分の両手のやり場に戸惑っています。
おずおずと康平の背中へもたれかかった千尋が、いまだに両手のやり場に逡巡をしています。
康平のヘルメットへ、千尋のためらいがちの声が響いてきました。
「ねぇぇ、どうしましょう・・・・。
お会いしたのが今日で2度目だというのに、勝手に腰へ手を回してもかまわないのかしら。
手を置ける場所はほかに見当たらないし、このままでは不安定です。
はしたない女なんて、思わないでね。
会うたびに、大胆を重ねる女に私がなりはじめています。
自分で言うのも変ですが、いつもは、おしとやかで控えめな女です。
今日に限ってだけ大胆すぎるパンツですが、私の胸は、相変わらずドキドキとしっぱなしです。
スクーターの二人乗りって、思った以上にずいぶんと親密な関係になりますねぇ。
あえてリクエストをした私が、いまさら恥ずかしくなってまいりました。
でもね・・・・この3日間は本当に、今日という日が楽しみで、
密かに指をおりながら、数えてまいりました。うふっ」
・「新田さらだ館」は、
日本の食と農業の安心と安全な未来を語る、地域発のホームページです
http://saradakann.xsrv.jp/
「肥沃な大地をもたらした利根川と、島村の大型養蚕農家群」
記録にはっきりしている明治以降の繭の生産量は、長野県に次いで全国2位。
群馬県は昭和29年以降、一貫して全国1位の繭の生産量を誇っています。
また、生糸の生産量も全国1位です。平成18年現在で、全国の繭生産量の45%。
生糸生産量の50%を群馬県産が占めています。
日本の養蚕業は、江戸時代に諸藩が殖産事業として興隆を促進したことから
明治時代においてその隆盛期を迎えました。
良質の生糸を大量に輸出したことでもよく知られています。
明治時代における養蚕業と絹糸は、外貨獲得のための重要産業として重視をされ、
我が国における近代化(富国強兵政策)の礎を築きました。
日露戦争で使われた軍艦をはじめとする多くの近代兵器は、絹糸の輸出により獲得をした
外貨によって購入をされたといっても過言でありません。
良質な生糸の大量生産を可能としたのは、幕末期における
先人たちによる数々の画期的養蚕技術の確立と、それに付随する幾多の発明です。
当時の農家にとって養蚕は貴重な現金収入源であり、農家ではカイコのことを「お蚕様」と
接頭辞を付けて呼称したほど、大切にしてきました。
しかしどんなに大切に蚕を飼育しても、病気が発生すれば作柄は悪化をします。
せっかく掃き立てても桑が霜でやられると、蚕を捨てなければならない結果にもなります。
養蚕技術が未熟だった時代には、常に安定した繭の収量が期待できたわけではありません。
それゆえに人々は、ことあるごとに神に祈りを捧げてきました。
「オカイコ」に身上(しんしょう)かけて、農家が必死に取り組む仕事である以上、
願いにもまた、切実なものが多かったようです。
蚕室や神棚に貼られた数多くの養蚕守護の御札が、そうした願いぶりを象徴しています。
元日になると初絵売りが、縁起の良い絵柄を持って農家を回ります。
その中に必ずあったのが「絹笠明神初絵」という絵柄です。
これを買い神棚の下などに貼り付けておくと、その年は、必ず蚕が当たると信じられてきました。
また正月15日の『小正月』に飾られる『マユ玉飾り』も、その名称からも明らかなように、
カイコのマユを模したもので、豊蚕を願う行事のひとつと言われています。
県内のあちこちにある寺社の縁日には、境内で蚕具市が開かれてきました。
そこで買い求めた道具を使うとカイコが当たると言われ、また春蚕(年間を通じ最初に育てられる蚕)
の掃き立て前には、こうした寺社などから養蚕守護の御札が発行されました。
受けた御札は、必ず神棚や蚕室に貼っておきます。
水はけの良い中程度の山間地が多い上州が、全国でも有数の養蚕県となりえたのは、
何代も続いた養蚕農家に支えられ、さらには風土に合った良質の桑が育ったからに他なりません。
養蚕とは、実に不思議な仕事です。
古い記録によれば、天平勝宝4年(西暦752年)に、
群馬から朝廷へ「あしぎぬ」と呼ばれる最初の織物が献納されています。
「あしぎぬ」は、現在でも正倉院の御物として大切に保存されています。
群馬は「仁田山絹」(桐生で織られた絹織物)や「日野絹」(現在の藤岡市)の産地として
歴史書にもその名をとどめ、古くから絹の産地として全国に知られています。
群馬の蚕糸業は、文献に明記されているだけでも1200年以上の歴史があるとされています。
長い年月にわたり、農家の重要な仕事のひとつとして、カイコが後世へ伝えられてきました。
先人達により営々と積み上げられてきた技術と知恵が伝承をされ、さらに改良をみながら、
今日へとつながる、(明治から昭和にかけて大隆盛を極めた)群馬の養蚕業と、
絹で知られる繊維産業の文化を生み出しました。
約束通り、前橋駅へ定刻の午前8時ちょうどに到着をした康平は、
駅前広場へ置かれた男女の裸像の前で、お尻のあたりをそわそわとなにやら必死になって
隠そうとしている、千尋の姿を見つけ出します。
少し手前でスクーターを停めた康平が、いつまでも不自然な動作を続けている
千尋の様子を、ヘルメット越しに見守っています。
千尋は体型がそのままに見えている、パンツの
くっきりとしたラインが気に入らないのか、無駄に試行錯誤を繰り返しています。
お尻の様子が明確に出ているラインが気に入らない様子です。
千尋が着用しているのは、伸縮自在で動きやすく楽にはけるというニットの素材で、
某社がこの春から発売を始めたばかりという、レギンスパンツです。
締付け感がなく、フィットするためにシルエットがきれいで、脚のラインも演出するという
歌い文句で若い女性たちからは圧倒的な支持を集めている、某社が売り出した
最新の人気モデルです。
やがて試行錯誤の末、腰全体へスカーフを巻き終えた千尋が、ホッとしたような
顔をみせながら、なぜか康平がいる方向を振り返ります。
康平と目が会った瞬間、『きゃっ』と叫ぶ千尋の小さな悲鳴が、何故か
ここまではっきりと聞こえてきました。
「ずっと見ていらしたの?。もしかして。
いやだわ。恥ずかしいったらありゃしない。照れてしまいます・・・・
自分なりに、身体のラインに自信があったのに、履いてみたらまったく別物なんですもの。
もう若くは無いのだと、つくづくと実感をしてしまいました」
「もしかしたら、パンツなどを履くのは初めてですか?」
「いつもスカートばかりです。
糸取りの作業をしているときは、体型が隠れてしまう作務衣です。
今日のためにと決意をして、初めてのパンツを買いに行ったのですが、
店頭でマネキンが履いているパンツが、何故か一目ですっかりと気に入ってしまい、
後先も考えず、衝動的に買い求めてしまいました。
だってぇ。とても魅惑的というか、感心するほど綺麗な脚のラインなのよ、見た瞬間に。
でも、現実的にはとても駄目ですねぇ。
自分自身をまったく自覚をしていない人間は、救いようがありません」
「ベリーショートの髪型と良くマッチしてます。
若く見えすぎて、別の人かなと、思わず勘違いをしてしまいました」
応える代わりに、後部座席から千尋がコツンと康平のヘルメットを叩いています。
前橋駅前を出発した康平のスーパースクーターは、県庁から市街地を東へ向かって伸びる
国道50号を少しだけ走ってから、群馬県内を斜めにどこまでも横切っていく
国道17号線のバイパスへ入ります。
17号線は群馬と埼玉の県境で、東日本最大の大河、利根川を超えます。
「大田の焼きそばでしょ。それから伊勢崎の焼きまんじゅう。
対岸の妻沼町には、ジャンボサイズのお稲荷さんの名物も有るそうです。
島村の下調べをしているうちに、いつの間にか、食べ物の検索ばかりになってしまいました。
駄目ですねぇ、根っからの食いしん坊は。うふふ」
食べる楽しみはすべて後回しにして、まずは境町島村に今でも残っている巨大な
養蚕農家群をこの目で見たいという千尋のリクエストに応え、康平が県内を一気に南下します。
乗車の直後から後部座席の千尋は落ち着かぬまま、自分の両手のやり場に戸惑っています。
おずおずと康平の背中へもたれかかった千尋が、いまだに両手のやり場に逡巡をしています。
康平のヘルメットへ、千尋のためらいがちの声が響いてきました。
「ねぇぇ、どうしましょう・・・・。
お会いしたのが今日で2度目だというのに、勝手に腰へ手を回してもかまわないのかしら。
手を置ける場所はほかに見当たらないし、このままでは不安定です。
はしたない女なんて、思わないでね。
会うたびに、大胆を重ねる女に私がなりはじめています。
自分で言うのも変ですが、いつもは、おしとやかで控えめな女です。
今日に限ってだけ大胆すぎるパンツですが、私の胸は、相変わらずドキドキとしっぱなしです。
スクーターの二人乗りって、思った以上にずいぶんと親密な関係になりますねぇ。
あえてリクエストをした私が、いまさら恥ずかしくなってまいりました。
でもね・・・・この3日間は本当に、今日という日が楽しみで、
密かに指をおりながら、数えてまいりました。うふっ」
・「新田さらだ館」は、
日本の食と農業の安心と安全な未来を語る、地域発のホームページです
http://saradakann.xsrv.jp/