落合順平 作品集

現代小説の部屋。

からっ風と、繭の郷の子守唄(58) 

2013-08-17 10:33:19 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(58) 
「大河の氾濫が育んできた、肥沃な大地と桑の木の飛び地」 




 康平のスクーターが関東いちを誇る大河、利根川の堰堤上へ出てきました。
『暴れ坂東』の異名で知られ、急な流れで名高い利根川も中流域となるこのあたりからは、
いくつもの支流を集めた大河に変わり、川幅も広いところでは優に500mを超えます。
河川敷には農地なども見られるようになり、大きな中洲がいくつも流れの中で点在します。


 全国的に少なくなった川の渡船が、利根川には現在でも四箇所ほどが残っています。
その一つが、群馬県伊勢崎市・島村にある「島村の渡船」です。
川船に船外機を取り付けた渡船が往復をするのは、300m余りの水面です。
中央には強い流域があるために、渡船は舳先を川上へ向けたまま川面を横切るように走ります。
川岸の近くで突然水深が浅くなるために、櫂を用いて人力での接岸作業がはじまります。


 「ゆったりとした光景です。乗ってみたくなるような川船の様子です」



 「何度も行われた利根川の改修工事の末に、
 境町島村の集落は、分断をされたあげく川を挟んで北と南に孤立をしました。
 利根川の南岸は埼玉県にあたりますから、これから行く南島村は群馬県の『飛び地』です。
 前方に見えてきた橋が、上武橋であの下に河川敷のゴルフ場もあります」


 「前橋からここまで、40分くらいでしょ。
 赤城山は後方ですっかり小さくなっているし、どちらを見ても平坦地ばかりの景色です。
 ここから始まる広大な平野が、日本最大といわれている関東平野になるのですね。
 ということは、今私たちが走っているのは、ちょうど扇の要の部分かしら」


 「そういう事になりますね。
 利根川は、ここから東南へ180キロほど下ったあと、銚子から太平洋へ流れ出ます。
 この大河が、蚕の餌となる桑の木を育てるために、とても大きな役割を果たしました。
 何度も氾濫を繰り返した結果、この南岸一帯に栄養豊かな肥沃な大地が生まれました。
 それからもうひとつ大切なことがあります。
 桑の木に巣食う天敵や害虫たちが、この洪水によって押し流されてしまったことです。
 そうした恩恵を受けた結果、ここでは健康で、優良な桑の木がたくさん育ちました。
 もっとも、洪水の度に甚大な被害を受けてきたことも、また歴史的な事実ですが。
 島村の人たちは、そうした困難も見事に乗り越えて今日の繁栄を築きました。
 今でも残る超大型の養蚕農家は、まさにそうした遺産です」


 『うふ。楽しみです。その大きな建物たちが』
後部座席で嬉しそうに応じている千尋が、康平の腰へ回した両手に力を込めます。
いつのまにか密着の態勢をとり、運転をする康平のヘルメット越しに、右と左へ
交互に顔を覗かせながら、千尋は飛び去っていく景色を満喫しています。
乗車の当初に見せた千尋の躊躇いと警戒心は、すっかり薄れてきました。
大胆すぎるほどの密着をみせる千尋からは時々、柔らかい胸の感触が康平の背中へ伝わってきます。
かえって康平の方が、極度の緊張の様子さえみせています。


 長い橋を渡り終えた康平のスクーターが、堤防からゆったりと下りはじめます。
最初にやってくる交差点を右へ曲がりそこから西へ向かうのが本来のコースですが、康平は
そのまま交差点をパスをすると、すこし前進をしてから、あえて次の畑道で右折をします。
畑道とはいえ、狭いながらも全線にわたり綺麗に舗装が施された快適な道路です。
住宅を数軒越えると、前方にどこまでも広がる緑一面のネギ畑が現れました。


 「ネギ? 一面のネギ畑だわ。どこまでいっても限りなくネギばかりが続いている。
 もしかしたら、これが噂の、深谷のネギ?」



 「そう。これが、深谷特産のネギの畑だ。
 これも利根川の氾濫がもたらした肥沃な土地の恩恵さ。
 栄養たっぷりの柔らかい大地が、茎の部分が真っ白で極上のネギを育て上げてくれる。
 柔らかい土地で真っ直ぐに伸びる、牛蒡(ごぼう)も同じようにここの特産品だ。
 ほら、遠くに巨大なフキのような葉っぱがみえるだろう。
 あれが牛蒡だ。あんなに大きく育っているのに、牛蒡の葉は残念ながら食べられません」


 「康平くん。実はこれが見せたくてわざわざ遠回りをしたんでしょ?」


 「うん。背中の感触があまりにも刺激的すぎるから、軽い感謝の気持ちさ。
 君の胸って・・・・意外なほど誘惑的で、もう、さっきから俺の心はメロメロだ」


 『あっ!』と声をあげた千尋が、あわてて康平の背中から離れます。
その瞬間ゴクンという衝撃が来て、路肩の段差を踏み損なったスクータが上下に激しく揺られます。
千尋が座っている後部シートへも、振り落としそうな衝撃が一瞬にして伝わってきました。
『きゃっ!』と叫んだ千尋が、あわてて、再び康平の背中へしがみつきます。
否応もなく再び元の態勢へ戻った千尋が、康平のヘルメットを後ろから軽くコツンと叩きます。


 「こら下手くそ。狙いすました確信犯め。
 ・・・まぁ、いいか。別にお胸が減るわけでもないし。うふふ」



 逆襲してやろうと目論んだ千尋が、康平のわずかな隙と油断を狙っています。
頃合を見計らった千尋が両手へ渾身の力を入れると、ふくよかな自分の胸が壊れ潰れてしまうほど、
あえて康平の背中へ、強い力で密着をしてしまいます。
驚いたのは康平の方です。
千尋からの突然の反撃に、畑道の真ん中で康平のスクーターがうろたえます
急ブレーキが踏まれた車体は、コントロールを失い、ネギ畑へ向かって突進をします。
間一髪でスクーターの体勢を立て直した康平が、速度を調節しながら道の中央へ
ようやくのことで復帰を果たします。


 「君もお茶目だなぁ。死ぬかと思った、あまりの衝撃ぶりに・・・・」
 
 「それは私の胸のせいかしら? それともあなたの下手な運転のせい?」

 「どっちも正解。来るなら来ると前もって言ってください、心の準備というものがある」


 「ごめんなさい。久しぶりに、悪女の血が騒いでしまいました。
 あなたと居ると、なんだか変なのよ。
 やたらと自分を開放したがるし、新しい冒険をしたがる私もいるの。
 いきなりスクーターの後部座席へ乗りたがるし、
 お尻の形が丸見えのレギンスパンツなんかも、突然に履きたがる・・・・
 おしとやかだけが取り柄のはずだったのに、小娘みたいに
 やたらとウキウキしている私がいるの。
 もう、しません。ここから先は、悪賢い娼婦のような真似はきっぱりとやめて、
 元通りの、良識をわきまえた淑女の姿へ戻ります。うふっ」



 「それは残念だ。でも、安心しました。
 あなたは思っていた以上にやんちゃで、冒険を試みる勇気もお持ちです。
 座ぐり糸作家というから、本当は、もっと別の人種だとばかり思い込んでいました」

 「あら、聞き捨てなりません。
 どういう人種なら、座ぐり糸作家にふさわしいのでしょう?
 聞かせてください。貴重なご意見ならば是非とも、今後の参考にいたします」


 「奥ゆかしさは、あなたが言うようにきっと必須だと思います。
 延々と糸を引く仕事になりますので、忍耐力と地道さなども求められると思います
 箸を正しく持てる人・・・・なんていうのも日本的で良いと思います」

 「どれも一般的ですね。ほかには?」


 「アメリカシロヒトリに占領された一ノ瀬の大木を見上げて、泣いてくれる人。
 蚕を育てるために、思い切って一番短い髪型の、ベリーショートへ変えてしまう人。
 それを見られるのが嫌で、大きな麦わら帽子で顔を隠して街中を歩く人」


 「そういう方ならば、私もよく知っています。
 食いしん坊で、ほんとうはおっちょこちょいで、人見知りです。
 それでも今のところはまるっきり正反対の部分で、恥ずかしさに耐えながら
 自分なりに精一杯の善戦をしています。
 こんなふうに突然自分が変われることを、あなたと出会い初めて気がつきました。
 いい出会いに、心から感謝をしています。
 もう嬉しさとドキドキで、私の方が死んでしまいそうです」

 「死ぬには、まだ早いようです。
 あの桑畑の向こうへ点々と見えてきたのが、これから行く島村の養蚕農家群です。
 もう少しだけ長生きをして、二人であの界隈をゆっくりと散策をしましょう。
 あっというまに、大正から明治時代へ、タイムスリップすることが出来ますから」


 「まぁ嬉しい。ついてこいといわれれば断る理由がありません。
 はい。喜んで着いて行きます!」



 
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