からっ風と、繭の郷の子守唄(60)
「個人住宅につき立ち入り禁止。思いがけない千尋の絶望と希望」
「お嬢さん。いつまでも門ばかり見つめていると、そのうちに日が暮れちまうよ」
邸内から草退治用の道具を担いで現れた男性が、門の下から千尋へ声をかけてきました。
門の正面に立ち尽くしていた千尋が、あわてて男性へ道を譲ります。
「ごめんなさい。立派な門構えに圧倒され過ぎて、つい、見とれておりました」
「立派なのは外見だけさ。中身は年がら年中火の車だよ。
お・・・・兄さんの乗ってきたスクーターかい。なかなかいい趣味をしているねぇ。
3世代目になったホンダ・フォルツァか、見たところ新車だな。
ほう・・・ずいぶんと手入れが行き届いているな」
首へ巻いたタオルで汗を拭いながら、男が康平のスクーターを覗き込んでいます。
『いいねぇ』を連発しながら、いたわるような指先で丁寧にあちこちを覗き込んでいく
男の様子に、康平も思わず笑みをこぼしてしまいます。
「あなたも相当、2輪車がお好きなようですね。
部品へのチェックの入れ方が尋常じゃないし、いたわり方が半端じゃありません」
「俺は、CBX400Fに乗っている」
「CBXといえば、ホンダの伝説の名車です。道理で2輪が好きなはずです」
「なんなの。その伝説のCBXって?」
「盗まれすぎて盗難保険にも入れないという、30年前のホンダのオートバイだ。
30年前にすでに生産を終了したホンダの『CBX400F(400cc)』という代物さ。
盗難が相次いでいるため、所有者が盗難保険の加入を拒否されるという事態にさえなっている。
市場で発売当時の10倍の価格で取引される、いまだの人気車だ。
盗難率も、他車種と比べて3倍以上という情報さえある。
全国のバイク盗難件数は、昨年の統計で約6万7000件に上っているが、
特定車種のみが盗難保険に加入できないというのは、異例中の異例ともいえる出来事だ。
中古バイクの専門店で、『CBX400F』は、40歳代を中心に根強い人気がある。
人気絶頂の頃に生産が終了したということで、希少価値が高まり、 古いブランド車に
乗るようなステータス感が生まれてきたためだ。
生産当時の販売価格48万円が、現在は平均でも、150万円前後になる。
状態の良いものだと、500万円で売買されているものもある」
「おっ、詳しいなぁ、兄ちゃんも。
久々に2輪の話が出来そうなお客さんが、当家へ見学に来てくれたとは実に嬉しいねぇ。
ここの屋敷は個人の所有物なもんで、基本的に敷地内は立ち入り禁止だ。
見学の際は、事前に教育委員会の文化財保護課というところへ申請をする必要がある。
できれば5人前後でお願いしますというのが、本来の建前だ。
俺も今、草でも退治しょうと思って出てきたところだが、いいところで
いいスクーターを見せてもらった。
その謝礼代わりに兄ちゃんに、俺の自慢のオートバイをゆっくりと見せてやろう。
そのあいだに、お姉ちゃんは勝手に屋敷内へ入って見てくるがいい。
どうぜ、機械なんかには興味がないだろう?」
屋敷の当主と名乗った40歳半ばの男性が、千尋を見ながら笑います。
『え。でもまだ申請もしていませんし、当局からの見学許可も、もらっていませんが』
といぶかる千尋へ、当主が再び白い歯を見せて笑います。
「お姉ちゃんも杓子定規だなぁ。見かけによらず。
重要文化財だの、歴史的に貴重なものだと当局からいわれても、
建物を保存のために、役所から特別な資金援助などをもらっているわけじゃない。
全て自前でやりくりをして維持しているのが、このあたりに残っている建物の実情だ。
別に、お上のためにやっているわけじゃない。
これを残してくれた先人たちの偉業に敬意をこめて、維持管理を頑張っているだけだ。
屋敷に住んでいる人たちの日常生活を邪魔しない範囲でなら、自由に見てもらっても結構だ。
兄ちゃんと時間をかけてバイクの談義をしているから、ゆっくり回っておいで。
あ。・・・・ただし、今の時間は俺のカミさんにだけは、声をかけるなよ。
時間をかけてお化粧の真っ最中だから、カミさんより美人に声をかけられちまうと、
ライバル心が湧いてきて、よけいに化粧の時間が長くなる。
玄関を入ってすぐ左側の囲炉裏のある部屋へ居るはずだから、間違っても声をかけるなよ」
『こっちだ』と当主に案内をされ、康平が敷地の隅にある駐車スペースへ消えていきます。
ふらりと二人のあとへ着き、邸内へ足を踏み入れた千尋はあっというまに行き場を失って、
広い敷地内で、たったひとりの迷子と化してしまいます。
一段と高い石垣の上には、つるべ式として使われた井戸の跡などが残っています。
今は使われている様子がなく、ただ赤く錆びきった滑車だけがポツリと空中で揺れています。
玄関前まで綺麗に敷石が並び、頑丈な格子戸が半分だけ開いています。
おそらく草退治を思い立った当主がとりあえずの道具だけを抱え、急いで出てきたために、
つかのまで戻るという意味を込めて、そのまま放置をされていたようです。
興味を惹かれた千尋がおそろおそる近づいていきます。
格子戸から顔だけを伸ばし、そっと玄関内を覗き込みます。
ここにも人の気配はまったくなくなく、ほの暗い中に、広い土間の拡がりだけが見えます。
初夏だというのに、ひんやりとした涼しさを感じさせるものが漂っています。
農家の土間は、入口や炊事場として使われるほか、農作業の準備や藁打ち、
縄綯いなどの手仕事などのためにも、頻繁に使われてきました。
それらに必要な道具類の置場としても活用され、さらには米や味噌などの食料の調整や、
貯蔵の場所として、広い土間が使用されてきました。
水の豊かな水田地帯の土間はしっとりとした湿りがあり、かつ美しく整頓をされています。
元々は履物はすべて屋外で脱ぎ、土間では上履きの藁草履などを用いてきました。
土間の床は、山土に石灰とにがりを加え叩き固めたもので、寝所以上にきれいに
常に掃き清められているのが普通です。
かまどには、荒神様やかまどの神様。流しには水神様。さらに、
えびすや大黒様などをはじめとする、もろもろの神聖な神の座が土間には作られています。
正規に信仰する神棚や仏壇などは座敷に設置されますが、その他の土俗的な信仰の対象はすべて、
こうした身近な土間などに、鎮座をしています。
カラリと障子が鳴り、どこかで人の動く気配がしました。
磨きこまれた板の上に素足の白い足が音もなく現れ、やがてピタリと立ち止まります。
『あんたぁ?。早かったわねぇ、もう草取りが終わりですか。あら・・・・どちら様?』
姉さんかぶりの手ぬぐいの下から、黒く輝く瞳がこちらを見つめてきます。
・「新田さらだ館」は、
日本の食と農業の安心と安全な未来を語る、地域発のホームページです
http://saradakann.xsrv.jp/
「個人住宅につき立ち入り禁止。思いがけない千尋の絶望と希望」
「お嬢さん。いつまでも門ばかり見つめていると、そのうちに日が暮れちまうよ」
邸内から草退治用の道具を担いで現れた男性が、門の下から千尋へ声をかけてきました。
門の正面に立ち尽くしていた千尋が、あわてて男性へ道を譲ります。
「ごめんなさい。立派な門構えに圧倒され過ぎて、つい、見とれておりました」
「立派なのは外見だけさ。中身は年がら年中火の車だよ。
お・・・・兄さんの乗ってきたスクーターかい。なかなかいい趣味をしているねぇ。
3世代目になったホンダ・フォルツァか、見たところ新車だな。
ほう・・・ずいぶんと手入れが行き届いているな」
首へ巻いたタオルで汗を拭いながら、男が康平のスクーターを覗き込んでいます。
『いいねぇ』を連発しながら、いたわるような指先で丁寧にあちこちを覗き込んでいく
男の様子に、康平も思わず笑みをこぼしてしまいます。
「あなたも相当、2輪車がお好きなようですね。
部品へのチェックの入れ方が尋常じゃないし、いたわり方が半端じゃありません」
「俺は、CBX400Fに乗っている」
「CBXといえば、ホンダの伝説の名車です。道理で2輪が好きなはずです」
「なんなの。その伝説のCBXって?」
「盗まれすぎて盗難保険にも入れないという、30年前のホンダのオートバイだ。
30年前にすでに生産を終了したホンダの『CBX400F(400cc)』という代物さ。
盗難が相次いでいるため、所有者が盗難保険の加入を拒否されるという事態にさえなっている。
市場で発売当時の10倍の価格で取引される、いまだの人気車だ。
盗難率も、他車種と比べて3倍以上という情報さえある。
全国のバイク盗難件数は、昨年の統計で約6万7000件に上っているが、
特定車種のみが盗難保険に加入できないというのは、異例中の異例ともいえる出来事だ。
中古バイクの専門店で、『CBX400F』は、40歳代を中心に根強い人気がある。
人気絶頂の頃に生産が終了したということで、希少価値が高まり、 古いブランド車に
乗るようなステータス感が生まれてきたためだ。
生産当時の販売価格48万円が、現在は平均でも、150万円前後になる。
状態の良いものだと、500万円で売買されているものもある」
「おっ、詳しいなぁ、兄ちゃんも。
久々に2輪の話が出来そうなお客さんが、当家へ見学に来てくれたとは実に嬉しいねぇ。
ここの屋敷は個人の所有物なもんで、基本的に敷地内は立ち入り禁止だ。
見学の際は、事前に教育委員会の文化財保護課というところへ申請をする必要がある。
できれば5人前後でお願いしますというのが、本来の建前だ。
俺も今、草でも退治しょうと思って出てきたところだが、いいところで
いいスクーターを見せてもらった。
その謝礼代わりに兄ちゃんに、俺の自慢のオートバイをゆっくりと見せてやろう。
そのあいだに、お姉ちゃんは勝手に屋敷内へ入って見てくるがいい。
どうぜ、機械なんかには興味がないだろう?」
屋敷の当主と名乗った40歳半ばの男性が、千尋を見ながら笑います。
『え。でもまだ申請もしていませんし、当局からの見学許可も、もらっていませんが』
といぶかる千尋へ、当主が再び白い歯を見せて笑います。
「お姉ちゃんも杓子定規だなぁ。見かけによらず。
重要文化財だの、歴史的に貴重なものだと当局からいわれても、
建物を保存のために、役所から特別な資金援助などをもらっているわけじゃない。
全て自前でやりくりをして維持しているのが、このあたりに残っている建物の実情だ。
別に、お上のためにやっているわけじゃない。
これを残してくれた先人たちの偉業に敬意をこめて、維持管理を頑張っているだけだ。
屋敷に住んでいる人たちの日常生活を邪魔しない範囲でなら、自由に見てもらっても結構だ。
兄ちゃんと時間をかけてバイクの談義をしているから、ゆっくり回っておいで。
あ。・・・・ただし、今の時間は俺のカミさんにだけは、声をかけるなよ。
時間をかけてお化粧の真っ最中だから、カミさんより美人に声をかけられちまうと、
ライバル心が湧いてきて、よけいに化粧の時間が長くなる。
玄関を入ってすぐ左側の囲炉裏のある部屋へ居るはずだから、間違っても声をかけるなよ」
『こっちだ』と当主に案内をされ、康平が敷地の隅にある駐車スペースへ消えていきます。
ふらりと二人のあとへ着き、邸内へ足を踏み入れた千尋はあっというまに行き場を失って、
広い敷地内で、たったひとりの迷子と化してしまいます。
一段と高い石垣の上には、つるべ式として使われた井戸の跡などが残っています。
今は使われている様子がなく、ただ赤く錆びきった滑車だけがポツリと空中で揺れています。
玄関前まで綺麗に敷石が並び、頑丈な格子戸が半分だけ開いています。
おそらく草退治を思い立った当主がとりあえずの道具だけを抱え、急いで出てきたために、
つかのまで戻るという意味を込めて、そのまま放置をされていたようです。
興味を惹かれた千尋がおそろおそる近づいていきます。
格子戸から顔だけを伸ばし、そっと玄関内を覗き込みます。
ここにも人の気配はまったくなくなく、ほの暗い中に、広い土間の拡がりだけが見えます。
初夏だというのに、ひんやりとした涼しさを感じさせるものが漂っています。
農家の土間は、入口や炊事場として使われるほか、農作業の準備や藁打ち、
縄綯いなどの手仕事などのためにも、頻繁に使われてきました。
それらに必要な道具類の置場としても活用され、さらには米や味噌などの食料の調整や、
貯蔵の場所として、広い土間が使用されてきました。
水の豊かな水田地帯の土間はしっとりとした湿りがあり、かつ美しく整頓をされています。
元々は履物はすべて屋外で脱ぎ、土間では上履きの藁草履などを用いてきました。
土間の床は、山土に石灰とにがりを加え叩き固めたもので、寝所以上にきれいに
常に掃き清められているのが普通です。
かまどには、荒神様やかまどの神様。流しには水神様。さらに、
えびすや大黒様などをはじめとする、もろもろの神聖な神の座が土間には作られています。
正規に信仰する神棚や仏壇などは座敷に設置されますが、その他の土俗的な信仰の対象はすべて、
こうした身近な土間などに、鎮座をしています。
カラリと障子が鳴り、どこかで人の動く気配がしました。
磨きこまれた板の上に素足の白い足が音もなく現れ、やがてピタリと立ち止まります。
『あんたぁ?。早かったわねぇ、もう草取りが終わりですか。あら・・・・どちら様?』
姉さんかぶりの手ぬぐいの下から、黒く輝く瞳がこちらを見つめてきます。
・「新田さらだ館」は、
日本の食と農業の安心と安全な未来を語る、地域発のホームページです
http://saradakann.xsrv.jp/