落合順平 作品集

現代小説の部屋。

からっ風と、繭の郷の子守唄(49) 

2013-08-06 11:24:20 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(49)  
「大木へ滝のように降り注ぐのは、2000リットルを超える消毒液」




 「親方。全部OKよ。いつでも発射、オ~ライね」


 浅黒い顔に真っ白の歯を見せ、運転席でイスラエルのイチローが笑っています。
気配を察した団員たちが、消毒専用の消防車両周囲へ集まってきます。
収納スペースからは次々と、劇薬を散布するときに用いる必須の道具類が取り出されます。
農薬用の防護マスク、保護メガネ、膝まで隠れる長靴、全身を覆うビニール合羽、
さらには、きわめて厚手のゴムの手袋などなど。
次から次へと取り出されては、参加者たちへ手早く配布されていきます。



 「もう一度だけ、確認をしておく。
 体調の優れない者や、著しく疲労している者はこの散布作業には参加しないこと。
 女が居るからといって、無理をすると後でロクなことがねぇ。
 それから今日は時折、風が急激に向きを変える。
 油断をするなよ。間違っても薬が届いてくる風下には立たないこと。
 それからもうひとつ、これがもっとも大切なことだ。
 散布作業をしている間は、絶対に保護メガネと農薬用マスクは顔から外さないこと。
 散布地点から遠くに離れていても、飛沫やガスはどこからともなく必ず飛んでくる。
 くれぐれも、自分の身は自分で守ること!
 いいな。わかったな!。頼んだぜ・・・・
 こんなところでいいかな、長老。なにか他に注意することがあれば付け加えてくれ。
 なにもなければ、これから全員で作業へかかる。以上だ」


 お祭り騒ぎのような盛り上がりを見せた、あのポンプ対決のときとは打って変わり、
全員が黙々と準備をしながら、やがてその臨戦態勢を整えていきます。
「ほら。本番だぜ」そう言いながら五六が、康平へマスクとメガネを手渡します。
「俺も何か、手伝いは?」と問いかければ、「素人は引っ込んでいろ」と
五六が笑顔を見せて手を振ります。



 「2000リットル余りのきわめて強力な消毒液が、これから、たったの5分で霧に変わる。
 想像を絶するような光景が、これから俺たちの目の前に出現をする。
 役者は全員揃ったし、条件のほうもぼちぼちと整ってきた。
 お前さんはここで、しっかりと結果を見届けてくれ。それがお前さんの仕事だ。
 じゃあな、行ってくるぜ」

 五六が、運転席のイチローへ合図を送ります。
弾みをつけるようにエンジンが唸りはじめ、2000リットルの水槽を抱えた赤い車体が、
小刻みに震えながら、じわじわとその圧力をあげ、間近に迫ってきた放水の準備に入ります。
2人ひと組の男女が、それぞれにホースを抱えながら前進を始めました。


 「接近をし過ぎるなよ。
 筒先は天に向けて、消毒液は、落ちてくる形を保って真上から注ぎ落とせ。
 間違っても水平に放水するんじゃないぞ。
 横からモロにぶつけたら、その勢いでアメリカを広範囲に撒き散らすことになる。
 それだけは絶対に避けるよう、充分に注意をしてくれ。
 いくぞ。たったの五分間だけの真剣勝負だ。
 お前さんたち、何があっても持ち場で、持ちこたえれくれよ」



 五六の合図とともに、最先端の筒先から白濁をした消毒液が放たれます。
勢いよく飛び始めた消毒液は、天に向かってひたすら大きな放射線を描いていきます。
最頂点へと達した消毒液の放射線が、細かく砕けて散りはじめます。
飛沫の塊と化した消毒液は、滝のような勢いのまま、激しく大木の頭上へ襲いかかります。
最先端で姿勢を固めたまま必至で筒先の角度を維持していた団員が、大きな悲鳴をあげました。
なにかを要請する悲痛な声も放たれますが、激しい水音にただちにかき消されてしまいます。
落ちる水滴の音と唸りを上げるエンジン音のため、少し離れた位置に立つ指揮者の五六の耳には、
まったく達せず、その内容すら聞き取ることができません。


 中間部でホースを支えていた華奢(きゃしゃ)な一人が立ち上がりました。
後方を振り返り身振りで応援を要請したその瞬間に、細い体はためらいも見せずにホースの
最先端へ向かって一気に駆け出します。
見覚えのある細身の背中姿につられて、康平も思わず立ち上がります。



 「あいつは・・・・長髪のおせっかい娘だ」


 五六のもとへ駆け寄った康平が、手にしていた雨合羽を奪い取ります。
雨合羽の袖へ腕を突っ込みながら、康平もホースの最先端へ向かってダッシュをします。
最先端では、男性団員が両腕でホースを抱え込みながら、必死で放水角度を守り抜いています。
最初に来る放水時の激しい衝撃が、男性団員の手首を即座に痛めてしまったようです

 消防が用いている特殊なホースは、送水と放水の圧力に充分に耐えられるよう、
カンバス地の丈夫な布を筒状にして、内部には補強のゴムがコーティングしてあります。
きわめて高い内部圧力が掛かることから、ホース自体では筒の状態が維持できず、
水を通していないときには、その重さのあまり平たく潰れてしまうほどです。



 ポンプから水を送るホースの部分は、アタックラインと呼ばれています。
通常の場合、このアタックラインを延長していくのは2人です。
長さ20メートルで、径が65mmのホースに水が入ると、その重量は60キロを超えます。
ホースの重さと合わせれば、総重量は75キロに達します。
消火作業においては、このホースを2本、3本と連結をして放水地点まで侵入をします。
ホースの径が増すほど水の重量は増し、水圧が上がれば上がるほど、必然的に
ノズルへの反動も大きく激しいものとなります。
2つの数字が上がれば上がるほど、ライン保持をする消防団員たちの数も増えていきます。


 「交代するっ。大丈夫、手首!」



 長髪美女が、内部水圧に抵抗しつつ激しく振動を続けている筒先へその手を伸ばします。
「いいや。無理すんな。俺がやる」と、その手の上へ康平の両手が覆いかぶさります。
細かい水滴が激しく降り注ぎ中、美女が驚いた顔で康平を振り返ります。


 「何しに来たの、あんたまで。
 五六に言われたばかりでしょう。ど素人は引っ込んでいろって!」



 「悪かったなぁ。長い髪のおせっかいさん。
 これでも、五六と同期の入団で、まもなく10年をこえる、れっきとした消防団員の一人だ。
 ただし、仕事の都合で火事場へ顔を出したことはこれまで只の一度もない。
 だが、ポンプ操法も一応は身につけている。
 ようするに消防団員だが、まったくの幽霊団員の一人だ」



 「そういうことだから、一番員(ホース最先端の担当者)くんは、後方へ下がってよし。
 痛みに堪えて、よく頑張ったわね。あとはまかせて、私たちに」


 「私たちという意味は、ここにいる幽霊団員も認めてくれたという意味か」

 「他にはいないでしょう。康平くん以外に」


 「ありがたい。俺たちには、やはり少なからぬ縁があるようだ」



 上空から舞い落ちてくる飛沫が、風に運ばれながら顔を横殴りにしていきます。
農業用のマスクとメガネを激しく叩きながら水滴が砕け散り、ガス状に変わった消毒液が
二人の周囲一面に立ち込めてきて、さながら濃霧のように二人を覆い隠していきます。



 「5分は長いよな・・・・こうして踏ん張っているだけでも」



 「もっと長くてもいいと思うわよ。康平くんとなら。うふ。
 でも無理かぁ・・・・バレたりしたら美和子に、こっぴどく怒られるしなぁ。
 それにしても、この筒先の振動は強烈だわね」


 降り落ちてくる水滴を浴びながらも、曇りはじめたメガネの奥から
長髪美女がかすかな微笑みを、康平に見せています。



(強いよなぁ女って・・・・びしょ濡れの修羅場だというのに、余裕で笑えるんだもの。
 しかしこいつ、以外に笑うと可愛いなぁ。今日までまったく気がつかなかったが・・・・)





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