@明治初代の主要国公使(主に元藩主達)は人物の有能無能は第二として、明治政府の「財政難」対策が為に「財産持ち」であるがゆえに選ばれたとある。更に多くは幕府時代に密航留学の経験者=罪人(外国語堪能)であり、後年は榎本武揚のような元幕府側が実務・実力・実績を求められる役割へと変化する。現代、外務大臣の鶴の一声で民間からの大使採用は厳しく、過去伊藤忠元社長の中国大使となった丹羽氏と極少ない。どの元藩主・公使も「内助の功」で諸国からの評価は高い、のには驚きだ。
『お殿様、外交官になる』熊田忠雄
「概要」明治政府は、藩主出身者、いわば「元お殿様」を公使として奥(妻)同伴イタリア、フランスなどの外国へ派遣していた。
ー主要国公使は人物の有能無能は第二として、「財産持ち」であるがゆえに選ばれたとある。それらの人材は幕府時代に密国し、留学した人材が選ばれた。その後明治26年(1893年)まで外交官の任命試験制定が無く「つるの一声」で決定された、という。その後試験は実務的な事からさらに「見た目の良さ」まで求められた、と言う。概ね公使の役割は「条約改正」だが接待、夜会、晩餐会、国主との謁見が主な仕事だった。特に日本からの要人への待遇接待は、任期後の重要ポストへの踏み台として重要だった、とある。
□鍋島直大(なべしま・なおひろ)
圧倒的な財力で外交の花を演じる「肥前佐賀藩藩主」から「イタリア駐在公使」に
帰国後、夫婦と共に鹿鳴館にて海外用人との外交接待役をこなす
□浅野長勲(あさの・ながこと)
洋行経験なく、外交官生活も二年で終了「安芸広島藩藩主」から「イタリア駐在公使」に
井上馨(外務卿)に「外から日本を眺めてみることが重要だ」との一言で決定
□戸田氏共(とだ・うじたか)
私学留学(アメリカ)で言語、鉱山学を学ぶ
当代一の美人妻が醜聞に見舞われる「美濃大垣藩藩主」から「オーストリア駐在公使」に
女好きの首相伊藤博文と妻のスキャンダル事件、天皇からの忠告で伊藤曰く
「恐れながら、他の者達は陰でこっそりやっていますが、博文は堂々とやっております」
醜聞の後、公使として夫婦共々海外へ飛ばされたと言う
戸田極子は琴でブラームスとの交流を盛んにした(前任者の浅野貞子は三味線だった)
□蜂須賀茂韶(はちすか・もちあき)
私学留学(イギリス)、妻の不倫位より離婚、新たな妻を迎えたが、妾もつける条件
妾を同伴で海外赴任を敢行「阿波徳島藩藩主」から「駐仏公使」に
当時妾を抱える公爵は100%、侯爵85%、伯爵77%、子爵51%もあったと言う
妻と妾一緒に赴任し、掛け持ち生活をフランスでもする
□岡部長職(おかべ・ながもと)
高い能力で明治の世をみごとに渡る「和泉岸和田藩藩主」から「駐英公使館参事官」に
私費留学でイエール大学の心理学を学ぶ、帰国後外務省、イギリス公使参事官、都知事
旧藩主で大臣になったのは3人:蜂須賀(文部)、堀田(逓信)、岡部(司法)
□柳原前光(やなぎはら・さきみつ)
ライバルに水をあけられる「公家華族柳原家」から「駐清公使」「駐露公使」に
1884年華族と認定された家:427家、内大名は271家、公家は137家
若干20歳で外務大丞、23歳で駐清公使に抜擢、30歳で駐露公使、その後皇室復権に努力
□榎本武揚(えのもと・たけあき)
朝敵から一転、引く手あまたの「使える男」「幕臣」から「駐露公使」「駐清公使」に
陸軍参謀黒田清隆(33歳)の要請、榎本(37歳)が復帰、北海道では石炭開発に従事
内閣制度で仇敵側の大臣は榎本のみ、農商務、文部、外務など歴任
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