落合順平 作品集

現代小説の部屋。

からっ風と、繭の郷の子守唄(63)

2013-08-22 10:24:02 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(63)
「シルクに魅せられた千尋が語る、インド旅行の想い出」



 「折角のご縁です。
 私はこの家にとついだものの、家業にはつかずそのまま教師生活を続けてまいりました。
 残念ながら蚕種や養蚕に関しては、いまだに素人同然の身です。
 できればそんな私に、座ぐり糸作家のあなたの話を少し聞かせてください。
 お若い方が、この時代にわざわざ糸を紡ぐなんて、興味深々です」


 奥さんからそう問われた千尋が、自分の生い立ちについて語りはじめます。
和歌山県の海沿いの小さな町に生まれた千尋は、18歳で京都・嵯峨野にある美術学校へ進学をします。
卒業旅行も兼ねた友人たちとのインドの旅行が、千尋へ最初といえる『絹』の衝撃をもたらします。
とても手触りの良いインドシルクと呼ばれる、一枚のスカーフとの出会いが、
後になり、やがて千尋の運命を大きく変えることになります。



 「インドは28の州と、7つの連邦直轄地域に分かれています。
 州は、言語の違いなどで線が引かれています。
 大きな州はヨーロッパのいくつかの国や、日本よりもはるかに大きいものです。
 連邦直轄地域は、州よりも小さく、あるときは単にひとつの市だけの場合もあります。
 インド産のシルクと、インドに出回るシルク製品のほとんどが北部にある
 バラナシという地方で生産をされています。
 私はそこで、原始の繭を使って生産をする、貴重な絹の『野蚕糸』と出会いました。
 『ムガサンシルク』と呼ばれ、インド北東部のアッサム地方にのみ生息する
 ヤママユガ科のムンガ蚕が吐く糸で作られるものです。
 淡い褐色の繭は繰糸後に美しい黄金色に変わるので、『ゴールデン・シルク』や
 『ゴールド・ムンガ』などと呼ばれています。


 日本とは異なり、バナナや麦わらの灰汁を入れて煮繭します。
 繰糸する工程を経て着物生地として完成するまでの全工程を、すべて現地で生産しています。
 そのため、生産量はごく少量に限られます。
 シルクといえば白い洗練された絹糸などをイメージしますが、
 家蚕(養蚕)によって作られた絹糸とは異なり、野蚕糸は繭の大きさや色もさまざまで、
 同じものを大量に生産することはできません。
 それゆえに、個性的なことはもちろん、大変に付加価値の高い織物になります。
 蚕の種類と食べ物や季節によっても、様々な色と風合いが生まれます。


 ムガサンシルクは主にモクレンの葉を食べ、
 アクの強い春の葉を食べて育った繭は茶色系の『ゴールド・ムンガ』、
 アクの弱い秋の葉を食べた繭は白い『プラチナ・ムンガ』と呼ばれる野蚕糸を紡ぎだします。
 ケヤキや栗、樫、クヌギやブナなどの新芽を食べる蚕から生産される
 『ギッチャーシルク』は、大型で色は褐色がかっています。
 インド野蚕の大きさは、日本で飼われている蚕の1,5倍ほどの大きさになります。
 日本の蚕が普通4~5g程度なのに対し、インド野蚕は6g以上になるものさえあります。
 大人の着物を1着作るのに必要な和服地の量を、1反と言います。
 日本の蚕の場合、一反の絹織物をつくるのには約2700頭の蚕が必要となりますが、
 インド野蚕では、2000頭前後で一反の生地が作れます。

 
 インドシルクに衝撃を受けた私は、日本に戻ってから絹について学びはじめました。
 イラストかグラフイックの世界へ進むはずでしたが、卒業を直前にして何故か、
 京都の街中にある反物屋さんと呉服屋さん巡りを始めてしまいました。
 たまたま一軒の呉服屋さんに声をかけてもらい。そこへの就職が決まったことが、
 今日の、糸紡ぎの世界へ入るきっかけになりました。

 国内一の繭と生糸を生産している群馬県へ注目をするようなるまで、
 それほどの時間はかかりませんでした。
 インターネットで『座ぐり糸養成講座』という募集を見つけた瞬間から、
 私の糸を紡ぐ人生が、この群馬県で始まりました。


 群馬県内の各地にある、かつての養蚕業の繁栄ぶりの今に伝えるたくさんの施設や
 遺跡などをこうして見て回っているのも、私の5感で群馬の生糸を直接に感じてみたいからです。
 私は、私の5感で糸を紡ぎたいと心から願っています。
 将来的には小さな工房を持ち、自らの手で桑を育て蚕を育てて糸を紡ぎたいと考えています。
 私はその夢を実現するために、こうして群馬へやってきました」




 「もう、その夢は実現しはじめているようですね。
 あなたのその輝やいている瞳は、希望に満ちていて、とても素敵だと思います。
 まだ、いらしたのですねぇ。これほどまでに情熱的に糸を紡ぐ女性が、この群馬にも。
 では住所などをお教えしますので、後ほどに私の実家を訪ねて見てください。
 そこでは母がいまだに細々と『赤城の糸』を紡いでおります。
 実は噂で聞いていたのですが、あなたのことでしょう?
 赤城の山麓を駆け回りながら、『赤城の糸』を紡ぐ女性たちを探し回り、
 黄金の糸を吐く『群馬黄金』の蚕を飼い始めたという、小さな頑張り屋さんという
 座ぐり糸の作家さんは」


 意表を突かれたために、千尋の目が思わず点に変わります。
そんな千尋を見つめながら『驚くにあたりません』と、奥さんが目を細めて笑います。


 「広い勢多郡の一帯ですが、私の母も含め、
 節のある赤城の糸を紡いでいるのは、もう、おそらく10人とは残っていないでしょう。
 赤城山の麓で、昔ながらの道具を用いて、丹念に手引きをされるのが座繰りの糸です。
 かつては、日本全国のどこの養蚕農家で見られたというこの風習も時代とともに衰退し、
 今では、赤城の山麓に僅かに残るのみと聞いています。
 高速回転で糸を巻き取る機械製糸とは異なり、糸の様子を見ながら
 人の手で無理なく糸を引き出すために、糸自体が傷まずに、
 繭本来の光沢を損なわない出来上がりになると、そう言われているそうです。
 空気を含くんだふんわりとした軽い弾力があり、引く人のそれぞれの個性を表すような
 表情豊かな糸が生まれてくると、いつも母が語っておりました。


 父が養蚕をいまだに続けているのも、そんな母の
 背中姿へ、なにやらの愛着などを感じているせいかもしれません。
 父も母もそのようにして70年以上の人生を、蚕と繭一筋に生きてきたのですから。
 京都から糸を引くために女の子がやって来たという話は、もう赤城では有名な話です。
 ましてや興味や趣味ではなく、生業として取り組もうというのですから、
 糸をひく女たちからして見れば、まさに女神の降臨にも近いと思われる出来事でしょう。
 あなたが最初に戸口から土間を覗いたときに、ピンときました。
 2階の蚕室をお見せした時のあの真剣な表情に、間違いがないと確信をいたしました。
 こう見えても私は、島村の遺跡を紹介するボランティアガイドのひとりです。
 ただし、お蚕などの経験は一切ありませんので、耳学問だけのにわかガイドです。


 そうですか。
 あなたは、5感で感じて糸を紡ぐのですか。
 いい表現だと思いますし、実際にその通りだと思います。
 私の母も、自然のままに、いつも楽しそうに糸を紡いでおりました。
 カラカラとまわる糸車の音は、わたしへの子守唄のような響きさえありました。
 途絶えると思われていた古い伝統が、こうしてこんな形で引き継がれることも有るのですね。
 まさに奇跡に近い出来事ですが、それは島村のやぐらを持つ農家とて同じことです。
 未来へ向かって残したいものを、地道に支えてながら後世へバトンタッチをしていく・・・・
 そのあたりに、島村に生きる私たちの使命がありそうです。
 あなたに会えて発奮しましたので、もう少し私も、真面目にガイドの勉強をしようと思います。
 あなたと会えてよかった。今日はわざわざ、ありがとうございます。
 あら、あちらのほうでも、長いバイク談義が終えたようです。
 旦那様かしら? 用が済んだから次へ行くぞと、あなたを呼んでいるような様子です。
 ふふふ・・・まったく男の人というものは、常に、自分勝手で短気ですね。
 またお越し下さいな。ふたたび会える日を楽しみにしております」




 奥さんの丁寧なお辞儀に見送られ、千尋が母屋から表へ出ます。
初夏の燦々とした日差しを受けて、屋根一面に敷き詰められた本瓦が、まぶしく、
青黒い照り返しなどを見せています。
康平はすでに門の外に立ち、除草用の道具を手にしたままのご当主と、
残りの会話などを楽しんでいます。


 優良な蚕種を何世代にもわたって育て上げ、
大いに隆盛を誇ってきたやぐらを持った建物たちが、その役割をすでに終焉させても、、
今日もまた、同じ一日が島村の養蚕農家群では始まろうとしています。
『あら、まだ午前10時を過ぎたばかりです!』腕時計を覗き込んだ千尋が、
意外なほどゆっくりとすすんでいる時間の展開に、すこしばかり戸惑いなどを感じています。




 
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