これで昨年度以降、8人目の逮捕者。
ホンマに異常事態ですね、これ...
西宮市役所に対する信頼が地に墜ちていることを、様々な場で実感しています。
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還付金約200万円着服か 文書偽造疑いで西宮市職員逮捕
という話は一旦措いて、やや広報的な話など。
本日8月6日は、全国的には広島に原子爆弾が投下された日という側面が強いと思います。
が実は、それと同じ昭和20年8月6日に西宮市でも大規模な空襲があり、多くの方が被害に遭われています。
そのことを伝えようという趣旨で、浜脇小学校で行われた「西宮 空襲 語り継ぎの会」に行ってまいりました。
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以下、配布資料からの抜粋です。
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西宮の空襲
1941(昭和16)年12月に太平洋戦争が始まった。
西宮市は、その末期(1945(昭和20)年3月以降)アメリカ軍B29爆撃機による空襲を旧西宮市へ5回、旧鳴尾村へ8回受けた。
中でも、終戦(1945年8月15日)直前の8月5日夜半から6日未明にかけての爆撃は最大規模の空襲で、西宮市南部の大部分の家屋は灰塵と化してしまった。
広島へ原爆が投下される数時間前のことであった。
5日夜から6日未明にかけて、西宮では最大規模の空襲があり、後年「阪神大空襲」とよばれる。
5日夜発令されていた空襲警報は午後10時すぎに解除されたが、午前0時をすぎて再び空襲があった。
先に尼崎の空が真っ赤に染まるのが見え、間もなくB29約130機の編隊が鳴尾・西宮の上空に飛来。
市街地を目標にした真夜中の爆撃。
爆弾と焼夷弾で、市の南部地区一帯はほとんど焼失するという悲惨な壊滅状態となる。
旧西宮の死者485名、建物全壊13,464戸、罹災者56,591人(全市の約半数)。
西宮神社は境内に小型爆弾2発、焼夷弾300発以上落下、国宝の三連春日造り本殿が全焼、国宝の大練塀も約94間の瓦屋根・垂木を焼失。
市立高等女学校・商業学校・瓦木国民学校が全焼。
用海国民学校の木造校舎全焼、芦原・安井両校も一部焼失。(高等女学校生徒は一時浜脇国民学校南校舎に収容され、建石国民学校に移転。商業学校の生徒は一時今津国民学校に収容され、後、21年1月から浜脇国民学校南校舎へ移転。)
酒造蔵は、辰馬本家酒造株式会社の白鹿館を除いてほとんど罹災(95蔵)。
川﨑重工業・東洋鉄鋼など西宮市の工場は70%が罹災。
旧鳴尾村でも被災の範囲や死傷者の数において過去最大、16工場が壊滅、「文化村」と呼ばれた西畑の住宅地もほとんどの家が焼けた。
死者188名、住居全焼3,611戸、罹災者19,993人。
阪急電車の可動車数は総車両の40%、阪神電車は298両のうち59両(約20%)。
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実際に空襲を体験された方を中心に複数の方が様々に語り、こうした話を継いでいくことの重要性を改めて認識しました。
一方で、会の中であった「戦争からもう74年がたち、実体験として戦争を語られる方は今や80代半ばを超えた。あと数年たてば、実体験としての声を伝えていくことは非常に困難になる。」との声を重く受け止めています。
改めて、忘れてはならない重い事実であると痛感しています。
この会、来年も可能であれば8/6に開催予定とのことです。
私も日程の許す限り、参加させていただきたいと思っています。
というわけで今日のブログは、このへんで。
それでは失礼いたします。