行きつけの所で、こんなものを見た。
女性週刊誌、「週間セブンか、週間女性」だったかに載っていたが、最近は「介護前離婚」というのが多いそうだ。
この「介護前離婚」というのは、舅や姑を介護しないでおきたいために、認知症などのような介護状態にならない前に離婚してしまうのだそうだ。
それは「自分だけが幸せになりたい」がための、言い換えると「豊かで、楽しく、楽(快適、便利)」に過ごしたいためのものである。
しかしこの世は、そのように上手くはならない。
「自分だけが幸せ」になろうとしても、「自分だけが豊かで、楽しく、楽(快適、便利)」に過ごそうとしても、そうした「求める」というものは永遠なものでも、永続するものでもない。必ず「枯れる」という終わりがある。
人には「病気、事故、老い」というものがあり、そういう事になれば、求めるものも求め続けていけなくなる。
「求める」どころか、「世話を受ける」という、介護される身となる。
となると、「求める」上においては、「与える」という行為が必要になる。
それは、泉も汲み上げるばかりでは枯れてしまうため、注ぐという行いをこそ、必要になってくる。
私たちはよく言われるのだが、「行儀を良くしなさい」と言われる。
殊に食事中の行儀に対して、学校などでもよく注意されている。
ところが、家庭での親が行儀が悪いと、効果が上がらない。
その上に、親の「暴飲暴食、好き嫌い、食べ残し」等が、子供に多大な影響を及ぼしている。
親にしてみれば「どのように食べようと勝手」とか言う気かもしれないが、「食事をする」という行いが、家庭、家族、国家、人類、自然、宇宙全体の食生活に関わることだという気概を持たないことには、生命あるものとしての有り様を問われてしまう。
「我が行い」という、たった一つの「個人の行い」も、これ程の大きな意味を持つ。