教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

教育史研究とは

2007年01月22日 18時25分10秒 | 教育研究メモ
 現代の教育問題は、ある瞬間に何の前触れもなく突然生まれ出るものではなく、長い歴史の中で徐々に形成されていくものです。100年前のある教育問題は、現代の同様の教育問題とつながっているものなのです。問題解決は、問題そのものを根本的に理解してこそ可能になります。現代の教育問題は、歴史的に理解してこそ本当に解決することができます。
 ただし、100年前の某教育問題は、100年前の事情(外交・政治・経済・思想・文化など)の中で成り立つものであり、同様の問題だからといって無媒介に現代の感覚や知識で判断すると、大きな誤解を生むことになります。そのような形で理解しても本当に理解したことにはならず、たとえ現代の問題の源流として取り扱っても、現代の問題を理解することはできません。
 そのため、100年前の教育問題を理解するには、その教育問題をめぐる100年前の事情の中で理解することが重要になってきます。100年前の教育問題およびそれをめぐる事情を理解するには、当時の史料(文献・物など)を使って当時の事情を再現する必要があります。この再現作業が、教育史研究です。そして、100年前の教育問題およびそれをめぐる事情の再現(教育史研究)は、特殊な技術を必要とする作業であり、専門家でなくては十分な再現はできません。その専門家こそ、教育史研究者・教育史家なのです。
 100年前の史料なら、200年前より現代と共通する点も多いため、専門家でなくとも理解することは比較的容易なようにも思えます。しかし、そこにも誤解の可能性はひそんでいます。例えば100年前の「社会」という言葉は、現代の「社会」という言葉と違う意味を持っており、100年前の史料に残された「社会」を現代の感覚で読むと、誤解が生じます。教育史研究者も現代に生きる者ですから、本質的にそのような誤解を生じる可能性を持っています。しかし、教育史研究者は、そのような誤解が生じる可能性を自覚しながら史料を読み、100年前を再現する技術と知識を持つ者であり、誤解に無自覚かつ無防備な者よりも精度の高い再現を行うことができます。これこそ、教育史研究者の存在意義である、と思います。

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 昨日の記事につけてくださった上田さんのコメントに刺激されて、一気に書き上げてみました。シメが甘いようにも思いますが…
 今日は本調子ではないものの、生活に支障のない程度までには回復しました。大事をとって午後から登校。登校後は、上の記事を書いたり、D4審査の資料作成をしていました。資料の進捗状況は、ぼちぼちでんな。いちおう、全体の半分くらいまで書き上げることができました。上の記事に食われて、お勉強の方は後回し。体調に気を遣って早く帰ることにする。
コメント (2)
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