秋の引っ越しに向けて、断捨離を続行中。
新居に持って行けるものは限られるので、処分しなければならないモノが大量にある。
そのほとんどが私のモノではない。
それでも、ひとつひとつが愛おしい。
大なり小なり、愛する人の面影があるのだ。
日常的に使っていたもの。
使ってはいないけど毎日、目にしていたもの。
仕舞い込まれていたものでさえ、この家に住んでいた人が
大事にとっていたのかと思うと、
そうそう割り切ってホイホイと捨てられない。
もちろん、もう誰も使わないだろうと思うものは捨てているのだが
まだキレイだったり、使えるものは、
もしかして、誰かが使ってくれるかも、欲しい人がいるかも・・
と思ってしまう。
そんなワケで、気休めだけれどこんなコトを始めたりして。
空いているガレージに少しだけど出してみた。
人通りが多くもないので、そんなに減らないだろうとは思うけど。
色々やって、それでも貰い手が無ければ捨てるだろう。
モノの処分は、そのプロセスが大事なのだと実感した。
自分で納得して、気持ちの整理ができてからの処分でないと
それを大事にしてきた人の気持ちを断ち切ってしまうような
罪悪感にさいなまれる。
それに、捨ててしまったら思い出とか記憶も減っていく気がして怖い。
ちょっと大袈裟かもしれないけど、
誰かが残したモノを受け継いで使い続けるというのは
その人の気持ちというか意志というか生活感を繋げていく、
みたいな気がする。
これからの人生、何を所有しながら生きていくか
ちょっと真剣に考えなければ。
新居に持って行けるものは限られるので、処分しなければならないモノが大量にある。
そのほとんどが私のモノではない。
それでも、ひとつひとつが愛おしい。
大なり小なり、愛する人の面影があるのだ。
日常的に使っていたもの。
使ってはいないけど毎日、目にしていたもの。
仕舞い込まれていたものでさえ、この家に住んでいた人が
大事にとっていたのかと思うと、
そうそう割り切ってホイホイと捨てられない。
もちろん、もう誰も使わないだろうと思うものは捨てているのだが
まだキレイだったり、使えるものは、
もしかして、誰かが使ってくれるかも、欲しい人がいるかも・・
と思ってしまう。
そんなワケで、気休めだけれどこんなコトを始めたりして。
空いているガレージに少しだけど出してみた。
人通りが多くもないので、そんなに減らないだろうとは思うけど。
色々やって、それでも貰い手が無ければ捨てるだろう。
モノの処分は、そのプロセスが大事なのだと実感した。
自分で納得して、気持ちの整理ができてからの処分でないと
それを大事にしてきた人の気持ちを断ち切ってしまうような
罪悪感にさいなまれる。
それに、捨ててしまったら思い出とか記憶も減っていく気がして怖い。
ちょっと大袈裟かもしれないけど、
誰かが残したモノを受け継いで使い続けるというのは
その人の気持ちというか意志というか生活感を繋げていく、
みたいな気がする。
これからの人生、何を所有しながら生きていくか
ちょっと真剣に考えなければ。
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