三、四日前から、三ヶ月ほど前から様子がおかしい孫のPCの修復を手がけていて、リカバリーの下準備の末に修復に成功した。
人間もPCみたいなもので、ソフトがなければただの物とか箱みたいに過ぎないものだ。そしてこのソフトというものも、正常に働くためには、ハード次第でもある。
となると、ハードとソフトは、お互いが相性が良くなければならないことになる。
前述したように、「求める」という事と「与える」という事には、一方に偏るべきではなく、調和が必要になる。これは「自発的対称性の破れ」という事が、以前にもちょっと述べたように、宗教性を持っている。その事を良く言い表し説明しているのが「縁起」、すなわち「因縁」である。
「因縁」は、「因」となるもの、それは一つのものではなくて相対するものを指し、その相対するものとの間に「縁」という何らかの関連付けが行われ、それが「果」としての「結果」として現れるという相関関係を意味している。
「自発的対称性の破れ」は、この「因縁」、「因果律」に沿って現れる現象である。
しかしこの「因果律」そのものには、「こうしよう」とか「ああしよう」という思いや思惑は、無い。ただ「因」と「縁」とに沿って、「果」という結果を出すだけである。
しかし「精神、心」というものを持つ私たち人間は、「因」に対して「こうしよう、ああしよう」という思いで「縁」を結ぼうとする。それがただ単に「求める」ということのみに偏った、「縁」になってしまい、この事が「幸福、幸せ」になる事を紛らわしくさせている。
ここに一つの例を、挙げよう。
「医療訴訟」という事が、よく行われている。
しかしこの発端は、病気になったから、それを治療して欲しかった事にある。すなわち「病気を治してほしい」と、求めていた事にある。
ところがそれが、治療法とか薬剤とかが元で医療事故に会う事になってしまい、それで医療訴訟をし、責任賠償を求めるという事になっている。
この事を良く見てみると、「病気」というものを、治してもらう事を求めていても、「治療を与えら」れているということには、少しも感謝していない。「誰が病気を治すか」という、そういう視点には立っていないで、ただ「求め」ているだけに過ぎない。
それなら、病気を自分で治せばいいのである。
こうした事は、相対的な関係に立っているという、自他のふれあいの中で、「求める」という事と「与える」という事との、「調和」の取り方ができていない事による。それで「バランス感覚」が崩れてしまっている。
私たちが生き、そして住んでいるこの世界は、大小、深浅、長短、高低等が調和よく取れている世界である。一方に偏ろうとすると、それを是正して、常に調和を保ちバランスを取ろうとする。
人間もPCみたいなもので、ソフトがなければただの物とか箱みたいに過ぎないものだ。そしてこのソフトというものも、正常に働くためには、ハード次第でもある。
となると、ハードとソフトは、お互いが相性が良くなければならないことになる。
前述したように、「求める」という事と「与える」という事には、一方に偏るべきではなく、調和が必要になる。これは「自発的対称性の破れ」という事が、以前にもちょっと述べたように、宗教性を持っている。その事を良く言い表し説明しているのが「縁起」、すなわち「因縁」である。
「因縁」は、「因」となるもの、それは一つのものではなくて相対するものを指し、その相対するものとの間に「縁」という何らかの関連付けが行われ、それが「果」としての「結果」として現れるという相関関係を意味している。
「自発的対称性の破れ」は、この「因縁」、「因果律」に沿って現れる現象である。
しかしこの「因果律」そのものには、「こうしよう」とか「ああしよう」という思いや思惑は、無い。ただ「因」と「縁」とに沿って、「果」という結果を出すだけである。
しかし「精神、心」というものを持つ私たち人間は、「因」に対して「こうしよう、ああしよう」という思いで「縁」を結ぼうとする。それがただ単に「求める」ということのみに偏った、「縁」になってしまい、この事が「幸福、幸せ」になる事を紛らわしくさせている。
ここに一つの例を、挙げよう。
「医療訴訟」という事が、よく行われている。
しかしこの発端は、病気になったから、それを治療して欲しかった事にある。すなわち「病気を治してほしい」と、求めていた事にある。
ところがそれが、治療法とか薬剤とかが元で医療事故に会う事になってしまい、それで医療訴訟をし、責任賠償を求めるという事になっている。
この事を良く見てみると、「病気」というものを、治してもらう事を求めていても、「治療を与えら」れているということには、少しも感謝していない。「誰が病気を治すか」という、そういう視点には立っていないで、ただ「求め」ているだけに過ぎない。
それなら、病気を自分で治せばいいのである。
こうした事は、相対的な関係に立っているという、自他のふれあいの中で、「求める」という事と「与える」という事との、「調和」の取り方ができていない事による。それで「バランス感覚」が崩れてしまっている。
私たちが生き、そして住んでいるこの世界は、大小、深浅、長短、高低等が調和よく取れている世界である。一方に偏ろうとすると、それを是正して、常に調和を保ちバランスを取ろうとする。