二葉鍼灸療院 院長のドタバタ活動日記

私が日頃行っている活動や、日々の鍼灸臨床で感じたことなどを綴っていきたいと思います。

ワタミ株式会社 会長 渡邉美樹さん 講演会 4

2011年11月02日 | 経営って何?!
10月10日(月祝 体育の日)に金沢歌劇座で開催された、ワタミ株式会社 渡邉 美樹 取締役会長の講演会で聴講したことをしたためています。



続きです…


 自分の好きな人生を生きるための五カ条 

第一条「どうしてもこれをやりたい」と思うこと…パート3に書いてあります。


第二条「夢に日付をつける」
・自分の夢に「○○年までに…」というように夢に日付を設定する。そうすると、近々のゴールが設定されるわけだから、そこに行くまでに自分が「今」何をしなければならないかが分かってくる。また、目標と期限が設定されたことで、明確に、強く思うことができる。「今」の現実を変えていく力となる。

渡邉さんは仕事を始める前、北半球一周の一人旅に出た。世界各地をわたり歩き思ったことは、あらゆる国で宗教や民族、歴史において差別が多いことを感じた。旅の最後に、ニューヨークの多国籍の人たちが集うカフェバー(だったと思ったが…)に入ると、いろんな国の人が人種や肌の色、言語、国籍関係なく、差別なく、飲んで、食べて、歌って、楽しんでいるのを見て感動して涙が自然に出てきたそうです。その時に「外食産業をやろう」と思ったということでした。

その旅から帰ってきた時の所持金は80円。友人に電話して迎えに来てもらうために使ったそうです。そして、まず「外食産業を起業するには何が必要か」考えたところ、会計処理に関する勉強を徹底的に行いました。(私もここの部分をもう少し勉強しないと…と再認識させて頂きました)現在では、渡邉さんは決算書をマンガを読むようにすらすらと見ることができ、その決算書を見るだけで、その会社や社長が何に力を入れているか、どこが弱点か、改善点か、今から伸びていくかが分かるそうです。(ここまで徹底してやらないとね…実践することだね)

会計処理の勉強を行った後は、資金づくり。当時、会社を起業するためには300万円必要でした。そのお金を貯めるには…給料のたくさん貰えるところに…そこに月給で40万以上貰える企業がありました。しかし、この企業は当時、猛烈に働かされるので有名な○○○急便という会社で、20時間労働もざら、ということでした。迷いなく入ったのはいいのですが、相当、辛かったようです。ここで、いついつまでに資金をつくって、会社を設立すると夢に日付を設定したそうです。その企業は大卒者の就職者は皆無で、「大卒」と呼ばれていたそうです。
その業務が過酷だったため腰を傷め、腰椎椎間板ヘルニアの手術を40代の時に行ったそうです。


第三条「イメージする」
・ただ思っているだけなら誰にでもできる。その思いを強く、継続して持ち、潜在意識にまで刻み込むくらいに思いを深めることが大切。
・寝室の枕元には手帳が置いてあり、自分が「こうやりたい」とか、「こうやったらいいかも」ということが寝ている時にヒラメイタ時、すぐに書いておくそうです。このメモを見て、さらに思い、さらに工夫していくそうです。そして、この手帳はいつもすぐに文字でいっぱいになる。


第四条「あきらめないこと」
・「どうしてもやりたい」と思ったのなら、途中であきらめたりしない。「どうしてもやりたい」のだから、様々な障害があるかもしれないが乗り越えていく。
・方法は無限にあるのだから。
・ハードルを自分で決めて乗り越えていく。ハードルは越えるためにある。限界は自分で決めない。
・あきらめない気持ちが=パワーだ。

経営は格闘だ


第五条「運」
・夢を見る、「どうしてもこれをやりたい」と思う、これは神様からのシグナルであり、叶う可能性があるから夢見るのです。
・「運」はあると思う。「運」を引き寄せるためには、夢に挑戦しているということが条件でしょう。
・奇跡もある。そして奇跡も叶う。
・「運」や「奇跡」を引き寄せるためには、誠実に、謙虚に、努力する姿勢で生きることが必要。
・地道に、夢を持ち、人生を歩んでいれば、きっと神様は見ていてくれる。見ている人は必ず見ている(そこに神がいる)。

今の渡邉さんの夢は…
12年にわたりカンボジアやネパールで学校建設や孤児院の建設などに関らせて頂いている。しかし、まだカンボジアには10万人以上の孤児が存在する。また、最近はバングラディッシュでも活動を開始した。その孤児すべてに、ご飯を食べさせてあげたい。子どもたちに普通の生活をさせてあげたい。いつになるか分からないが、いつか救ってあげたい…そんなことが渡邉さんの「今」の夢だそうです。


≪第二部は、山野 之義 金沢市長・渡邉会長の対談 「夢・挑戦!」≫




 山野 之義 金沢市長


まずは、山野金沢市長から、渡邉さんが企画して行われた「陸前高田市 復興街づくりイベント」へ金沢市として出店した報告があり、その経緯の話がありました。
山野市長が当選したのは48歳。陸前高田市の戸羽市長も今年、市長に46歳で当選。50歳以下の市長で組織される、全国青年市長会というものがあり、そこの協定に「もし、青年市長会のメンバーの地域で自然災害など何かあった場合は、全員が協力して助力する」というものがあるそうです。ですから金沢市としても、出来る限り迅速に対応し、協力しているということでした。

山野市長が、戸羽陸前高田市長との話で、戸羽市長は市民のため日夜休みなく動いていたという話のあとに、戸羽市長は、奥様と子ども二人の4人暮らし。3.11の朝、奥様からの電話で、「今日は用事があるので昼から家にいるね」、市長は「できるだけ早く帰るよ」という会話が奥様との会話の最後になったとのことでした。
津波が押し寄せ、市の職員は市庁舎の屋上へ、そこから市長の自宅が見え、波に飲み込まれていくのを茫然と見ておられました。奥様は帰らぬ人となりました。子どもは学校へ行っていたので助かりました。その後は、対応に追われ自分を省みる時間もなかった。ここに来て、復興はまだまだだが、少し落ち着きを見せてきたところで「市長として、夫として、父親として、これで良かったのか…」そんな思いを持ちながら、今も市民のために頑張っているとのことでした。

山野市長の政策に対する考えの一つが「スピード感」。政策決定が速くなることは、我々市民にとっては、非常にありがたいことであるが、この感覚を任期中、ずっと持ち続けて頂きたく思います。

復興支援に対する金沢市としてのスピードある対応、スピード感ある政策決定に一定の評価をしながらも、渡邉さんは「被災地はそんなレベルの話ではない」「本当に政治や政治家、官僚は対応が遅すぎる」「政治を見張り、政治にもの言う、そんな市民の目がもっと必要だ」と話された。これは、行動し、実践してきた人間としての重みある言葉であった。
そんなことを言う時の渡邉さんは、顔は笑っているが、目と語気は非常に厳しいものがあった。

山野市長、渡邉さんの共通した言葉としては、行政側は要望に対して、”できない理由を探し””それを正当化しようとする”という話があった。山野市長が、その後に、「すべてがそうなのではなく、一所懸命、市民の声を反映しようと仕事をしている職員はたくさんいる」という言葉を付け足された。それも当然でしょう。私たちも日ごろ金沢市役所の健康総務課、市民スポーツ課などなど、たいへんお世話になっていますのでよくわかります。

渡邉さんは、組織が上手くいくか、そうでないかは99%はトップで決まる。

渡邉さんは、「強い会社」について、「社員全員が、その会社の歴史を紐解き、その歴史を重ねていける。そんな社員がいる会社」「また、それを誰にでも話すことができる、そんな会社」が強い会社であると話されました。

スピード感のある政策の実行例として、金沢市と台南市の観光協定、その後の姉妹都市締結について長田アナから話題が提供された。台南市には烏山頭ダムがある。これは第二次大戦中、金沢市出身の八田與一という方が指揮して出来上がったダムです。そのダムのおかげで台湾の多くの人たちの生活が豊かになり、今でも台湾の皆様に愛され感謝祭(墓参など)が行われています。お墓や銅像だけでなく、記念館や記念公園もあるくらいです。
その感謝祭に山野市長は8年前より出席。しかし、そのような下地があり、草の根運動として、30年前より墓参に金沢から訪れていた民間の団体があったからこそ、話がスピーディ―に進んだ。そんな感謝の念の上に成り立っているとのことで、私は少しお手伝をさせて頂いただけであるということであった。

夢への挑戦(最後に一言でまとめると)

渡邉さん:夢は叶う、叶わないわけがない。大きな夢へ進んでいくことが楽しい人生。その夢を追いかけるプロセスが大切であり、たくさんの「ありがとう」をどれだけ貰って、人として成長していくかが大切である。


山野市長:できない理由、やれない理由を正当化せずに、やれることはリスクをかぶってでも挑戦する。夢は口に出して言うと(公言する)、プラスのエネルギーが伝播して、周囲にいい影響を与える。そこから新しい挑戦が生まれ、未来をつくっていく。



た~いへん長いブログになりましたが、いい私の誕生日(10月10日)、大収穫の誕生日を過ごさせて頂きました。

最後まで、「長いな~」と思いながら、お付き合い頂き、お読み頂いた皆さま、

ありがとうございます


二葉鍼灸療院 田中良和 
コメント
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