からっ風と、繭の郷の子守唄(61)
「2階の蚕室に垣間見えた夢の跡と、千尋の遥かなる想い」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/ba/78eeead0a4e027eb2afea5e7fb06b1c7.jpg)
「あら、いつの間にか可愛いお嬢さんがお見えです。こんにちは。
ということは、うちの旦那はまた車庫などで油をうっていますね・・・・。
お連れの男性は、今頃はうちの旦那とオートバイ談義に夢中かえっている頃ですか。
ふふふ。2輪好きは、すぐにお友達になれるようですね。
可哀想に、それでは女性のあなたが、手持ち無沙汰になってしまいます。
お茶などを差し上げますので、どうぞ、こちらへ」
手ぬぐいを外しながら、奥さんが板の間へ座ります。
1歩目を土間に踏み入れた千尋が、あまりにも綺麗に掃き清められた地面の様子に
2歩目の足の踏み込みを、反射的に戸惑っています。
「遠慮なさらずに、土足でそのままどうぞ。
そこで躊躇う様子をみると、農家の暮らしや蚕を飼うお仕事に詳しいようです。
昔は専用の上履きなどを用いていましたが、現在では土足で普通に歩いています。
それにもう蚕も飼っていませんので、それほど衛生に気を使う必要などもありません。
ということはあなたも、こういう類のお仕事をしている方かしら?」
「はい。座ぐり糸の作家が仕事です。名は千尋と申します」
「なるほど道理で、目が真剣だと思いました。
観光でお見えになられた方は、ただキョロキョロとするばかりで落ち着きなどがありません。
たぶん、あまりにも屋敷が広すぎるために何を見たらいいのか、検討がつかないようです。
あなたは先程から私の顔よりも、2階ばかりを気にしているご様子です。
2階には何があり、どういう場所であるのかをすでに熟知している証拠です。
では先に2階へ案内をいたしましょう。
気がかりを先に片付けて、お茶はのちほどゆっくりとお入れします」
「なぜ、私の連れがバイクが好きで、私がここを覗きに来るとわかったのですか?」
「当家は予約なしの場合は、基本的に見学をお断りしています。
個人的に突然来られても、ほとんどの場合もそのようにしてお断りをいたしております。
ですが、唯一の例外などがございます。
オートバイ好きが来るか同業の方がお見えになった時のみ、お見せする場合があります。
がそれもまた、うちの旦那のメガネにかなった時のみに限定をされています。
よほどあなたと、お連れの男性が気に入ったのだと思います。
最近では、珍しいことです」
トントンと階段を上りながら、笑いを交えて奥さんがその『種明かし』を語っています。
「このあたり一帯は、古くからの島村養蚕農家群として知られていますが、
決して観光に力を入れているわけではありません。
養蚕に関しては昔から先進的な役割を果たしてまいりましたが、それもかつてのことで
今はもう、そうした役割をすべて失ってしまいました。
蚕を育てるための役目を失っても、もともとは、人が住むために作られた母屋です。
手入れをしつつ、外観を保ちながら維持管理をするのが受け継いだ私たちの使命です。
子育てが終ってしまうと、こんなにも広すぎる屋敷の中で、夫婦2人だけの
静かな生活がはじまります。それを考えると、少し寂しくなります」
案内をされた2階部分に天井はなく、屋根までがすべて吹き抜けの造りになっています。
原木のままの屈強な木材が、幾何学的にいくつも上手に組み合わされ、
蚕を育てるための、ひとつの巨大な空間を作り上げています
磨きこまれた板の間と、黒光りを放つ太い柱によって支えられている蚕室に、
往時を物語る道具や用具類などは、何一つ残されていません。
片隅にだけ大きな棚が置かれており、そこには書類などを収めていると思われる木の箱と
行李(こうり)の入れ物が、静かに埃をかぶっている様子が印象的です。
換気用として使われてきた屋根のやぐら部分は、すでに内部から塞がれています。
わずかに南に面しているガラス障子から入る光だけが、まったく明かりをもたない
広大な蚕室の内部を照らし出しています。
しかしその頭上へひろがる屋根までの空間には、ただの暗闇だけが濃密に漂っています。
「繭を作る前の蚕は、ここと同じだけの規模を持つ別棟で育てられます。
そこで4回の脱皮を繰り返した蚕は、繭を作りはじめる前に、この2階へと移されてきます。
1匹づつ縦と横が、10区画に仕切られたまぶしの中へ蚕を入れていきます。
100匹の蚕が入ったまぶしの四隅を柱で固定し、同じようにしながらまぶしを重ねていきます。
底面には、必ず受け皿を置きます。
さなぎになる前の蚕は、多量のオシッコをしますのでこれを受けるための準備です。
蚕は区画の中でまず繭を固定するために糸を吐き、その中に繭を作ります。
繭を取り出すときには、固定用に吐いたクモの巣のような糸を、
まず、掻きとる作業が必要になります。
その時に出来た繊維の短い真綿のようなものが、羽毛のように部屋中に飛び散って
あとで真綿のような埃などが幾重にも床へ積み重なるそうです。
蚕の飼育は、春先の5月からはじまり、9月の末まで繰り返されます。
一回に10万匹から、多い時には数10万匹に達します。
5月には30余日で済みますが、8月から9月にかけては40日ほどかかるそうです。
あら・・・・座ぐり糸作家のあなたに、詰まらない説明などは蛇足です。うっふっふ」
「いいえ・・・・あらためて勉強になります」
何もない空間の広さに、気後れを覚えた千尋が思わず、生唾を飲みこんでいます。
(この広すぎる空間でかつては、
いったいどれほどの繭たちが、繰り返し生産をされてきたことだろう。
蚕が糸を吐きはじめ繭を作りだす時期になると、農家は総出で『お蚕あげ』に取り掛かる。
時間を争う作業のために、寸暇を惜しんでの総力戦になると、いろんな方から聞いた覚えがある。
別棟の蚕の飼育室と、繭をつくらせるためのこの2階までを、数十人が駆け回ったことだろう。
今は静まり返っているこの部屋が、その当時は、大勢の人間と、蚕と、
たくさんの回転まぶしがひしめきあって隙間を埋めていたことでしょう。
いつ頃までのことだったのだろうか。その繁栄は・・・・
生糸の市場は、化学繊維の普及などが直接の引き金となり、
1958年頃を衰退への転換点として、それ以降は急速に減退を続けてきたという。
生活様式の変化なども、国内の和服市場を衰退させた。
中国をはじめとする人件費の安い国での養蚕業が台頭をしてきて、
日本生糸の国際競争力が失われ、その結果、日本の養蚕業は
急速に衰退の道を辿り始めた・・・・)
頭上に広がる果てしない暗闇を見上げながら、千尋がポツリとつぶやいています。
(群馬県内の養蚕農家の戸数も、こうした養蚕業の衰退に伴い、
1980年代の前半には30,000戸を上回っていたのに、
2007年の調査ではわずかに、471戸のみになってしまったと言う。
全盛を誇った製糸工場も、今では、私が働いた1ヶ所を県内に残すのみになった。
養蚕業は、産業としての基盤を持っているとは言い難い。
近い将来に、このままでは群馬県内の養蚕農家は全てなくなる恐れがあると、
統計をとっている担当者が嘆いていた。
前橋市は「上毛かるた」で「県都まえばし糸のまち」と歌われ、
製糸工場のれんが煙突から出る煙で、景気を占ったとさえいわれていた時代があった。
昭和44年にまとめられた統計によれば、前橋市内には製糸工場が大小合わせて98カ所。
玉糸製糸工場が、16カ所も有ったという。
しかし今となっては、まったくその痕跡すら残されていない街になった。
面影を残した古いまちなみの景観も、度重なる区画整理などよって、
何処にでもある街に改変されてしまったという感もある。
わずかに残った面影からは、前橋市がかつての養蚕や製糸業によって形づくられ
繁栄を遂げてきたという、歴史を思い起こすことはもはや出来ない。
まったく同じといえる栄枯の歴史が、ここのこの巨大な蚕室にも共通をしている。
生糸とともに生きていきたいと常に願っている私は、
生まれて来るのが、やっぱり、遅すぎたのだろうか・・・・)
「なにか、特別なことでも思い出しましたか?
下でお茶にいたしましょう。
男の人たちはまだ夢中で、バイクをいじり話に夢中な様子ですから」
先に階段を降りかけていた奥さんが、
途中で立ち止まり、手招きをしながらにっこりと千尋へ向かってほほ笑んでいます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/95/fb0215950690f4387bcda344cbec5400.jpg)
・「新田さらだ館」は、
日本の食と農業の安心と安全な未来を語る、地域発のホームページです
http://saradakann.xsrv.jp/
「2階の蚕室に垣間見えた夢の跡と、千尋の遥かなる想い」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/ba/78eeead0a4e027eb2afea5e7fb06b1c7.jpg)
「あら、いつの間にか可愛いお嬢さんがお見えです。こんにちは。
ということは、うちの旦那はまた車庫などで油をうっていますね・・・・。
お連れの男性は、今頃はうちの旦那とオートバイ談義に夢中かえっている頃ですか。
ふふふ。2輪好きは、すぐにお友達になれるようですね。
可哀想に、それでは女性のあなたが、手持ち無沙汰になってしまいます。
お茶などを差し上げますので、どうぞ、こちらへ」
手ぬぐいを外しながら、奥さんが板の間へ座ります。
1歩目を土間に踏み入れた千尋が、あまりにも綺麗に掃き清められた地面の様子に
2歩目の足の踏み込みを、反射的に戸惑っています。
「遠慮なさらずに、土足でそのままどうぞ。
そこで躊躇う様子をみると、農家の暮らしや蚕を飼うお仕事に詳しいようです。
昔は専用の上履きなどを用いていましたが、現在では土足で普通に歩いています。
それにもう蚕も飼っていませんので、それほど衛生に気を使う必要などもありません。
ということはあなたも、こういう類のお仕事をしている方かしら?」
「はい。座ぐり糸の作家が仕事です。名は千尋と申します」
「なるほど道理で、目が真剣だと思いました。
観光でお見えになられた方は、ただキョロキョロとするばかりで落ち着きなどがありません。
たぶん、あまりにも屋敷が広すぎるために何を見たらいいのか、検討がつかないようです。
あなたは先程から私の顔よりも、2階ばかりを気にしているご様子です。
2階には何があり、どういう場所であるのかをすでに熟知している証拠です。
では先に2階へ案内をいたしましょう。
気がかりを先に片付けて、お茶はのちほどゆっくりとお入れします」
「なぜ、私の連れがバイクが好きで、私がここを覗きに来るとわかったのですか?」
「当家は予約なしの場合は、基本的に見学をお断りしています。
個人的に突然来られても、ほとんどの場合もそのようにしてお断りをいたしております。
ですが、唯一の例外などがございます。
オートバイ好きが来るか同業の方がお見えになった時のみ、お見せする場合があります。
がそれもまた、うちの旦那のメガネにかなった時のみに限定をされています。
よほどあなたと、お連れの男性が気に入ったのだと思います。
最近では、珍しいことです」
トントンと階段を上りながら、笑いを交えて奥さんがその『種明かし』を語っています。
「このあたり一帯は、古くからの島村養蚕農家群として知られていますが、
決して観光に力を入れているわけではありません。
養蚕に関しては昔から先進的な役割を果たしてまいりましたが、それもかつてのことで
今はもう、そうした役割をすべて失ってしまいました。
蚕を育てるための役目を失っても、もともとは、人が住むために作られた母屋です。
手入れをしつつ、外観を保ちながら維持管理をするのが受け継いだ私たちの使命です。
子育てが終ってしまうと、こんなにも広すぎる屋敷の中で、夫婦2人だけの
静かな生活がはじまります。それを考えると、少し寂しくなります」
案内をされた2階部分に天井はなく、屋根までがすべて吹き抜けの造りになっています。
原木のままの屈強な木材が、幾何学的にいくつも上手に組み合わされ、
蚕を育てるための、ひとつの巨大な空間を作り上げています
磨きこまれた板の間と、黒光りを放つ太い柱によって支えられている蚕室に、
往時を物語る道具や用具類などは、何一つ残されていません。
片隅にだけ大きな棚が置かれており、そこには書類などを収めていると思われる木の箱と
行李(こうり)の入れ物が、静かに埃をかぶっている様子が印象的です。
換気用として使われてきた屋根のやぐら部分は、すでに内部から塞がれています。
わずかに南に面しているガラス障子から入る光だけが、まったく明かりをもたない
広大な蚕室の内部を照らし出しています。
しかしその頭上へひろがる屋根までの空間には、ただの暗闇だけが濃密に漂っています。
「繭を作る前の蚕は、ここと同じだけの規模を持つ別棟で育てられます。
そこで4回の脱皮を繰り返した蚕は、繭を作りはじめる前に、この2階へと移されてきます。
1匹づつ縦と横が、10区画に仕切られたまぶしの中へ蚕を入れていきます。
100匹の蚕が入ったまぶしの四隅を柱で固定し、同じようにしながらまぶしを重ねていきます。
底面には、必ず受け皿を置きます。
さなぎになる前の蚕は、多量のオシッコをしますのでこれを受けるための準備です。
蚕は区画の中でまず繭を固定するために糸を吐き、その中に繭を作ります。
繭を取り出すときには、固定用に吐いたクモの巣のような糸を、
まず、掻きとる作業が必要になります。
その時に出来た繊維の短い真綿のようなものが、羽毛のように部屋中に飛び散って
あとで真綿のような埃などが幾重にも床へ積み重なるそうです。
蚕の飼育は、春先の5月からはじまり、9月の末まで繰り返されます。
一回に10万匹から、多い時には数10万匹に達します。
5月には30余日で済みますが、8月から9月にかけては40日ほどかかるそうです。
あら・・・・座ぐり糸作家のあなたに、詰まらない説明などは蛇足です。うっふっふ」
「いいえ・・・・あらためて勉強になります」
何もない空間の広さに、気後れを覚えた千尋が思わず、生唾を飲みこんでいます。
(この広すぎる空間でかつては、
いったいどれほどの繭たちが、繰り返し生産をされてきたことだろう。
蚕が糸を吐きはじめ繭を作りだす時期になると、農家は総出で『お蚕あげ』に取り掛かる。
時間を争う作業のために、寸暇を惜しんでの総力戦になると、いろんな方から聞いた覚えがある。
別棟の蚕の飼育室と、繭をつくらせるためのこの2階までを、数十人が駆け回ったことだろう。
今は静まり返っているこの部屋が、その当時は、大勢の人間と、蚕と、
たくさんの回転まぶしがひしめきあって隙間を埋めていたことでしょう。
いつ頃までのことだったのだろうか。その繁栄は・・・・
生糸の市場は、化学繊維の普及などが直接の引き金となり、
1958年頃を衰退への転換点として、それ以降は急速に減退を続けてきたという。
生活様式の変化なども、国内の和服市場を衰退させた。
中国をはじめとする人件費の安い国での養蚕業が台頭をしてきて、
日本生糸の国際競争力が失われ、その結果、日本の養蚕業は
急速に衰退の道を辿り始めた・・・・)
頭上に広がる果てしない暗闇を見上げながら、千尋がポツリとつぶやいています。
(群馬県内の養蚕農家の戸数も、こうした養蚕業の衰退に伴い、
1980年代の前半には30,000戸を上回っていたのに、
2007年の調査ではわずかに、471戸のみになってしまったと言う。
全盛を誇った製糸工場も、今では、私が働いた1ヶ所を県内に残すのみになった。
養蚕業は、産業としての基盤を持っているとは言い難い。
近い将来に、このままでは群馬県内の養蚕農家は全てなくなる恐れがあると、
統計をとっている担当者が嘆いていた。
前橋市は「上毛かるた」で「県都まえばし糸のまち」と歌われ、
製糸工場のれんが煙突から出る煙で、景気を占ったとさえいわれていた時代があった。
昭和44年にまとめられた統計によれば、前橋市内には製糸工場が大小合わせて98カ所。
玉糸製糸工場が、16カ所も有ったという。
しかし今となっては、まったくその痕跡すら残されていない街になった。
面影を残した古いまちなみの景観も、度重なる区画整理などよって、
何処にでもある街に改変されてしまったという感もある。
わずかに残った面影からは、前橋市がかつての養蚕や製糸業によって形づくられ
繁栄を遂げてきたという、歴史を思い起こすことはもはや出来ない。
まったく同じといえる栄枯の歴史が、ここのこの巨大な蚕室にも共通をしている。
生糸とともに生きていきたいと常に願っている私は、
生まれて来るのが、やっぱり、遅すぎたのだろうか・・・・)
「なにか、特別なことでも思い出しましたか?
下でお茶にいたしましょう。
男の人たちはまだ夢中で、バイクをいじり話に夢中な様子ですから」
先に階段を降りかけていた奥さんが、
途中で立ち止まり、手招きをしながらにっこりと千尋へ向かってほほ笑んでいます。
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・「新田さらだ館」は、
日本の食と農業の安心と安全な未来を語る、地域発のホームページです
http://saradakann.xsrv.jp/