前にも、寒河江の慈恩寺について書いたことがあったが、今回はどうやら「彼岸花が咲いて綺麗だよ」と言う情報に基づいて行ってみた。
西暦700年代に、インドのバラモン大僧正が寒河江に来て寺(国を守る寺)を建立したと、言い伝えられていると言う事だが、1200年以上の前にインドとの交流が有ったということ、恐らくサンスクリットの言葉を話すインド人に従って、寺院を建立した寒河江の人々のこと、そして、坂上田村麻呂が奥州征伐に来る前に、既に国分寺が出来ていたこと等など、今考えてみれば信じられない奇跡のような感じである。
幸いと言うか、今日は慈恩寺本堂も、お薬師様も扉を開けていて、中の仏像、木彫りの彫像を見ることが出来た。
どうやら、それらの木像は主として鎌倉時代のものであるらしい。
目には、当時技術的には難しかったであろう、ガラス製の『義眼』がはめ込まれていた。
仏師の荒々しい息遣いが、聞こえてきそうなできばえであり、今にも過去から声が聞こえてきそうな気がした。
前に紹介した、草葺屋根に雑草が生えていた『鐘楼』。
ただいま、改修中の様であった。 鐘突きには、何等支障が無かったようなので、軽く鐘を一突き、煩悩を追い払ってきた。
家族が崩壊の危機に瀕し、地方が崩壊の危機に瀕し、国が崩壊の危機に瀕している。
ヒトが生きる為に大切な事は何か、もう一度『バラモン僧正』の心意気に、重ね合わせて考えてみたい。 そんな雨の一日でした。
ストレス無く、世界統一に向かうなら何の異議も無いが、日本民族の滅亡に、ただ向かうだけなら、全知全能を使って阻止する覚悟は有ります。
西暦700年代に、インドのバラモン大僧正が寒河江に来て寺(国を守る寺)を建立したと、言い伝えられていると言う事だが、1200年以上の前にインドとの交流が有ったということ、恐らくサンスクリットの言葉を話すインド人に従って、寺院を建立した寒河江の人々のこと、そして、坂上田村麻呂が奥州征伐に来る前に、既に国分寺が出来ていたこと等など、今考えてみれば信じられない奇跡のような感じである。
幸いと言うか、今日は慈恩寺本堂も、お薬師様も扉を開けていて、中の仏像、木彫りの彫像を見ることが出来た。
どうやら、それらの木像は主として鎌倉時代のものであるらしい。
目には、当時技術的には難しかったであろう、ガラス製の『義眼』がはめ込まれていた。
仏師の荒々しい息遣いが、聞こえてきそうなできばえであり、今にも過去から声が聞こえてきそうな気がした。
前に紹介した、草葺屋根に雑草が生えていた『鐘楼』。
ただいま、改修中の様であった。 鐘突きには、何等支障が無かったようなので、軽く鐘を一突き、煩悩を追い払ってきた。
家族が崩壊の危機に瀕し、地方が崩壊の危機に瀕し、国が崩壊の危機に瀕している。
ヒトが生きる為に大切な事は何か、もう一度『バラモン僧正』の心意気に、重ね合わせて考えてみたい。 そんな雨の一日でした。
ストレス無く、世界統一に向かうなら何の異議も無いが、日本民族の滅亡に、ただ向かうだけなら、全知全能を使って阻止する覚悟は有ります。