青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

死語

2009年01月15日 | 人生設計

私の家で購読している新聞では、新春特別連載が始まった。題名は「生き物たちのSOS」とある。
内容は、絶滅の危機にあえぐ動食物たちの立場に立った悲鳴のような記事である。

私は一日二日読んだが、その後は読む気がしなくなってしまった。
何故かというと、我々自身が「SOS」を発しているからである。介護難民と化し、格差難民と化し、医療難民とか、雇用難民と化し、いじめや中傷に、そしていろいろな犯罪や争いに巻き込まれている。
そして、そうした我々自身を見てみれば、我々自身を立て直すことによってこそ、「生き物たちのSOS」は、自ずと解決できると思うからである。

それゆえに、「生き物たちのSOS」を取り上げたところで、何にもならないと思う。何よりも今は、我々自身が、助け合い、かばいあい、分け合っていくことを進めていかなければならないだろう。

だが「人間」というものは、愚かなものである。
「俺が、私が」と、自分だけが良ければよいという思いが先行している。
この思いが改められない限り、「生き物たちのSOS」は、意味を持たない。
どのような賞を取ろうとも、何の役にも立たない。

第一、報道機関、マスコミメディアなどでも、カタカナ語や外来語を多用させて、母国語を死滅させようとしている。母国語は、カタカナ語や外来語の陰に隠れて、死語のようになりつつある。
それは「発展」という「評価、数値、優位」のために、死語として死滅させられていく運命にあるようだ。動植物と同じように・・・・

そういう有様なのに、自身を振り返ることなく「生き物たちのSOS」を企画したところで、矛盾している。

コメント (1)
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