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京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

数字の意味を問う必要性

2006-11-01 18:52:01 | 学問

私たちは普通、ある店で商品・サービスを選ぶときに、その商品やサービスの値段をどのようにして比較するだろうか。

例えば、同じように「牛肉を使った料理を食う」という場合でも、高級ステーキ店やすき焼きの店に入る場合と、ファミリーレストランでハンバーグを食う場合と、街中の牛丼屋に入る場合とでは、同じようなものさしで比較しているだろうか。

少なくとも私の場合は「ちがう」。やはり、「早い・うまい・安い」を求める場合と、「ゆっくりと、ゴージャスな雰囲気を味わう」場合では、同じように「牛肉を使った料理を食う」場合の値段の高い・安いを比べる基準は変わってくる。

もっと具体的に言えば、私なら500円前後でなら牛丼屋の値段も「まぁそこそこか」と思うが、千円を超えたら「こりゃ高いなぁ」と思う。反対に、高級ステーキ店で千円程度の値段であったら、「めちゃくちゃ安い!」と思うだろう。と同時に、あまりにも高級ステーキ店で値段が安かったら、「これはなにかウラがある」と思ってしまうだろう。

要するに、その店、その店で提供されるものが違う以上、「そこでどんな商品・サービスが提供されているのか?」ということの検討を抜きにして、値段だけを比較したって、しょうがないという話である。

地方自治体の行政サービスやコストについても、これと同じで、「各自治体でどんな行政サービスが展開されているのか?」ということの検証を抜きにして、ただ「人口一人あたりいくら」という数字だけ比べても、私などは「意味のない話」と思ってしまう。

なぜなら、歳出削減に努めたかわりに住民サービスもセルフサービスの店並みに低下しているのであれば、「そりゃそうだろう」と思うし、たとえ高コストでもいろんな住民サービスが受けられるのであれば、「それもありだよな」と思うからである。

要は、高いコストがかかっていても、それに見合うだけの住民サービスが質・量ともに提供されているのであれば、「それでよし」と思うかどうかという、評価する側の価値基準の問題である。ここの部分こそ、まずはきちんと検討しなければいけないはずであろう。

ところが、今日、朝日新聞がネット配信した記事を見ると、「自治体が行政サービスを提供するのに要した人件費・物件費など」を大阪市が調査して、政令指定都市間では「6年連続1位の高コスト体質」だったとか。そして、その高コスト体質の原因に人件費があるということを、この朝日新聞のネット配信記事では伝えていた。

しかし、そもそも、こういう「数値比較」が成り立つのは、大阪市と他の政令指定都市の間で、提供される住民サービスの質・量が「ほぼ同レベルだ」という場合でしかないはず。それを、無理に人件費も物件費もごちゃまぜにして、単純に人口で割って、「ひとりあたりいくら」などという計算をして他市と比べるというのは、一見「数字」も使っていて「公平」なように見えて、実はものすごく「乱暴」な議論でしかない。

こんな感じで、行政当局のマスメディア経由での公式発表の場で、「数字」がもっともらしく用いられるときには、そこには何か「隠された意図」があると見てよいのではないだろうか。また、この程度の新聞のネット配信記事に対する批判的な読み方は、大学の学部1・2回生の学ぶ基礎教育科目レベルで、統計数値の批判的な読解方法に関する勉強ができればある程度可能であるし、このごろは新書本レベルで統計の批判的な読み方を開設した本も出ている。

ちなみに、こういうことを今、大阪市がマスメディア経由で報道して何を狙っているか。言うまでも無く、次年度の予算編成での人件費圧縮を狙って、そのための「世論形成」である。そして、「人件費圧縮」方針のことは、朝日新聞の記事でも市財政局の担当者の言葉としてストレートに書いてあるし、ミエミエである。

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