前にもどこかで書いたかと思いますが(このブログかも?)、私は学校での子どもの重大事故・事件を防ぐためにいろんな取り組みをするべきだとは考えています。
ただし、その営みが同時に、たとえば「リスク管理」や「危機管理」あるいは「未然防止」の大義名分の下に、政治・行政権力による子どもや保護者、教職員、地域住民等々への監視強化などのいわゆる「監視社会化」を招くことに対しても、強い警戒心を抱いています。
あるいは、あらかじめ重大事故・事件が起きる「危険性が高い」とか、そういう事故・事件に巻き込まれる・引き起こす「リスクがある」とされる人々、行為などを全面的に「排除」するような、そういう「排除型社会」の成立に対しても、強い警戒感を抱いています。
だから、一方で「監視社会化」や「排除型社会」につながる危険性を回避しつつ、同時に重大事故・事件を防ぐことのできるような、そういう教育実践(保育関係者を前にすれば保育実践となるでしょうけど)のあり方、さらにはこれを支える教育(保育)の条件整備のあり方に、私としては当然、目が向くことになります。
また、重大事故・事件の防止という観点から見た場合の、たとえば学校の教職員や保育士などの現場実践者の子どもの成長段階やその時々の状態を見守る「目」のあり方、つまり子ども理解やこれをささえる教育(保育)観、教育(保育)思想・理論などにも、私としては当然、関心があります。
つまり、重大事故・事件の防止や発生後の対応に関しては、「本来の教育学(保育学)の研究に立ち返って、何ができるか?」という次元から、ていねいにものを考えていきたい・・・・と思うわけですね。
その一方で、最近、ツイッターを見ていると、ある社会学者の次のようなつぶやきを目にしました。
大変残念ですが、私としてはこのような発想はいくら子どもの重大事故・事件防止の可能性が高まるとはいえ、併せて上記のとおりの「監視社会化」や「排除型社会」を招きかねない危険性があるので、とても同意しかねます。
というか、ほんとうに社会学者として多面的に現代社会のありようをふまえて、子どもの重大事故・事件の防止のあり方を考察される方であるならば、このようなことを書くことにもう少し「ためらい」や「自らの発想への疑念」みたいなものを示してほしい・・・・とも感じました。なお、社会学者としての彼のコメントに対して、すでに海外在住経験のあるスポーツジャーナリストの方から「たいした効果はない」的な批判がでているので、それも併せてご紹介しておきます。
中学校のすべての教室や運動場や体育館に防犯カメラを設置して、それをすべての人が見ることができるようにすればよい。公教育は公共サービスなので、公共の目にひらかれているのが当然。すべての人が見て監視する権利があるのが当然。暴力や露骨ないじめは一掃される。
— 内藤朝雄 (@naitoasao) 2016年5月2日
トイレや更衣室に防犯カメラをつけたら児童ポルノや性的虐待につながる。でも、いじめはそういうところでも起こる。私は子どもが使う施設で死角を少なくするトイレを見学させてもらったことはあるけど。 https://t.co/AG1jLm1cvm
— 谷口輝世子KiyokoTaniguch (@zankatei) 2016年5月3日