青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

結果学、帰結学

2009年11月08日 | 人生設計
今日の学問には、色々な分野の学問がある。
ざっと並べると、

 工学自然科学社会科学情報学人文科学数理科学生活科学生命科学人間科学物質科学理学、宗教学

などがある。
だがこれらの学問には、「解(解答)」が一応はあっても、「結果的」な「解」、帰結的」な「解」への学問としては、用を成してはいない。
「結果的、帰結的」である「解(解答)」を出し得ないなら、学問は学問としての値を持ちえなくなっている。
それを、ちょっと例えを持って語ってみる。

よく「魂、霊」というものが、持ち出される。「怪談」や「幽霊」話である。
こうした「魂、霊、怪談、幽霊」というものは、その存在が「有る無し」に関わらずに、元々初めからあったものでは、無い。
これらのものは、我々人間が生きてきた経過から、発生している。
というのは、過去に生存した方達のものが、「魂や霊や怪談」であり、かつ「幽霊」となる。
それは、過去の人達の生き方の「結果、帰結」状態が、「魂、霊、怪談、幽霊」であることを意味する。

我々が学問をするという事は、それによって解答を得るためのものではある。
しかしその「解答」によって、それで「結果、帰結」されるものではない。
試しに言うと、物理学において「核反応」を突き止められたが、それは単なる「解答」であって、それが「核兵器」や「ミサイル弾頭」として使われるという「結果、帰結」という事を思い付かなかった。
もしこうした「結果、帰結」を思い付くならば、科学者は化学実験などをしなかっただろう。

それは、外の事でも言える。
色々な学問の発達によって、我々の生活は便利になってきた。そして「豊かで、楽しく、楽(快適)」になってきた。だがその一方で、廃棄物は増えるは、大気や水質は汚染されるは、資源を奪い合って争うは、はたまた「豊かさ、楽しさ、楽(快適さ)」を追求して、殺し合い、嫉みあっている。

こうなることを予測すべき学問、「結果学、帰結学」とでも言うべき学問がない。

もっとも、我々人間がこのように「結果学、帰結学」を持てないのは、外でもない、聖書にあるように「知恵の実」を持ったからである。
この「知恵の実」を、仏教で語られるように「無智」にしか活かせられないからである。
これは、「生命の道」に目覚めず、「豊かさ、楽しさ、楽(快適さ)」ばかりを追及するが故である。

コメント
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