青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

象徴論

2009年12月28日 | 短歌に政治や社会
「皇居を京都か広島に」 亀井氏“進言” 陛下は「京都、好きです」(産経新聞) - goo ニュース

「象徴」という事は、「国民らしさを表わす」という行為でもある。
それは又、「人間らしさを表わす」という行為でもあり、単に天皇陛下に負わされた責務ではない。我々一人ひとりが、「人間として、人間らしく生きる」ということが、そのままに背負わされる象徴としての責務になる。

ところが民主党幹事長は、「天皇には象徴としてプライバシーは無い」などという。
そういう自分は、国民によって選ばれた「選良」であり、国民の「象徴」ともならなければならない責務を負っている。それが判っていない。

これはこの人ばかりでなく、国会には、参院に天皇陛下をお迎えする座所があるが、この椅子には肘掛が無い。
ところが予算委員会などの実況中継を見ると、首相や閣僚などの席は、豪華な肘掛付きの安楽席ソファになっていて、そこに皆が何様の如くふんぞり返っている。
それだけではない。
「参考人招致」された者が座している席も立派な肘掛け椅子になっていて、ここに参考人は足を組んだりして座っている。
底には少しも自らを省み畏まって反省し、自らが人々の手本となり道しるべとなり、子供たちを導く縁(よすが)になろうとしていない。

こうした人達が、国の政に携わっているものだから、社会が乱れ、世の中が乱れる。
天皇陛下が、国民の象徴として勤められても、国民が選んだ選良たちや上に立つ者達がこの有様では、国民自体の象徴は崩れてゆく。

今の今日、一人ひとりが人としての人間らしい「象徴」にならなければ、行く末の象徴は無くなって行くだろう。