おはようございます。
昨夜からの続きでこの話になるわけですが、こちらのツイッター上でのつぶやきをまずは読んでください。
このところ私、学校や保育の「危機管理」論や「リスク管理」論に批判的なまなざしを向けなければいけない、と思い始めています。
というのも「危機管理」にせよ「リスク管理」にせよ、その管理する側の主体が何を「危機だ」あるいは「リスクだ」と感じているかによって、その管理の手法が大きく異なってくるからです。
それこそ、たとえば、まず先にメディアを抑えて自分たちに都合のいい情報を流して、いろいろ問われている人はほとぼりが冷めるまでおとなしくしておく。
そういう「危機管理」術もありえます。
こういう「危機管理」術は、時間たてば同じ失敗を繰り返します。
なぜなら、問題の根を断ちきって改善したわけではないから。
でも、こういう「危機管理」術を使う人にとっての「危機」とは、要するに「自分たちのところに批判の矢がとんできて、政権運営などの立場が危うくなること」ですよね。
だから自分たちに矢がとんでこなくさえなれば、「危機」から脱した。
つまり、見事な「危機管理」ができた、という話になるわけです。
同様に「訴訟リスク」という言葉もあります。
たとえどんな不祥事が起きようが、重大事故が起きようが、「訴訟が起きて自分たちの立場が問われること」自体が「リスク」だと認識しているのであれば、「訴訟が起きないようにする」あるいは「訴訟が起きても負けないようにする」ことが「リスク管理」術になりますよね。
そして、こういう「リスク管理」術を使いこなすことに長けてしまうと、根本的な不祥事や重大事故の防止をどうするかという議論がおろそかになってしまいがちですね。
そんなことから、この松井計さんのツイッター上のコメントに対しては「ちょっとちがうんだけどなあ」って思いました。
要するに「危機管理」のポイントが狂っているんですよ。
で、そのポイントの狂いは、実はその「危機管理」が何を目指しているのか、何が守られるべきかという理念・思想的な次元にそもそも問題がある、というのが、少なくとも私の考えです。
<参考>
戦前か!自民党がHPで“「子供たちを戦場に送るな」という偏向教育を行う教員”の通報を呼びかける密告フォーム
(リテラ、2016年7月9日配信)
http://lite-ra.com/2016/07/post-2401.html