青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

神では無い

2009年12月15日 | 短歌に政治や社会
天皇陛下と習中国副主席会見 押し切られた宮内庁、危機感(産経新聞) - goo ニュース

まるで、「完全なる神」の如く、全能ある神」の如くにごり押ししている。
これはノーベル平和賞受賞演説でも、国会などでの施政方針演説、いわゆる「マニフェスト」という政権公約なども、完全で全能な神の如きすばらしい演説を行っているが、しかしその後では次々と後退や遅延や後回しを余儀なくされている。
如何に「完全で全能な神」の如く取り繕っても、その付けや代償は量り無く大きなものになっている。

こうしたことは、先の「足利事件」で冤罪にされた方についても言える。
この方は、冤罪で苦しんだこと、どのような仕打ちにあい、どれほどの辛く悔しい思いをしたことを語っているが、しかしこうした冤罪に導かれた現在社会の制度について批評非難しているばかりであっては、冤罪などや痛ましい事件が無くなりはしないだろう。

元々こうした痛ましい事件が起きる土豪となっている元には、間違った「自由と平等」観がある。
ちょっと述べるなら、今回のニュースのことで民主党の幹事長は、こんなことを言ったものである。

「役人がどうだこうだ言ったそうだが、全く日本国憲法、民主主義を理解していない人間の発言としか思えない。信じられない。どうしても反対なら、辞表を提出した後に言うべきだ」

まるで自分が、国主か首相か党首みたいな言い方をしている。
こういうように「どのようなことを言おうと、行おうと自由」というような観念が社会全体に行き渡ってしまっているような現在においては、そうした元を正さなければ冤罪ばかりか痛ましい事件なども無くならない。

我々は「完全で全能」な「神」にはなれない。
しかしだからといって、無能でも、ない。
無能ではない我々のなすべき行いは、お互いをまとめ上げて行くことにある。
殊に選出されたもの、又親などは、みんなをまとめ上げて導いていかなければならないことには、家庭とか家族、社会とかも成り立たない。ただ「言いだしっぺ、押し付けっぱなし」であってはならない。
この「まとめ上げて行く」には、「豊かで、楽しく、楽(快適)」ばかりを求めているとバラバラになるが、節度と忍耐との元に思いやりに生きるなら、神の元に近づくほどにまとまって生きられるだろう。
コメント
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