今日は、朝からテレビがかまびすしく報道しているようだが、今度の『パソコン遠隔操作事件』の犯人、再び誤認逮捕という悪夢は警察側からしたら、有ってほしくない現実と言う事だろう・・・ 。
二度ならず、三度四度と失態を重ねた警察の『自白捜査』、問題点はいろいろと指摘できるだろうが、基本は取り調べの『自白偏重』と、その取調べの密室性が原因であるのだろう。 果たして、これが全面的な可視捜査、取調べであったのなら、ここまで警察が失態を重ねる事も無かったのだろう。
山形市の『救急車不出動事件』これも将来を嘱望される有為な青年が、もし、救急車が出動していたら、死ぬ事はなかった事は明らかであろう。 市職員側(と市長)の弁護の為の、ただ一つの拠り所は、救急車要請者(患者)が「タクシーで、病院に行ける。」と言った事とある。 半ば『心神喪失気味』の、患者の『うわ言』を自分たちの弁護の拠り所にしている、山形市長の責任逃れは、警察の取調べによって半ば常軌を逸した所(精神的な)に被疑者を追い込んで、取調べをする警察と似ているところが有る。
正常な気持ちで無い『被害者』に、法的な過去の事例が腐るほど頭に入っている、市側担当者の専門的な言いくるめ方・・・、その、救急車の受付の口の聞き方が、市長の親族に対する『ソレ』と、身寄りやバックの無い人に対する『ソレ』が、大きく違うことは無かったのだろうか・・・?
『パソコン遠隔操作事件』で、警察が捕らえた犯人は、ウィキペディアに拠れば4人とある。 そして、当初は4人とも容疑を否定していたが、二名は取り調べの過程で、容疑を認め、その罪が裁判に持ち込まれ有罪とされた。 その筋(弁護士等)の、ブログを読めば警察が取調べで,『有りもしない事実を自白させることなど、赤子の手をひねる事より簡単』という主旨の書き込みもある。 そして、当時の新聞はどれも「犯人は、自白・・」とあった。
有る意味、山形市の山大生死亡事件と今回のパソコン遠隔犯罪は、同じルーツを持つ公務員特有の、無責任、責任放散に原因が有るのではないか・・?
謂わずと知れた『山形市長』は、行政に長年携わった市職員の『アガリ役』として、現職にありついている。 それが、本当に市民サイドか公務員サイドかという疑問点を、いみじくも今回の救急車事件が表してくれている。
弊ブログで何回か書いてきたが、日本人は何時の頃からか『和人』あるいは『倭人』という言われ方が、古来より定着しているそうで有るが、その紀元は自分の意思決定を『他人』に委ねると言う意味、所謂、自分の生きる道を他人に決めてもらう『性癖』が、常識としてその民族に定着している事という事であろうか・・ 。 筆者に言わせれば、特にここ山形県人において、その特性が強く見られるような気がする。 自分の命くらい他人に委ねないで、自分で決めるような『意気』を持ってもらいたい気がする・・ 。
一見、暴力団より酷い取調べとも思える『特捜』とどこか繋がる今回の消防署受付(或いは市長)、市民に対する立場、所謂『委ねられている人』と言う、特権意識を共有している為ではないのか・・・?
福島県佐藤栄佐久元知事や枚方市副市長、或いは元小沢秘書の石川氏の女性秘書への検察の追い込み、あるいは江副氏に対する取調べの正当性、田中角栄氏を落としこんだ特捜と検察、全てその立ち位置、或いは取り調べ目線が、一般国民の正義とは遥か乖離しているのではないか・・・ 。 それは、とりもなおさず彼ら自身の特権意識と現状維持(既得権益層維持)意識が無ければ、出来ないことではないのか・・・ 。
そんな手法が、何時までも続くはずは無い。 知らぬ間に平然と『見えざる手』による天誅が下る事があるのは歴史上の必然であろう。 この、見えざる手に拠る導きを、ウォール街金融家たちは、『テロ』と一括りにして、呼んでいるのではないか・・・ 。