国会では「先の衆参両議院選挙」が一票の格差状態にあることによって、「違憲」ばかりでなく「無効」判決も出されたことにより、その是正として「公選法改革案」が提出される。これが「0増5滅」法案である。
しかしこれは抜本的な改革案ではなく、当面の言い逃れ、先送り案でしかない。
こういう案を提出したのは、「議員の利害に直結」するからといって、議員たちは尻込みしていることにある。
「利害に直結」とは何だ !!!!
議員は、いや議員ばかりでなく閣僚も官僚も公務員も、国民の公僕である。間違っても「利害」に動き、動かされるべきではない。
それが堂々と「利害に直結するから」と言って、抜本改革から逃げようとしている。
参院選までまだ2カ月ある。これだけ時間があるのだから、高級料亭なんかで会合なんかせず、徹夜してでも纏めるべきことだ。
下の画像を読んでみると判るように、今社会を築いている我々の方針いかんによって、子孫の行く末が決められる。これは教育によって決められるものではなく、今の我々の態度いかんによる。その態度があやふやな状態では、子供たちばかりでなく、社会そのものが混乱してしまう。だから悲惨な事件が絶えない。
私にとって、選挙がある時の選挙演説は「ちんぷんかんぷん」である。なぜかというと、カタカナ語が多すぎるからだ。それでいて、このように英語を使いながら、現「日本国憲法」は、占領軍の押し付け憲法と言っているのだから、呆れてしまう。正しい日本語はどこかへ追いやって、カタカナ語の英語がまかり通っているのでは、それこそ英語の占領軍にこの国は占領されてしまっている。
命の心 2013/4/
授けられし命の 不思議なご縁
与えられた命を 人は我がものとする
我が物とする命は 授けし者の思いに沿わず
沿わないがために 人は苦しみ
人は泣き 人は悲しむ
我が物にする命は 幸せを求め
ハラハラドキドキの 感動に揺れる
感動が 感動を求める時の
揺れ動く 感動によって
四苦八苦の 狭間にのめり込む
命の心には 真はなく
ただありのままに 素直なままに
命の流れに 流れのままに従う
流れのままに 従い行くから
己という 自我はなき
授けられし 命の行く道は
自我なきままに ありのままに
素直なままに 流れ行く道
ありのままなれば 苦難はなく
素直なままを 受け入れていく
我々人間の「主義主張」として、「民主主義が定着している。
しかしこの「民主主義」が正しく定着しているかと言うと、それは言えない。
正しく定着しているなら、人類社会には、「平和」が出来上がっている。それが出来上がっていないのは、この「民主主義」が、我々は間違って受け止め、そして自分の都合のいいようにだけ使用しているからである。
この間違って使用し、自分の都合のいいように使用していることを、ちょっと例を持って述べることにする。
「民主主義」の根幹は、「基本的は人権」としている。そしてこの「基本的人権」の基本は、「自由と平等、表現の自由」と「男女平等、男女同権」にある。
ところが我々は、この「基本的人権」である「自由と平等、表現の自由と男女平等、男女同権」を、正しく機能させていない。正しく機能させるどころか間違って利用し、自分の都合のいいように利用している。
間違って利用し、自分の都合のいいように利用するということは、他の者にとっては都合の悪いこととなり、それで社会がもめて争い合うということとなる。
それをここでは「男女平等、男女同権」を取り上げながら、述べることとする。
女が強くなったとされてから、久しい。それはいま述べた「男女平等、男女同権」から、女の力が強くなっている。
しかしそうして強くなったのは、いわゆる「男勝り」的なものでしかなく、本来女として持っている「女らしさ」が強くなっていない。強くなっているどころか随分と弱くなり、ただ男と対等になろうとするばかりでなく、男をしのごうとさえしている。それが女の教育が高学歴するに伴い、社会進出とともにさらに強さを増してきている。
そしてそれに伴い、男どもは「草食系男子」などと揶揄される始末なる。
元々男女という性の違いには、男には男の役割、女には女の役割が本来のものとして求められるようにと、言わば「天の配列」として与えられている。
しかしそれが、現在の女たちをみると、「センスの良さ、ファッション、装飾品、芸能事」に走るばかりでなく、「男女交際」にも快楽を求めている。この「男女交際に快楽を求める」姿は、ネット上に恥も外見もない死体を振りまいて発信している。それも複数の男との関係でも羞恥もものかわ、入れ替わり立ち替わり関係している姿が大っぴらに覗かれる。
そしてこうしたことが婦人雑誌や女性週刊誌などに、「浮気や不倫」を託す様な内容のものを記事にして記し、マスコミメディアまでもが悪乗りしている。
こういう女を悪路にのめりこませて、女の本来の役割である「家庭の平和、夫に仕えての内助の効、子供のしつけと育成、近所付き合い、老人など親の世話」という義務を、放置させようとしている。
しかしこうした「家庭の平和、夫に仕えての内助の効、子供のしつけと育成、近所付き合い、老人など親の世話」という行いは、女が女としての「命の捨て方」になり、かつ捨て所になってくる。
これは男にも言え、男は男らしい「命の捨て方、捨て所」を見つけて実行していくというのが、我々人間としての使命といえる。
国民栄誉賞、なぜ2人一緒か? 官房長官会見で説明(産経新聞) - goo ニュース
こんな賞が与えられるなんて、素晴らしいことやね。
しかし福島原発事故で放射能まみれになって懸命に働いている人や、児童虐待阻止や体罰阻止などやら、老人ホームなどに勤務し糞尿にまみれて働いている人たちには、なんの賞も与えない。
与えるとしたら、「国民汚濁賞」でしか与えないかもしれない。
こんな「国民栄誉賞」の審議なんかしている暇があったら、「違憲状態」にある選挙制度を、党派の権力争い抜きにして、完全な選挙が行われるような仕組みに仕上げる審議に打ち込んでもらいたい。
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/politics/snk20130401585.html
今日のこちらの新聞には、コラム記事としてこんなのが載っていた。
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「うそをつくな」と叱られた経験は誰もが…
(2013年4月1日午前7時20分)
「うそをつくな」と叱られた経験は誰もがあるはず。その場しのぎや悪意のうそ。相手を思ってのうそ、本人も気づかぬうそ、楽しいうそだってある。うそも方便。きっとコミュニケーション手段なのだろう▼詩人の谷川俊太郎さんは「うそ」をテーマに多くの詩を書いている。「うそとほんと」と題した詩では、この二つが「双生児」であり「化合物」だと▼それゆえ、混ざって分からなくなる。「うその中にうそを探すな/ほんとの中にうそを探せ/ほんとの中にほんとを探すな/うその中にほんとを探せ」と激しく問いかける▼「嘘(うそ)は誠の皮、誠は嘘の骨」ということわざがある。うそと真実は骨と皮の関係にあるということ。真実を包み隠しているのがうそ。うそを暴いていくと真実に突き当たるのだ▼きょう4月1日はエープリルフール。「万愚(ばんぐ)節」と呼ばれ、うそをついても構わない日だが、もともと人間はうそをつく動物らしい▼企業や電力事業者、国家同士のうそ、マスメディアの「誤報」も罪深いのかもしれない。「ウソをつけない奴(やつ)は政治家と弁護士にはなれない」と強弁する党代表もいる▼谷川さんは「信じる」という詩でこう省察する。「自分にうそがつけない私/そんな私を私は信じる/信じることに理由はいらない」。新しい年度の始まりである。胸襟秀麗。やっぱりうそのない社会でありたい。
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この「ウソ」というものは、現在はちとおかしな言葉に振り替えられている。
どういう言葉かと言うと、「先延ばし」である。また「延期」も、よく使われる。
即ち「ウソではない」という意味で、こんな言葉が使われる。
こういう言葉を使いたがるのは、困ったことに国の首相たるものや、閣僚に官僚などの政治家、それに大企業の首脳なんかもよく使う。
これで、よく子供たちに「ウソをついてはいかん」というのだから、なにおか言わん。