からっ風と、繭の郷の子守唄(59)
「島村養蚕農家群の中核を占める、『清涼育』で知られる田島弥平旧宅」

「ここが、島村の養蚕農家群を見る、取って置きの絶好ポイントです」
康平が、ネギ畑のまさにど真ん中でスーパースクーターを停めました。
エンジンを止め、ヘルメットを外した康平が運転席から降ります。
見習うようにフルフェイスのヘルメットを脱いだ千尋が、康平が指差す方向へ視線を向けます。
思わず息を止めた次の瞬間、口からは短い歓声があがります。
真北に悠然とそびえる赤城山を背景に、ネギの青い畑は際限なくどこまでも続いています。
波のようなネギのうねりが続く先には、島村の養蚕で中心的な役割を果たした、
田島弥平旧宅を含めた7棟の養蚕農家が、点々と連なっています。
屋根の上に乗っている越し屋根(この周辺では櫓(やぐら)と呼ばれます)が一番の特徴です。
屋根全体に櫓(やぐら)が乗っている総やぐらの造りの家屋。
小さな屋根が3つ乗っている形の3つやぐら造り。
さらには2つやぐらの姿などが、交互に入り混じって佇んでいます。
全て総二階の建物は、1階部分は居住スペース、2階部分は蚕室として使われてきました。
屋根の最上部までの高さは、およそ8mから10m近くあり、一般の現在の住宅よりも、
少しだけ高いことから、屋根の特徴が遠くからでもはっきりと確認するが出来ます。
「この新地地区には今でも昔のままの建物が、15棟も残っている。
東隣にある新野新田地区には23棟の養蚕農家が残っていますが、点在をしているために、
その様子を一目で眺望できる場所は残念ながらありません
雄大な赤城山を背景にして養蚕農家群の勇姿を見られるのは、実は此処からだけです」
小柄な千尋が先程から、しきりに小さなジャンプを繰り返しています。
養蚕農家の7棟が、横一列に綺麗に並ぶここからの景観が、すっかりと気にいった様子があります。
この景色をしっかりと見たいために、それでしきりに飛び跳ねているような気配が漂っています。
見かねた康平が千尋の背後へ、苦笑をしながらそっと回り込みます。
数回のジャンプで飛び上がる時の千尋のタイミングを測ったあと、着地をした瞬間を狙って、
千尋の細いウエストへ、康平が両手を添えます。
「あっ」という短い悲鳴を聞いたものの、康平は構わずヒョイとそのまま持ち上げて、
スクータの運転席へ千尋を立たせてしまいます。
意表をつかれた千尋が康平の肩へ片手を着き、辛うじてそのバランスを保ちます。
両足を踏ん張った千尋は、太腿のあたりを康平に支えられるような形でようやく収まります。
「どうですか。これなら見えるでしょう。
さすがにあなたを肩車と言うわけにはいきませんから、運転席で我慢をしてください。
でも、バランスに充分に気をつけてください。この高さからでも
地面へ落ちると、流石に痛いものがあります」
「ありがとう。ほんとうに素晴らしい景色です。
いいと言うまで支えていてね。写真を一枚だけ撮りたいの」
そう言いながら携帯を取り出した千尋が、ベストアングルを狙って身体を構えます。
不安定になりかけてきた千尋のバランスを、康平が再び両手で支えます。
千尋の素肌の感触とぬくもりが、薄い生地一枚だけを通して康平の両手へ伝わってきます。
もう一度バランスを失いかけて傾きをみせた瞬間、康平へすべての体重をかけるような
体勢で、しっかりと千尋がもたれかかってしまいます。
しかしバランスを取り戻した当の千尋は、まったく気にするような様子を見せず、
『もう一枚ね!』などと、運転席で呑気な声を上げています。
100年以上の風雪を耐え抜いてきた目の前の風景に、今や完全にのめり込んでいます。
「あら!」ようやく撮影を終えた千尋が、運転席から康平を見下ろしたとき、
やがて、あられもない事態のすべてを察知します。
康平へ自分の下半身をすっかりと預けている姿を見つけて、一瞬にして羞恥のために
顔を真っ赤に染めてしまいます。
(あらら・・・・どうしましょう。不本意ながら、結果は、またまたの大失態です!)
「下から支えていますから、そのままゆっくり腰を沈めてください。
バランスを崩して落ちると、この高さからでも大変なことになってしまいます。
千尋さんは、無邪気なくせに、時々大胆なことをやってのけるタイプのようです。
大丈夫です。健康なお色気ぶりを充分に感じましたが、変な妄想は一切していません。
予想外に軽かったので、内心驚きました」
反省でもしているのかヘルメットを装着した千尋は、無口のままバックシートへ
チョコンとして収まり、出発の瞬間までうなだれた形でじっと待っています。
康平が運転席へ座ろうとした瞬間、『あっ』とまた何かを思い出して、小さな声をあげます。
『私の足跡!』あわててハンカチを広げると、手早く運転席へそれを敷いてしまいます。
『気がつくのが遅すぎるのよね。うっかり者の私は』その小さな声のつぶやきは、
ヘルメット内のインカムを通してしっかりと、康平の耳まで届いています。
『悪意が無いから可愛いんだと思います。無邪気さも千尋さんの魅力のひとつです』
そう答えている康平の小さな声も、やはり同じようにヘルメット内の
インカムを通じて、千尋の耳へしっかりと届いていきます。
バックシートから伸ばされた千尋の両手は、柔らかく康平の腰へ巻きつきます。
まるで自分の体温をすべて伝えるかのように前傾をしてきた千尋を乗せ、康平のスクーターは
はるかに見える養蚕農家群の中心地へ向かって、再び静かに発進します。
群馬県東部で、常に養蚕界で先進的な役割を果たしてきた境町・島村に
今でも現存をしている大型の養蚕農家は、全部で72棟を数えます。
櫓付きで総2階の瓦ぶきという建物のほとんどは、幕末から昭和初期までに建てられました。
それらの中において、中心的な役割を果たしてきたという田島弥平旧宅は、家屋内に残されていた
棟札から、1863(文久3)年の建築であることが確認をされています。
田島弥平旧宅がある伊勢崎市境島村地区は、江戸時代の中期から蚕を育てて繭をとる
通常の養蚕と共に、その蚕のみなもととなる蚕種(さんしゅ)製造がきわめて盛んな土地柄でした。
田島弥平は島村養蚕の近代史において、もっとも先進的な役割と仕事を成し遂げてきた、
蚕種製造を代表する農家の筆頭格です。
蚕種(さんしゅ)とは、カイコの卵のことをさす産業用語です。
繭をとるために飼育をされるカイコは、『普通蚕種』と呼ばれる蚕種から孵化したもので、
日本種と中国種を交配して作り出される交雑種のことです。
普通蚕種を作る親の蚕種は原蚕種と呼ばれ、原蚕種の親の蚕種は原原蚕種と呼ばれています。
カイコの雌のガは、交尾後にたいてい500粒から700粒の卵を産みます。
この卵から、やがて蚕を生み出すための準備と育成が蚕種製造という仕事です。
普通蚕種を得るための原蚕種は、雌雄合わせて最低でも2億粒が必要とされています。
蚕の飼育には難しいものがあり、年によって収量に大きな差がでます。
弥平は各地にある養蚕方法を研究した結果、蚕の飼育には自然の通風が重要であると考え、
「清涼育」を大成し、安定した繭の生産に成功をします。
また「清涼育」に適した蚕室の工夫なども積極的に行ってきました。
文久3年(1863)に、棟上に換気設備を備えた、瓦屋根総二階建ての住居兼蚕室を建築します。
横方向の長さが24.3m、縦方向が9.1mにおよぶ大規模な建物で、1階を人が住まう住居とし、
2階を専用の蚕室としています。
弥平は「清涼育」の普及のため明治5年(1872)に『養蚕新論』を書き下ろします。
ヤグラを取り付けた養蚕農家建築は、その後の近代的な養蚕農家建築の標準になっています。
「実際に間近で見ると、さすがに大きいですねぇ」
弥平旧宅の屋敷門の前に立ち、見上げている千尋の口元からは
何度も溜息が漏れます。
入口の門は武家屋敷などによく見る、長屋門の趣と様式などを真似ています。
しかし右手には、蔵のような窓が見え、左側は、拡張された蚕室のような趣を見せています。
いずれにしても最盛期には、100人を下らない人たちが常時働いていたという豪農の屋敷です。
入口にある屋敷門を見上げたまま、千尋は何時まで経っても感嘆の声をもらしつ、
軽く口元さえ空けて、この初めて見る景色にすっかりと魅了をされています。
しかし、その入口には
『個人所有の建物につき、許可なく立ち入りことを厳しく禁じます』と、
黒々と書かれた看板が、高々と掲げられています・・・・

・「新田さらだ館」は、
日本の食と農業の安心と安全な未来を語る、地域発のホームページです
http://saradakann.xsrv.jp/
「島村養蚕農家群の中核を占める、『清涼育』で知られる田島弥平旧宅」

「ここが、島村の養蚕農家群を見る、取って置きの絶好ポイントです」
康平が、ネギ畑のまさにど真ん中でスーパースクーターを停めました。
エンジンを止め、ヘルメットを外した康平が運転席から降ります。
見習うようにフルフェイスのヘルメットを脱いだ千尋が、康平が指差す方向へ視線を向けます。
思わず息を止めた次の瞬間、口からは短い歓声があがります。
真北に悠然とそびえる赤城山を背景に、ネギの青い畑は際限なくどこまでも続いています。
波のようなネギのうねりが続く先には、島村の養蚕で中心的な役割を果たした、
田島弥平旧宅を含めた7棟の養蚕農家が、点々と連なっています。
屋根の上に乗っている越し屋根(この周辺では櫓(やぐら)と呼ばれます)が一番の特徴です。
屋根全体に櫓(やぐら)が乗っている総やぐらの造りの家屋。
小さな屋根が3つ乗っている形の3つやぐら造り。
さらには2つやぐらの姿などが、交互に入り混じって佇んでいます。
全て総二階の建物は、1階部分は居住スペース、2階部分は蚕室として使われてきました。
屋根の最上部までの高さは、およそ8mから10m近くあり、一般の現在の住宅よりも、
少しだけ高いことから、屋根の特徴が遠くからでもはっきりと確認するが出来ます。
「この新地地区には今でも昔のままの建物が、15棟も残っている。
東隣にある新野新田地区には23棟の養蚕農家が残っていますが、点在をしているために、
その様子を一目で眺望できる場所は残念ながらありません
雄大な赤城山を背景にして養蚕農家群の勇姿を見られるのは、実は此処からだけです」
小柄な千尋が先程から、しきりに小さなジャンプを繰り返しています。
養蚕農家の7棟が、横一列に綺麗に並ぶここからの景観が、すっかりと気にいった様子があります。
この景色をしっかりと見たいために、それでしきりに飛び跳ねているような気配が漂っています。
見かねた康平が千尋の背後へ、苦笑をしながらそっと回り込みます。
数回のジャンプで飛び上がる時の千尋のタイミングを測ったあと、着地をした瞬間を狙って、
千尋の細いウエストへ、康平が両手を添えます。
「あっ」という短い悲鳴を聞いたものの、康平は構わずヒョイとそのまま持ち上げて、
スクータの運転席へ千尋を立たせてしまいます。
意表をつかれた千尋が康平の肩へ片手を着き、辛うじてそのバランスを保ちます。
両足を踏ん張った千尋は、太腿のあたりを康平に支えられるような形でようやく収まります。
「どうですか。これなら見えるでしょう。
さすがにあなたを肩車と言うわけにはいきませんから、運転席で我慢をしてください。
でも、バランスに充分に気をつけてください。この高さからでも
地面へ落ちると、流石に痛いものがあります」
「ありがとう。ほんとうに素晴らしい景色です。
いいと言うまで支えていてね。写真を一枚だけ撮りたいの」
そう言いながら携帯を取り出した千尋が、ベストアングルを狙って身体を構えます。
不安定になりかけてきた千尋のバランスを、康平が再び両手で支えます。
千尋の素肌の感触とぬくもりが、薄い生地一枚だけを通して康平の両手へ伝わってきます。
もう一度バランスを失いかけて傾きをみせた瞬間、康平へすべての体重をかけるような
体勢で、しっかりと千尋がもたれかかってしまいます。
しかしバランスを取り戻した当の千尋は、まったく気にするような様子を見せず、
『もう一枚ね!』などと、運転席で呑気な声を上げています。
100年以上の風雪を耐え抜いてきた目の前の風景に、今や完全にのめり込んでいます。
「あら!」ようやく撮影を終えた千尋が、運転席から康平を見下ろしたとき、
やがて、あられもない事態のすべてを察知します。
康平へ自分の下半身をすっかりと預けている姿を見つけて、一瞬にして羞恥のために
顔を真っ赤に染めてしまいます。
(あらら・・・・どうしましょう。不本意ながら、結果は、またまたの大失態です!)
「下から支えていますから、そのままゆっくり腰を沈めてください。
バランスを崩して落ちると、この高さからでも大変なことになってしまいます。
千尋さんは、無邪気なくせに、時々大胆なことをやってのけるタイプのようです。
大丈夫です。健康なお色気ぶりを充分に感じましたが、変な妄想は一切していません。
予想外に軽かったので、内心驚きました」
反省でもしているのかヘルメットを装着した千尋は、無口のままバックシートへ
チョコンとして収まり、出発の瞬間までうなだれた形でじっと待っています。
康平が運転席へ座ろうとした瞬間、『あっ』とまた何かを思い出して、小さな声をあげます。
『私の足跡!』あわててハンカチを広げると、手早く運転席へそれを敷いてしまいます。
『気がつくのが遅すぎるのよね。うっかり者の私は』その小さな声のつぶやきは、
ヘルメット内のインカムを通してしっかりと、康平の耳まで届いています。
『悪意が無いから可愛いんだと思います。無邪気さも千尋さんの魅力のひとつです』
そう答えている康平の小さな声も、やはり同じようにヘルメット内の
インカムを通じて、千尋の耳へしっかりと届いていきます。
バックシートから伸ばされた千尋の両手は、柔らかく康平の腰へ巻きつきます。
まるで自分の体温をすべて伝えるかのように前傾をしてきた千尋を乗せ、康平のスクーターは
はるかに見える養蚕農家群の中心地へ向かって、再び静かに発進します。
群馬県東部で、常に養蚕界で先進的な役割を果たしてきた境町・島村に
今でも現存をしている大型の養蚕農家は、全部で72棟を数えます。
櫓付きで総2階の瓦ぶきという建物のほとんどは、幕末から昭和初期までに建てられました。
それらの中において、中心的な役割を果たしてきたという田島弥平旧宅は、家屋内に残されていた
棟札から、1863(文久3)年の建築であることが確認をされています。
田島弥平旧宅がある伊勢崎市境島村地区は、江戸時代の中期から蚕を育てて繭をとる
通常の養蚕と共に、その蚕のみなもととなる蚕種(さんしゅ)製造がきわめて盛んな土地柄でした。
田島弥平は島村養蚕の近代史において、もっとも先進的な役割と仕事を成し遂げてきた、
蚕種製造を代表する農家の筆頭格です。
蚕種(さんしゅ)とは、カイコの卵のことをさす産業用語です。
繭をとるために飼育をされるカイコは、『普通蚕種』と呼ばれる蚕種から孵化したもので、
日本種と中国種を交配して作り出される交雑種のことです。
普通蚕種を作る親の蚕種は原蚕種と呼ばれ、原蚕種の親の蚕種は原原蚕種と呼ばれています。
カイコの雌のガは、交尾後にたいてい500粒から700粒の卵を産みます。
この卵から、やがて蚕を生み出すための準備と育成が蚕種製造という仕事です。
普通蚕種を得るための原蚕種は、雌雄合わせて最低でも2億粒が必要とされています。
蚕の飼育には難しいものがあり、年によって収量に大きな差がでます。
弥平は各地にある養蚕方法を研究した結果、蚕の飼育には自然の通風が重要であると考え、
「清涼育」を大成し、安定した繭の生産に成功をします。
また「清涼育」に適した蚕室の工夫なども積極的に行ってきました。
文久3年(1863)に、棟上に換気設備を備えた、瓦屋根総二階建ての住居兼蚕室を建築します。
横方向の長さが24.3m、縦方向が9.1mにおよぶ大規模な建物で、1階を人が住まう住居とし、
2階を専用の蚕室としています。
弥平は「清涼育」の普及のため明治5年(1872)に『養蚕新論』を書き下ろします。
ヤグラを取り付けた養蚕農家建築は、その後の近代的な養蚕農家建築の標準になっています。
「実際に間近で見ると、さすがに大きいですねぇ」
弥平旧宅の屋敷門の前に立ち、見上げている千尋の口元からは
何度も溜息が漏れます。
入口の門は武家屋敷などによく見る、長屋門の趣と様式などを真似ています。
しかし右手には、蔵のような窓が見え、左側は、拡張された蚕室のような趣を見せています。
いずれにしても最盛期には、100人を下らない人たちが常時働いていたという豪農の屋敷です。
入口にある屋敷門を見上げたまま、千尋は何時まで経っても感嘆の声をもらしつ、
軽く口元さえ空けて、この初めて見る景色にすっかりと魅了をされています。
しかし、その入口には
『個人所有の建物につき、許可なく立ち入りことを厳しく禁じます』と、
黒々と書かれた看板が、高々と掲げられています・・・・

・「新田さらだ館」は、
日本の食と農業の安心と安全な未来を語る、地域発のホームページです
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