二葉鍼灸療院 院長のドタバタ活動日記

私が日頃行っている活動や、日々の鍼灸臨床で感じたことなどを綴っていきたいと思います。

成長期の子どもの「身体」と「こころ」を考える ③

2010年02月06日 | 成長期の身体と心
少し違う視点から、子どもの成長を視ていきましょう。

時代は幕末から明治にかけての日本。日本が開国を迫られる前後から、多くの外国人が日本を訪れるようになりました。外国人は、日本にひいきをすることなく、見たままを日記や手記として残しています。それをまとめた書籍から子どもたちの様子をみていきたいと思います(幕末から明治初期)。

≪オズボーンの見るところも彼とひとしい。これは、川崎大師への遠乗りをした時の品川郊外での見聞である。

「道に群れている沢山の歩行者の中に、市場から家路を急ぐ農夫たちの姿があった。大都会で何か買い物したものを抱えているのだが、この気のいい連中のうち、子どものおもちゃを手にしていないものはごく稀であることに目がひかれた。おもちゃ屋がずいぶん多いことはすでに我々は気づいていた。こういったことは、この心のあたたかい国民が、社会の幼いメンバーにいかにたっぷりと愛情を注いでいるということの証拠だろう」

子どもの遊びの問題を研究すれば、

「日本人が非常に愛情の深い父であり母であり、また非常におとなしくて無邪気な子どもを持っていることに、他の何よりも大いに尊敬したくなる」

とグリフィスは言う。

そしてモースもまた述べる。

「日本人は確かに児童問題を解決している。日本の子どもほど行儀がよくて親切な子どもはいない。また、日本人の母親ほど辛抱強く愛情に富み、子どもに尽くす母親はいない」

グリフィスは横浜に上陸して初めて日本の子どもを見たとき、

「なんとかわいい子ども。まるまると肥え、バラ色の肌、キラキラとした眼」

という感想を持った。

また、スエンソンは、

「どの子もみんな健康そのもの、生命力、生きる喜びに輝いており、魅せられるほど愛らしく、仔犬と同様、日本人の成長をこの段階で止められないのが惜しまれる」

と感じた。≫

『逝きし日の面影』  渡辺京二 著


初めて日本という未知の文化を感じた外国人の手記ですから、なにかすごく新鮮に感じられるのと、読んでいるだけで楽しく、明るい気持ちになってきます。

幕末から明治初期はまだまだ、日本本来の国の空気や民衆の生活が息づいていた時期だと思います。その時代の親子関係、子どものおかれている環境が垣間見れるような文章であると思います。

現代の日本と比べてどうでしょうか
何が変わったのでしょうか
愛情とはなんでしょうか
本当に豊かな生活は現代でしょか、幕末でしょうか

さまざまな観方があると思いますが、輝く未来を担う子どもたちの「身体」と「こころ」が育まれる成長期という時期に、大人はどのように、子どもを導いていけるのか、どうしたら心も体も豊かな成人になってもらえるか、これは全て大人に責任があります。

正しい真実を子どもに伝え、いろんな形があると思いますが愛情を注ぎ、子どもも大人も過ごしやすい温かい社会をつくっていくことが大切なのだと感じます。スポーツでも、勉強でも、子どもの可能性をどうしたら引き出してあげられるか…そんなことを考えながら大人も一緒に成長していくのだろうと思います。

とりとめもなく書いてきました。長くなりましたが、これで終わります。
最後まで、読んで頂いて、ありがとうございます 

二葉鍼灸療院 田中良和
コメント (2)
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成長期の子どもの「身体」と「こころ」を考える ②

2010年02月06日 | 成長期の身体と心
人間の身体は24歳まで成長し続け、そこで人間の身体は完成されます。それからは新陳代謝を繰り返しながら、天寿を全うすべく人間の精妙な機能が発揮され、徐々に死へ向かって機能が低下していきます。

その身体が完成するまでの成長期は、その後の人生を形成する重要な基盤づくりの時期でもあり、その時期が、それからの人生の身体やこころの状態を左右すると言っても言い過ぎでないくらい大切な時期なのです

◎思い通りにいかない虫捕りが、子どもを育てる

(養老)そういう意味の体育って、今、ゼロになっちゃっているんじゃない?体育といえば、オリンピックでやるような競技しか教えないでしょ。体操とかサッカーとかさ。だけど、宙返りしたり、球を蹴ったりしても、日常生活とは関係がない。言ってみれば、西洋風のダンスみたいなものでね。氷の上でサーカスみたいに滑れたって、廊下で転んだりしているんだよ、きっと(笑)。それを体育教育と思い込んでいるんじゃないのかな。

(奥本)野球のピッチャーに話を聞いたことがあるんだすけど、あの決まった距離じゃないと、凄い球を投げられないそうですよ。あれより近くても遠くても、コントロールが狂っちゃうらしい。ピッチャーの投球って、完全に型にはめて投げてますから。
(池田)スポーツも、今は細かい理論がありすぎらしいですね。しかも情報社会だから、世界的にすぐ普及しちゃう。少年サッカーを教えるメソッドも、世界的にかなり統一されつつあるんだって。
(奥本)ビデオとかDVDとか、映像でメソッドが普及されているからね。
(池田)だから、アフリカでも中国でも日本でも北朝鮮でも、子どもたちは同じやり方で練習させられている。ドリブル上達法とか、ターンの仕方とか、みんな同じ。世界標準なわけです。
(養老)まさしく調教だな。
(池田)だから、世界中から同じような選手しか出てこない。やっているサッカーもみんな同じようになっちゃう。大人のプロゲームも、学生の試合も、子どもの大会も、みんな同じようなサッカーしかやっていない。というより、やれない。標準メソッドに従わないような個性派は、クラブとか学校の部活に残れなくて、排除されちゃうから。

(養老)それは僕は、絶対に身体に関するファシズムだと思う。ヨーロッパ起源のスポーツには、似たようなものが多いんですよ。その点、日本の武道はちょっと変わっている。一見ファシズムみたいけど、実は自由なんです。剣道だって柔道だって、礼儀や技はいろいろあるけど、最後は気合でしょ。
(池田)そうなんです。スポーツの醍醐味というのは、技術、戦術、体力に劣る側が、勝る側にどうしたら勝てるかという一点にある。そりゃそうですよね。勝てそうにない相手に勝つことが、無上の喜びなのであってね。じゃあ、どうしたら勝てるかと。さらに言えば、選手それぞれがスタンダード以上のことを試合で実践する以外にない。要するに教えられた以上のこと、スタンダードを超えるプレーを実践するしかない。コーチや先生の顔色ばかり見ている奴は、結局のところ役に立たないわけですよ。
(養老)そうなんだ。それをふつう、「カンがいい選手」と言うわけだよ。「動物的な感覚」と言ってもいい。

(奥本)今流行のマニュアル頼りの教育では、そのカンが育たない。むしろ、殺してしまいます。
(養老)偏差値教育がダメにしているんだよ。
(池田)そもそもスポーツをマニュアルで教えられると思っていること自体が、間違いなんじゃないの? 実地で体を動かして、状況に反応して、インプットとアウトプットを繰り返しながら、自分でカンを鍛えていくしかないんじゃないかな。
(奥本)スポーツ選手にも、虫捕りが必要だ(笑)。
(養老)まったく、そのとおり。
(池田)虫捕りもスポーツも、辛抱とか努力の結果でしょ。思い通りにならないということを痛感する。思い通りにならないのが当たり前なんだということの意味が大きい。ゲームだって、本来はスポーツと同じようなもののはずなのに、攻撃本があったりして、思い通りになっちゃう。

(奥本)虫は思い通りにならない。不条理である。そこが魅力であって、ゲームにはない、思いがけない筋書きが展開していく。
(養老)自分の思い通りにならないはずがないと思っていれば、思い通りになったときに、嬉しいと感じる。捕れるわけがないと思いながら虫捕りをしていれば、たまに捕れるとすごく嬉しい。友達と一緒に行って、自分だけが捕りたい虫を捕れない時の惨めさとか、いろいろなことがあるじゃないですか。そういう経験は、子どもたちの成長にとって、とっても重要ですよね。で、絶対あいつよりたくさん捕ってやる、どうしたら捕れるだろうと工夫したり、探したりするでしょ。あるいは、あいつはこうやっているんだなと一目置いたりね。
(奥本)子どもをダメにしようと思えば、何でも与えればいい。これはルソーの言葉ですけどね。何でも次々に与えられたら、まったく欲望がなくなっちゃうと思うの。「何か食べたい?」って聞いても「べつに」って返事が返ってくる。「強いて言えば、マックのあれかな」ぐらいになっちゃうでしょ。今の子は、腹を減らしてないもんなぁ。
(池田)うまいものは、たまに食うからうまいわけで、毎日毎日ご馳走を食べていたら、ありがたみも何もないですよ。
(奥本)今の子には、死ぬほどお腹がすいたという体験がないでしょ。いつになったらご飯を食べさせてもらえるかわからないという、不安な状況もない。
(池田)僕らはうんとお腹が減っていたから、学校から帰ってきて、戸棚にせんべいでもあれば「やったぞ、今日はラッキー!!」とか思いましたね。
(養老)僕は食物自給率を上げろっていう農水省の会議に出ているんだけど、教育のためには、もっと食物自給率を下げるべきかな(笑)。

『虫捕る子だけが生き残る』  養老孟司 池田清彦 奥本大三郎 対談集


ちょっと長い引用になってしまいましたが、現在はスポーツに限らず情報を得ようと思えば、様々な媒体から多くのものを得ることができます。その情報が、やろうとしている事に対して、また、その環境において適しているのかどうか判断し、それを活かすも殺すも、それにより良くなるも悪くなるも、自分の状況判断と分析しだいということです。

子どもたちを取り巻くスポーツなども同様なことが言えると思います。プロや外国のスター選手が効果があったから言って、練習方法やトレーニング機器を取り入れても、それは成長期の選手には効果が出ないばかりか、害にさえなることもあります。

また、この練習は何のために、どこを鍛える目的で、実際の動きのどんな状況のために、など自分で理解し、納得しないまま、言われた通り、指示通り、監督やコーチに怒られないように、ただ機械的に練習をこなしていたのでは、これも自分の身につくこともありませんし、また、集中力の欠如や不注意を生み、傷害を引き起こすなど害になることもあります。

指導者の教えを聴くことは大事なことです。そこから一皮むけ、自分の身体に自然な動きを身につけるためには、「どうしてこの練習をするのか?」「目的は?」など、自分の心に問いかけながら、意識を身体内部部(身体感覚)に向けていくことが大切なことであると思います。自分でいろいろ考えて実践して、失敗して、そして学んでいくことが成長であり、自分勝手ではない、本当の自由というものがわかってくるのかもしれません。

飢餓状態なんてのは、体験したくはありませんが、本当に日本は食事にしても恵まれているんだということに感謝しつつ、ギリギリのところまでやってみることを小さい頃から体験していくことも必要なのかもしれません。

もうちょっと、お付き合いくださいね~パート3へ

二葉鍼灸療院 田中良和
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成長期の子どもの「身体」と「こころ」を考える ①

2010年02月06日 | 成長期の身体と心
世の中は生と死が繰り返され成り立っています。人生の天寿を全うし、あるいは、天寿までいかない方もおられますが、人間社会の一翼を担い、社会を形つくってきた人々が身体のエネルギーを使い果たし「死」を迎えます。それがあるからこそ、新たに「生」を受けこの世に生まれてくる命にも意味が出てきます。そして、その新たな命が成長し、また、この世界の社会を形成していきます。

これは天地自然の悠久の流れであり、大自然の変えることのできない原則でもあります。

これからの社会、未来をつくっていくのは「子どもたち」です。その子どもたちの”身体”と”こころ”はどのような状況になっているのでしょうか。私たちにも子ども時代がありました。社会は変化しますので、それに伴い子どもたちの環境も変化していくでしょう。

現在、いじめ、非行、自傷行為、ひきこもり、親による虐待、最悪の場合には殺人や自殺などで奇跡的に授かった人間という尊い命を、その命を失うという悲しい状況が現代の子どもたちを取り巻く環境、社会の姿の大きな一面であると思います。

未来を担う子どもたちの環境を整え、その可能性を引き出すような明るい未来への方向性を示してあげるのが大人の役目であると思います。家庭において、地域社会において、行政において、政治において、日本において、世界において、そのような努力もなされていますが、大人がその役割果たしているかというと、そうでない場合が多いのではないでしょうか。

苦しい子どもたちの真の姿、心の叫びを受けとめ活動されている、”夜回り先生”こと水谷 修 先生、や”平成の駆け込み寺”と言われている西居院 住職 廣中邦充 先生がともに共通して言われることは、「子どもたちが悪いんではない、大人(親)がすべて悪いんだ」ということです。

さて、その社会というところも捉えつつ、成長期の子どもたちの「身体」と「こころ」を書籍を題材にして考えていきたいと思います。

◎思い通りにいかない虫捕りが、子どもを育てる

(養老)こりゃあひどいと思ったのは、京都駅に修学旅行の高校生が全員ベターッて座っているでしょ。
(池田)ああ、時々座っていますね。専用の待機所みたいなところがある。
(養老)それよ。何のためのスペースなのか、最近までわからなかったんだけど、まさか人間用とはね。動物って、常に次にどう動くかということを意識している存在なんだけど、あそこにしゃがみ込んでいる子どもたちには、その気配がまるでない。あれは、動物じゃないね、家畜だよ。指示されるまでは動いちゃいけないって、完全に調教されている。だから、立ちもしないでベターッと座っている。異様な風景です。
(奥本)だから、形のそろった農協のトマトやキュウリなんですよ。学齢以前から、そう教え込まれているんでしょうね。そもそも。今の母親がそうやって調教している。「○○しちゃいけません!」って、二言目には叱っている。
(養老)そうそう、それで思い出すんだけど、僕の友人に若原弘之君という、ラオスに住んでいる虫捕り名人がいてね。彼は、正反対なの。どういうことかというと、たとえば、山の中に若原君が捕虫網を持って、ぽっと立っている。見れば誰でもわかるんだけど。ただ立っているんじゃなくて、ふわっと立っているんですよ。歩くのも、ふわっていう感じ。
(奥本)仙人か忍者みたいな男ですから。
(養老)そうそう。気になって、しばらく見ていたことがあるけど、山の斜面の上りでも下りでも同じなんだ。歩調がまったく変わらない。当たり前のことだけど、チョウって、どこから飛んでくるか分からないじゃない?後ろから頭越しに来るか、前から飛んでくるか。どこから現われても、いちばん楽に網を出せる体勢って、そういう「ふわっ」の姿勢なんですよ。どこにも力が入っていない。
(奥本)いわゆる自然体。
(池田)虫捕りの基本です。
(養老)そうか、基本かぁ(笑)。でね、武道家も同じことを言うんですよ。それを古武道の用語では「居着かない」と言うらしい。その場にベターッと居着いていない。次の動きが常に予想されているあり方ですよね。素人が剣を構えると、相手の次の動きを一方向しか予想できない。ところが達人の武道家になると、相手がどこから来てもいいという構えになる。それを「隙がない」と言うわけです。ああいう立ち方をしている男がいると、昔はヤクザも避けて通ったんですよ。
(池田)ヤクザも避ける虫捕り名人(笑)。

『虫捕る子だけが生き残る』  養老孟司 池田清彦 奥本大三郎 対談集


人に言われたこと、他人から指示を受けたこと、これを守って行動することは大切なことです。しかし、今、自分がどんな状況におかれていて、周囲の環境をどんな感じで、次にどうしたらいいかということを、自分で判断し行動できるという能力は、現代の子どもたちに身についているでしょうか。

こうしちゃダメ、あそこへ行ってはダメ、これは禁止、家庭や地域、あらゆる社会において多くの規制に縛られているのが現状です。規制の中で、いわゆるいい子にしていれば楽ではあります。しかし、そこには好奇心や冒険心、問題意識など実践から学ぶべき智慧や応用力を養う力が失われていきます。

虫捕り名人や武道の達人の話で出てきたように、不測の事態、想定外の事態に、身体やこころが、自然に無理なく対応できるためには、やはり身体を動かすことが大切なのだと思います。成長期の子どもの頃にそれを養うには、身体を使っての”遊び”、自然の中で行う“遊び”が必要なのだと思います。

そこに、失敗があり、思い通りにならないことが世の中にはあることを知り、それでは、どう打開していくかという目的意識や智慧がつき、さらに実践することで、身体もこころも養われてくるのだと感じます。

また、虫捕り名人と武道の達人の共通する身体の要素としては「身体に力みがなく、どんな状況の変化にも対応できる自然体」があると思います。これは科学的にも筋肉を柔軟に使うことができ、力を入れずにパワーを発揮できる筋肉の反射(伸長反射)を存分に使いこなせる状態と言えます。ということは自分の力以上のパフォーマンスを引き出すことにも繋がっていくのです。この状態は、非常に脳がリラックスした状態と言えるのだと思います。

このような身体やこころをつくるためには、たとえば野球やサッカー、バスケなどスポーツにしても、練習だけ行っていればいいというものではなく、日常の何気ない動作や行動が大事であり、それを養うには自然の中で遊び、大自然の中から様々なことを学ぶことが必要だと感じます。

長くなりましたので、続きはパート2で書きたいと思いま~す

二葉鍼灸療院 田中良和
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