できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

「政治的支配の道具」としての各種助成金・給付金

2010-03-13 12:58:32 | ニュース

今はやっぱり、この話題からブログを書くことにしましょうか。

http://www.asahi.com/kansai/sumai/news/OSK201003130011.html

(「朝鮮学校、総連と一線を」橋下知事 学校側は検討約束:朝日新聞2010年3月13日付けネット配信記事)

http://www.asahi.com/seikenkotai2009/TKY201003110535.html

(朝鮮学校、無償化除外へ 文科省「教育内容の確認困難」:朝日新聞2010年3月12日付けネット配信記事)

http://www.asahi.com/international/update/0226/TKY201002260141.html?ref=reca

(高校無償化 朝鮮学校除外の検討に国連委から懸念:朝日新聞2010年2月26日付けネット配信記事)

http://www.asahi.com/politics/update/0312/TKY201003120215.html

(朝鮮学校の教育内容、第三者機関が検証へ 4月に設置:朝日新聞2010年3月12日付けネット配信記事)

まぁ、まだまだ探せばこの問題に関する記事はたくさんでてくるのでしょうけど、だいたいこのあたりでいいのではないでしょうか。

まず、この問題に対する政府の対応について、子どもの権利保障等々の観点から見ていろんな懸念、疑義、批判等があることは、次のコメントからもわかると思います。

http://koukyouiku.la.coocan.jp/

このホームページに、この問題について、公教育計画学会が3月7日付けで出した声明文のファイルがあります。私も基本的に、この声明文の内容を支持します(まぁ、この学会の会員でもあるから、当然ですが)。

その上で、最近の一連のこの問題に対する政府の対応、あるいは大阪府知事サイドから発信されている情報を見ると、やはり、子どもの権利保障に限らないのですが、私たちの生活のあらゆる面でおりてくる政府・自治体からの各種給付金・助成金といったものは「政治的な支配の道具」として、その時々の立法・行政などの権力を有する側から用いられる危険性がある、ということに気づきます。

つまり、立法・行政などの権力を有する側は、助成金や給付金など、何らかの形での住民(あるいは国民)に対する「権利保障」の枠組みを準備しつつ、ある特定のマイノリティに対して、その人々が何らかの「権利保障」から「排除」の対象になりうる可能性(危険性)を示唆することによって、自らへの支持・同意等をとりつけようとする。

と同時に、このような手段を講じることによって、その特定マイノリティ以外の集団に対しても、ある種の「みせしめ」「威嚇」的な効果が発揮される。すなわち、ある特定のマイノリティを「やりだま」に挙げてみせることによって、立法・行政などの権力に対して何らかの形で「抵抗」を示すような対象になれば、「排除」の可能性(危険性)が待っていることを示すだけで、損得勘定に長けた人々は自己抑制的に行動する。

そして、経済的に生活困難な状況にあるマイノリティほど、こうした給付金・助成金は、やはり「救いの光」のように見えてしまう。しかし、その「救いの光」のようにみえる給付金・助成金を受け取れば受け取るほど、今の支配的な社会秩序への同化を求められたり、最低でも「おとなしく、じゃまにならないようにすること」が要求されるという、そんなジレンマにも立たされる。

そんな「政治的支配」の手法のあり方が、私には、どうもこの問題から透けて見えるんですよね。

それに、そもそも、長い間「学校教育法1条校」から朝鮮学校をはずしてきた経過自体、日本の戦後教育行政、教育政策の大きな問題があるわけですしね。朝鮮学校が日本の高校に相当する授業内容を持っているのかどうかわからない、国交がないから確かめられない、第三者機関を作って今から検討する、なんて話は、「いまさら、文部科学省がよくいうよ」というしかない話です。

そこで行われている民族教育の賛否はさておき、日本にある朝鮮学校がどんなカリキュラムで運営されているかくらい、教育行政当局はすぐに調べられるでしょう。だいたい、今の制度上、朝鮮学校は各種学校として認可をされているわけですが、その認可をするとき、監督官庁はどんな書類を出させて、何を見て決めたのでしょうかね?

だからこそ、私はこのような方法を使っての「高校授業料無償化」には、たとえ一方では子どもの人権保障を拡大するものという側面はあるにせよ、すんなりと「OK」とはいえません。というか、たとえ政権交代をしても、知事が交代しても、国レベルか地方自治体レベルかはさておき、日本の立法・行政は「こんなことしかしないのだ」という現実を、あらためて見せ付けられたような気がします。

やっぱり、それが国レベルであれ、地方自治体であれ、立法・行政などの権力を有する人々に対しては、住民(国民)は「批判的なまなざし」と「警戒心」を持って接するのが一番。

特に、タレントのようにテレビに出まくったり(現・大阪府知事は「タレント弁護士」でしたが)、選挙のときに「子どもが笑う○○」といった掛け声だとか、マニフェストで各種給付金や助成金などの「甘い汁」をちらつかせながら、私たちの生活の場にすり寄ってくる権力ある人々に対しては、より一層の「批判的なまなざし」と「警戒心」が必要ではないでしょうか。あとで「裏切られた」とか、「あんな人だと思わなかった」とかいわないためにも。

ついでにいうと、ほんものの人権教育というのは、まずはこのような権力に対する「批判的なまなざし」と「警戒心」から出発しないといけないと思うし、その「まなざし」や「警戒心」を支えるものとしての「学力」だと思うのですが・・・・。

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