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家計を守り抜く妻の役目『おまつと利家』

2024-09-20 07:56:44 | 歴史から学ぶ
加賀百万石、創設者前田利家とまつの時代(織田・秀吉・徳川)3代に仕えた前田家は子沢山の家系で妻のまつの役割と人生の選択は多難だったと感じる。特に賤ヶ丘の戦い後の前田家の秀吉と徳川に対する立ち位置と血縁関係(秀吉へ豪姫、秀忠から珠姫)は複雑で関ヶ原戦いでまつは自ら徳川の人質になり江戸に赴く。その時利長への叱咤は「侍は家を建てることが第一、おい先短い私には、人質に行く以上、覚悟はできています。決して私のことを思って家を潰してはなりません。母を捨てても構いません」と14年間、利家の臨終には立ち会えず、長男利長が亡くなるまで、決断と強い意志は素晴らしい「国母」であったと思う。
『おまつと利家』集英社
「概要」夫婦の二人三脚で築き上げた大大名の地位。夫・利家亡きあと訪れた危機。人質として江戸に下る前田家のお袋様・おまつを中心に、加賀百万石を守った家族の物語をつづる。
ー前田家400年の基礎作りは
    利家は愛知郡新子の生まれで荒子城主前田利昌の4男、15歳で元服、信長に仕える
    織田信長の家臣として秀吉、利家は家臣として一緒に行動を共にする
    越前での地で1万石の所領を得て柴田勝家に従った
    利家は佐久間盛政との生涯2度の戦い、末森城の合戦で佐々成政で勝利
    賤ヶ岳の戦いで柴田と協力して戦いを始めたがその後秀吉側に参画、柴田勝家は滅亡
        利家と利長は柴田軍と出陣(3万)vs秀吉軍(7万5千)
        織田信孝が反旗を翻したことで秀吉が大垣に急行、そこを狙って佐久間盛政が反撃
        秀吉は急遽取って返し佐久間成政と柴田軍が対決する
        利家は退却し両者との戦いを辞めた(嫁の関係)
 ー秀吉と利家 寧々とまつ 緊密な友好関係を築いていた
        子供が11人(2男9女)、麻阿姫は秀吉の側室に、豪姫は宇喜多の養女
        その他の女は全て前田家の家臣に嫁がせた
        利長は信長の娘永姫を正室に、本能寺編後秀吉に仕えて中納言に昇進
        秀吉の死後、数ヶ月後利家も亡くなり、家康は前田家に謀反(暗殺容疑)を掛ける(家康にとっては前田家は次なる脅威の相手だった)
    家康との関係は秀吉没後の二代目利長の時代にまつは人質となり京から江戸に住む
        秀忠の二女珠姫と利常との婚儀、利長は44歳で隠遁、53歳服毒自殺説
        (珠姫3歳、利常9歳と言う婚姻関係を作る、その後3男5女を出産)
        珠姫は24歳で没、利常は53歳で没
        隠遁した利長は謀叛を隠すため「鼻毛」を伸ばし水ぼらしい姿をわざと見せていた
ー金沢城
    加賀藩十四代300年続く城下町には1583年に能登七尾の小丸山城から入城
    明治14年には失火で石川門と30軒長屋のみ残り焼失、その後軍隊の師団基地とした
末森城の戦いでの言葉
    まつの利家に対する言葉「人を召し抱えて育てることこそ肝要と。それなのに金銀をお抱えになっている。国治ってからでも遅くはないのに、そんなに金銀が愛おしいなら、それらに槍を持たせて召し連れさなれませ。金銀に槍を突かせば宜しかろう」
ーおまつ(芳春院)と子供
    13歳で初産、2男9女を産んだが、京都、江戸に長く住む。
    関ヶ原の戦いお前夜、徳川の人質として江戸に降る。利長は東軍に就く。
    まつは利長に対して叱咤「侍は家を建てることが第一、おい先短い私には、人質に行く以上、覚悟はできています。決して私のことを思って家を潰してはなりません。母を捨てても構いません」と14年間、利長が亡くなるまで江戸に
    利長が亡くなった後、金沢に帰省、だが3年後に金沢で亡くなる
    利家の三女摩阿姫(柴田家佐久間十蔵と婚姻)その後秀吉の側室となり、秀吉没後は万里小路家を継ぐ(34年の生涯)
    利家の四女豪姫は秀吉の養女となり、豪姫16歳は宇喜多秀家の正室として婚姻
    徳川幕府で夫と子供二人は八丈島へ島流、豪姫は娘二人と前田家に戻る、61歳没、
        (明治になり恩赦をもらい釈放されるが夫は83歳で没)
        秀吉の言葉「男であったら関白の地位を与えようものを」
参勤交代
    加賀藩の参勤交代は合計227回、12泊13日~15泊16日の日程で参加者は2千名から3千5百名、費用は現代の金額で2億円+諸々の経費=約8億円
ー金沢文化
    五代綱紀になって積極的に許文化を導入し独特の金沢文化を築き上げる
    楽焼き、友禅、、宝生流の能、美術の本阿弥光悦、画家の狩野探幽、金工家の後藤程乗
    前田家に残る遺産は唯一成巽閣の建物が現存
    金沢城での石管を使ったサイホン技術(バテレンの築城技術採用)



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